第13話 不本意な契約
「ああっ、悠作様! ドアを開けてください! 今日のところは帰りますが、明日も明後日も、あなたが首を縦に振るまで私は通い続けますからねぇぇぇっ!!」
鉄扉の向こうから響く、限界オタクと化した絶世の美女——トップVtuberでありA級魔法剣士の高橋すずによる狂気の宣言。
鈴木悠作は、防犯用のU字チェーンとサムターンをきっちりとロックした玄関のドアを背にして、深い深いため息をついていた。
(……最悪だ。ついにヤバいストーカーまで湧いてきやがった。借金取りの連中め、俺に法外な契約書にサインさせるために、あんなプロの劇団員まで雇うとは)
悠作の事なかれ主義の論理エンジンは、すずの存在を「ギルドの罰金を取り立てるための、悪質なハニートラップ要員」だと完全に断定していた。
時刻は23時半を回ろうとしている。
悠作は足元にすり寄ってくるポチの頭を撫でながら、外の気配を探った。
『……悠作様。私は本気です。ここで一晩でも、二晩でもお待ちしております』
ドアの向こうから、ボソッと微かな声が聞こえた。
どうやら、彼女は本当にコンクリートの廊下に座り込み、長期戦の構えに入ったらしい。
(……おいおい、冗談だろ。マジで朝まであそこに居座るつもりか?)
悠作の背筋に、冷たい汗が流れた。
(もし明日の朝、早起きの隣人や神経質な大家に、あんな高級な格好をした美人が廊下でうずくまっているのを見られでもしたらどうなる? 速攻で警察を呼ばれて事情聴取だ。それどころか『風紀を乱した』なんて理由で退去勧告を出されかねない。それは俺にとって、S級ボスのブレスを浴びるよりも遥かに絶望的で、回避不能な社会的な死だ……!)
悠作は葛藤した。
部屋に入れればハニートラップの餌食になるリスクがある。だが、外に放置すれば「平穏な住処の喪失」という確実な実害が明日にも発生する。
事なかれ主義者としての損得勘定が、高速で天秤を動かした。
(……クソッ、相手の盤面上に立たされるのは癪だが、このまま放置する実害の方がデカすぎる。よし、こうなったら『家政婦』としてこき使ってやる。労働を強いることで、こちらが加害者の立場に回れば、相手も下手な契約書は出しにくくなるはずだ)
悠作は苦渋の決断を下し、再びドアの鍵を開けた。
ガチャリ。
金属音が響いた瞬間、廊下に座り込んでいたすずが、弾かれたように顔を上げた。
「……入れ。ただし、変な契約書には絶対にサインしないし、俺の通帳と印鑑の場所は教えないからな」
「ゆ、悠作様……! はいっ! ありがとうございます!!」
すずは歓喜の涙をポロポロと流しながら、まるで聖地に足を踏み入れる信者のような神妙な足取りで、四畳半の部屋の中へと入ってきた。
悠作はすぐにドアを閉め、鍵をかけた。
「はぁ〜っ……! ここが、悠作様の神聖なる修行場……! ああっ、空気が、悠作様の呼吸した空気が肺に染み渡ります……!」
すずは目を閉じ、四畳半のむっとした生活臭を、高級なアロマでも嗅ぐかのように深呼吸した。
その完全にキマっている限界オタクの挙動に、悠作はドン引きして距離を置いた。
「おい、変なこと言ってないで座れ。……お前、俺の弟子になりたいとか言ってたな」
「はいっ! お料理もお掃除も、夜のお世話も、何でもご奉仕いたします!」
「夜の世話とかそういう卑猥なハニートラップは間に合ってる。……いいか、ここに居座らせる以上、タダ飯を食わせる気はない。家賃と飯代の代わりに、部屋の掃除と家事を手伝え。何もせずにいる奴は、容赦なく外に放り出すからな」
「悠作様のお部屋の掃除……! 私のこの手で、悠作様のお身の回りを綺麗にさせていただけるのですね!? 喜んでお受けいたします!!」
すずはA級探索者のプライドなど一ミクロンも残さず、嬉々として承諾した。
悠作は「借金取りの劇団員にしちゃ、やけに素直で都合がいいな。まあ、タダで家政婦が雇えると思えば、悪くない取引か」と、自分に都合の良い解釈をして納得することにした。
★★★★★★★★★★★
翌朝。
