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第12話 ポンコツVtuberの突撃

「悠作様! いらっしゃるのでしょう!? どうか、どうかこの扉を開けてください!」


 四畳半のボロアパートの薄っぺらい鉄扉越しに、鈴を転がすような美声が悲痛な叫びを上げていた。

 時刻は23時を回ったところだ。

 部屋の中で息を殺している鈴木悠作の背中には、冷たい汗が幾筋も流れていた。


(……しつこい。なんて執念深い借金取りだ。それに、あの声……絶対にプロの劇団員か何かを雇って、情に訴えかける作戦に出ているな)


 悠作の事なかれ主義の論理エンジンは、ドアの外で騒いでいる女性を「ギルドの莫大な罰金を取り立てるために放たれた、ハニートラップの刺客」だと断定していた。

 こんな築40年の古びたアパートに、夜這いのように女性が単身で押しかけてくるなど、常識的に考えてあり得ない。もしうっかり同情して扉を開けようものなら、色仕掛けで丸め込まれた挙句、法外な借金の契約書にサインをさせられ、あるいは背後の暗がりに潜んでいる屈強な男たちが一斉になだれ込んでくるに決まっている。


「悠作様! あなたのあの、全てを諦観したような虚無の表情……魔竜を粉砕した神域の御業! 私は心を奪われました! どうか私を、あなたの弟子に……あわよくば、妻にしてください!!」


 ドアの向こうから、さらに限界を突破したような狂気の懇願が響く。


(……妻、だと!?)


 悠作は戦慄した。


「妻」という言葉は、すなわち「戸籍を奪い、俺の全財産と労働力を合法的に搾取する」という、借金取りの最終奥義に他ならない。


 30歳の冴えないフリーターに、顔も知らない女がいきなり「妻にして」などと言うのは、臓器売買のシンジケートか、よほど悪質な新手の宗教勧誘、あるいは海外の危険なダンジョンで一生タダ働きさせられるタコ部屋労働の契約のどれかだ。事なかれ主義の彼にとって、それはS級ボスのブレスよりも遥かに恐ろしい、人生の終身刑の宣告であった。


「開けていただけるまで、一歩も動きません! ここで一生、土下座し続けます!!」


 ドゴォッ! と、コンクリートの床に額を激しく擦り付けるような鈍い音が響いた。


(……おいおい、マジかよ。こんなボロアパートの廊下で深夜に土下座されて大声で叫ばれたら、絶対に隣の住人から苦情が来る。大家の雷が落ちたら、俺はこの部屋を追い出されてしまうじゃないか……!)


 悠作にとって、「大家からの退去勧告」は、いかなるダンジョンの脅威よりも恐ろしい現実的な問題だった。これ以上ここで騒がれるのは、彼の平穏な生活にとって致命傷になりかねない。

 彼は苦渋の決断を下し、防犯用のU字チェーンをしっかりと掛けたまま、ドアの鍵をカチャリと開け、数cmだけ隙間を作った。


「……あの、近所迷惑なんで、静かにしてもらえませんか」


 隙間から覗き込むと、そこには悠作の想像を絶する光景が広がっていた。

 薄暗い廊下の、チカチカと点滅する古い蛍光灯の下。

 そこに這いつくばるようにして土下座していたのは、ハイブランドの仕立ての良いローブを身に纏った絶世の美女——A級魔法剣士であり、トップVtuberでもある高橋すずだった。

 彼女は、ホコリまみれの汚いコンクリートの床に額を擦り付けながらも、その姿勢はどこか洗練された美しさを保っており、周囲に漂う高級な香水の香りが、この四畳半のボロアパートには致命的に似つかわしくなかった。


「ゆ、悠作様……! ああっ、ついに、生でお顔を拝見できました……!」


 すずは顔を上げると、熱に浮かされたような瞳で悠作を見つめ、頬を真っ赤に染めた。

 その誰もが振り返るような完璧な美貌と、限界オタク特有の気持ち悪い挙動との凄まじいギャップに、悠作はドン引きして顔を引き攣らせた。


(……うわぁ、本物のとんでもない美人じゃないか。借金取りの連中、どんだけ金かけてハニートラップ仕掛けてきてるんだよ。絶対に目を合わせちゃダメだ。こんなプロの劇団員に騙されてうっかりサインでもしたら、明日の朝には見知らぬ遠洋漁業の漁船の上だぞ)


 悠作は、できるだけ関わり合いになりたくないという面倒くささを全開にして、冷たい視線ですずを見下ろした。


「……あの、人違いじゃないですか? 弟子とか妻とか、俺そういうの間に合ってるんで。帰ってください」


 一切の感情を交えない、冷徹な拒絶。

 しかし、すずの反応は悠作の予想の斜め上を全力で飛行した。


「ひぅっ……! そ、そのゴミを見るような冷たい流し目……! 映像で見た通りの、究極の『虚無』……! ありがとうございます、最高のご褒美です!!」


 すずは恍惚とした表情で身悶えし、さらに深く床に額を擦り付けた。彼女の脳内では、悠作のただの面倒くさそうな態度が「俗世の欲望に一切動じない、至高の精神性」へと自動変換されているらしい。


(……ダメだこいつ、話が通じないヤバい奴だ)


 悠作は心の中で特大のため息をついた。

 これ以上関わるのは危険すぎる。体よく追い返すための決定的な口実が必要だ。

 悠作は少し考え、先ほど風呂から上げたばかりの、自身の腕の中で大人しく抱えられている銀色の子犬——S級幻獣フェンリルの幼体である『ポチ』に視線を落とした。


「……お前、弟子になりたいとか言ってたな。なら、動物の世話はできるのか? 俺は今、忙しいんだ」

「動物、ですか? はい! 何でもします! お料理も、お掃除も、ワンちゃんのお世話も、全身全霊でご奉仕いたします!」


 すずが食い気味に答える。

 悠作は「じゃあ、これで試させてもらうぞ」と言い、抱きかかえていたポチを、ドアの隙間からすずの目の前に差し出した。


 ポチは不思議そうに『キュゥ?』と首を傾げている。


「ヒッ……!?」


 ドアの隙間からポチの姿を視認した瞬間、すずの顔色が一気に蒼白になった。

 A級魔法剣士である彼女の優れた魔力感知能力が、即座にその生物の正体を看破したのだ。


(ふぇ、フェンリル……!? なぜ、ダンジョン最深部の極寒地帯にしか存在しないはずのS級の幻獣が、こんなボロアパートに!? しかも、悠作様の腕の中で、あんなに大人しく……!? まさか、これも悠作様が従わせたというのですか!?)


 すずが戦慄していることなど露知らず、悠作はポチを床に下ろした。

 ポチがパタパタと嬉しそうに尻尾を振るたびに、夏の夜のむっとした空気が一変し、廊下一帯が真冬の雪山のような刺すような冷気に包まれていく。


「こいつ、豆柴の雑種なんだけどな。まだ病院に連れて行ってないから、自分で予防注射を打とうと思ってたところなんだよ。動物病院に行くと、数千円も取られて高くつくからな」


 悠作はそう言いながら、ジャージのポケットから小さな注射器を取り出した。

 それは、彼が昨日スーパーで特売の豚肉を勝ち取ったついでにペット用品コーナーで見つけた、1000円均一の『犬用ノミ・マダニ予防薬』だった。ただの細いステンレス針がついた、ごく一般的な市販のペット用品である。


「弟子になりたいなら、お前がこれ、打ってみるか?」


 悠作は注射器をドアの隙間から差し出した。

 すずはガクガクと震えながら、首を横に激しく振った。


「む、無理です! 絶対に不可能です!! S級幻獣の装甲と魔力障壁は、A級魔法剣士の私が全力でミスリル製の剣を振るっても傷一つつけられないほどの強度なんですよ!? あんな市販の細い針なんて、一瞬で折れて逆鱗に触れるだけです!」

「は? S級幻獣? なに寝言言ってんだ、こいつはただの豆柴だぞ」


 悠作は「借金取りの劇団員は、設定の作り込みが甘いな」と呆れ返った。

 まあいい、どのみち断る口実にするつもりだったのだ。こんなヤバい女に、大事なポチを触らせるわけにはいかない。


「犬の注射一本も打てないなら、弟子なんて無理だ。帰れ。俺はこれから、こいつに注射して寝るんだからな」


 悠作はすずに背を向け、部屋の中でポチの注射の準備を始めた。

 すずはドアの隙間に顔を押し付け、祈るような、そして絶望するような目でその光景を見つめていた。


(ダメです、悠作様! いくらあなたでも、無防備な状態でS級幻獣の皮膚に市販の針を刺すなんて……!)