昨日ショートして壊れたスマートフォンの充電器を買いに行くのを面倒くさがり、アラームなしで眠りに就いた悠作は、昼前の11時になってようやく目を覚ました。
「……ふわぁ。よく寝た」
悠作が身を起こすと、そこには信じられない光景が広がっていた。
築40年の古びた四畳半の部屋が、まるで新築のモデルルームのようにピカピカに磨き上げられていたのだ。
壁の黄ばみは消え去り、フローリングはワックスをかけたように輝き、キッチンのシンクに至っては水垢一つなく鏡のように反射している。
「おはようございます、悠作様! 朝の清掃、滞りなく完了いたしました!」
部屋の隅には、エプロンを身に着けたすずが、完璧な姿勢で控えていた。
彼女は、A級魔法剣士としての高度な魔力制御を駆使し、微細な『風魔法』でホコリを一掃し、『浄化魔法』を全力で展開して、このボロアパートに染み付いた数十年の汚れを原子レベルで消し去っていたのだ。
だが、そんな高度な魔法技術が使われたことなど知る由もない悠作は、純粋に感心して頷いた。
「おー、すげえな。劇団員にしとくには惜しい家事スキルだ。プロの清掃業者並みじゃないか。……ん?」
ふと見ると、ポチが部屋の隅のクッションの上で丸まり、すずの方を警戒するように『グルルル……』と低い声で威嚇していた。
S級幻獣から放たれる強烈なプレッシャーと冷気に当てられ、すずの顔には冷や汗が浮かんでいる。
「私のような未熟者が、悠作様の眷属であられるS級幻獣様に安易に近づくなど、おこがましい行為でした。申し訳ありません……」
すずはポチに対して土下座せんばかりの勢いで平身低頭していた。
悠作がポチの頭を撫でてやると、ポチはコロッと態度を変え、無防備にお腹を見せて甘え始めた。
「犬の躾もできないのか。まあ、動物が苦手な奴もいるしな。気にするな」
「は、はい……! 精進いたします!」
悠作は「犬にビビる劇団員」というレッテルをすずに貼り、ゆっくりと立ち上がった。
「よし。完璧に掃除してくれたご褒美だ。今日の昼飯は、少し奮発してやるか」
悠作の言葉に、すずの瞳が星のように輝いた。
世界最強の男が、自分のために手料理を振る舞ってくれる。限界オタクにとって、これ以上の僥倖はない。
悠作がキッチンに立ち、冷蔵庫を開ける。
「数日前のあの激戦で勝ち取った、有頭エビのパックを使うか」
取り出したのは、冷凍保存しておいた立派なブラックタイガー、しめじ、マッシュルーム、そして色鮮やかなミニトマトだ。
さらに、悠作はベランダの小さなプランターから、密かに自家栽培しているパクチー、レモングラス、バイマックルーを摘み取ってきた。冷凍庫からは、薄切りにして保存しておいたカーを取り出す。
「今日は、本格的なトムヤムクンだ」
悠作の目が、プロの料理人のそれへと切り替わった。
まずは下処理だ。エビの頭と殻を丁寧に外し、背ワタを抜く。
鍋に油を引き、外したエビの頭と殻を弱火でじっくりと炒める。キッチンに、エビの香ばしくも濃厚な香りが爆発的に広がり始めた。
木べらでエビの頭を押し潰し、濃厚なミソを油に溶け込ませていく。これが、トムヤムクンの旨味のベースとなる「エビ油」だ。
「……すごい香りです。高級なフレンチレストランの厨房にいるような……」
すずが恍惚とした表情で呟く。
エビの殻がカリカリになり、油が鮮やかなオレンジ色に染まったところで、悠作はそれらを取り出し、鍋に水を注いだ。
そこへ、包丁の背で軽く叩いて香りを立たせたレモングラス、ちぎったバイマックルー、スライスしたカーを投入する。
お湯が沸騰するにつれ、エビの濃厚な出汁の香りに、爽やかで柑橘系を思わせるハーブの香りが複雑に絡み合い、四畳半の空間を一気に東南アジアの高級リゾートへと変貌させた。
「ここに、しめじとマッシュルーム、トマトを入れる。そして味付けの要だ」
悠作は、ナンプラー、コチュジャン、そして隠し味としての少量の砂糖を絶妙なバランスで投入した。さらに、ココナッツミルクをたっぷりと回し入れる。
真っ赤だったスープが、ココナッツミルクの魔法によって、クリーミーで濃厚なオレンジ色へと変化した。