 悠作は冷蔵庫から、昨日から残しておいた『茹でた豚肉の切れ端』を小皿に乗せて持ってきた。

 それを見た瞬間、ポチの黒くてつぶらな瞳がカッと見開き、キラキラと輝き始めた。


「よし、ポチ。お座り」


『ワフッ!』


 ポチは弾かれたようにその場に座り込み、ピシッと背筋を伸ばした。

 目の前にある極上の豚肉の匂いに耐えきれず、ポチの口から涎が垂れそうになる。しかし、それはポチの体から発せられる強烈な冷気によって空中で瞬時に凍りつき、キラキラと輝く細かなダイヤモンドダストとなって四畳半の部屋に舞い散った。


「ははっ、偉いな。ちゃんと待てができてるぞ」


 ポチは「早く食べたい」という本能と「ご主人の命令は絶対」という服従心の間で板挟みになり、小刻みにプルプルと震えている。


「よし、食べていいぞ」


 悠作が合図を出した瞬間、ポチは歓喜の声を上げて豚肉に飛びついた。

 モグモグ、ハフハフと、無我夢中で肉の旨味を堪能する。

 そして、ポチの全神経が「豚肉美味しい!」という一点に集中しきった、その完璧な隙を突いて。


 悠作は、右手に持った市販の注射器を、ポチの首の後ろに無造作に押し当てた。

 プスッ。


「……え?」


 ドアの隙間から見ていたすずの口から、間抜けな声が漏れた。

 悠作のカンストした物理的な腕力と、完璧な角度のコントロールは、フェンリルの誇る鋼鉄の装甲と強固な魔力障壁を、まるで柔らかい豆腐に爪楊枝を刺すかのように、なんの抵抗もなく貫通したのだ。

 魔力の光も、衝撃波も、一切発生しない。ただ純粋な「力」だけで、S級の絶対防御を紙くずのように突破したのである。


 チュウゥゥゥ……。

 悠作はそのままプランジャーを押し込み、薬液を注入し終えると、サッと針を引き抜いた。


「はい、おしまい。痛くなかったろ?」


 当のポチはといえば、豚肉の美味しさに魂を奪われていたため、自分が注射を打たれたことにすら一ミクロンも気づいていなかった。


『キュゥン!』と嬉しそうに鳴きながら、もっとおやつを要求するように悠作の手をペロペロと舐め回している。


「よしよし。お前はお利口さんだな。これで動物病院の代金が数千円浮いたぜ。また特売の肉が買えるな」


 悠作は満足げにポチの頭を撫で回した。

 彼にとっての小さな、しかし確かな勝利の瞬間だった。


 一方、ドアの外にいるすずは、呼吸を忘れた金魚のように口をパクパクとさせていた。


(無魔力での、S級幻獣の装甲貫通……! しかも、幻獣自身に『攻撃された』と認識すらさせないほどの、神域の精密動作……! これが、本物の武の極致……!!)


 すずの頭の中で、悠作に対する神格化が臨界点を突破した。

 彼女はガバッと立ち上がり、血走った目でドアの隙間に顔をねじ込もうとした。


「ゆ、悠作様ぁぁぁっ!! 素晴らしいです! 素晴らしすぎます!! 私も! 私にも今の注射を打ってください!!」


「はぁ!?」


 悠作は心底気持ち悪いものを見る目で、すずを睨みつけた。


「お前、狂犬病なのか!? 意味わかんねえよ、帰れ!」


 バタンッ! ガチャリ。

 悠作は容赦なくドアを閉め、念を入れて内