最後に、下処理をしたエビの身を入れ、火が通ってプリッとした瞬間に火を止める。
仕上げに、生のライムをギュッと力強く絞り入れ、たっぷりのパクチーを散らして完成だ。
「よし、できたぞ。鈴木流・特製トムヤムクンだ」
どんぶりにたっぷりとよそわれたスープは、立ち上る湯気だけで食欲の中枢を暴力的に刺激してくる。
すずの喉が、ゴクリと大きく鳴った。
「そして、これに合わせるのは……こいつだ」
悠作が棚の奥から取り出したのは、スーパーのワインコーナーで700円ほどで売られている、安物の赤ワイン『ピノ・ノワール』だった。
コルクを抜き、安いマグカップに注ぐ。
「えっ……? トムヤムクンに、赤ワインですか? 普通はビールか、白ワインを合わせるのでは……」
高級店での食事経験が豊富なすずが、不思議そうに首を傾げる。
「普通のトムヤムクンならな。だが、俺のトムヤムクンはココナッツミルクを効かせた濃厚なタイプだ。エビの強い旨味、ライムの酸味、そして唐辛子の辛味。これらを受け止め、スパイスの角を丸くして旨味を増幅させるには、少し冷やした、果実味の強い軽めの赤がベストのマリアージュなんだよ。騙されたと思って、一緒に飲んでみろ」
料理に関するウンチクを語る時だけ、悠作は驚くほど饒舌になる。
ちゃぶ台に向かい合い、「いただきます」と手を合わせた。
すずはスプーンを持ち、震える手でスープを一口、口に含んだ。
「——っ!?」
その瞬間、すずの脳内に雷のような衝撃が走った。
ガツンと殴りかかってくるような、エビの濃厚すぎる旨味。それを追いかけるように、レモングラスとライムの鮮烈な酸味が弾け、唐辛子のピリッとした辛味が舌を刺激する。しかし、それらの強い主張を、ココナッツミルクのまろやかな甘味が見事に包み込み、完璧な調和を奏でているのだ。
エビの身はプリプリで、噛むほどに甘味が溢れ出す。マッシュルームはスープの旨味をスポンジのように吸い込み、噛むとジュワッとスープが溢れる。
「美味しい……! なにこれ、美味しすぎます……!! 私、これまで三ツ星レストランで最高級の海鮮料理を食べてきましたが、こんなに複雑で、暴力的で、それでいて優しい味は初めてです!!」
すずの語彙力が崩壊し、涙目でスープを飲み進める。
「そこで、ワインを一口飲んでみろ」
悠作に促され、すずはグラスの赤ワインを口に含んだ。
「あ……」
すずは目を見開いた。
悠作の言った通りだった。ピノ・ノワールの持つベリー系の華やかな果実味が、トムヤムクンの辛味をスッと洗い流し、口の中に残ったエビの旨味をさらに一段階上の次元へと引き上げたのだ。
酸味と酸味がぶつかり合うことなく、互いを尊重し合い、完璧なマリアージュを完成させている。
「すごい……ワインが、スープの味を変えました……。ただの安ワインが、まるで魔法のように……!」
「大袈裟だな。ただの家庭料理と、スーパーの安ワインだ。でも、美味い組み合わせを見つけた時は、テンション上がるよな」
悠作は、自分の料理理論が認められたことに満足し、ホクホク顔でスープとワインを楽しんでいた。
すずは、目の前で美味そうにエビを頬張る悠作の顔を見つめた。
S級ボスの前で見せたあの『虚無顔』とは全く違う、無邪気で幸せそうな、料理を愛する青年の顔。
(圧倒的な武の極致を持ちながら、この家庭的な優しさと、神域の料理スキル……! 悠作様、あなたはどこまで私を狂わせれば気が済むのですか……!)
すずは、心だけでなく、完全に「胃袋」まで悠作に支配されてしまったことを自覚した。
もう、この四畳半から離れることなど絶対に不可能だ。
「悠作様……! 私、一生あなたについていきます! 毎日お掃除しますから、またこのお料理を食べさせてください!!」
「……まあ、掃除を手伝ってくれるなら、しばらく置いてやってもいいか。飯代はきっちり家事労働で払ってもらうからな」
こうして、最強の無自覚ポーターと、完全に胃袋を掴まれたポンコツトップVtuberによる、不本意で奇妙な四畳半の同棲生活が、静かに幕を開けたのである。




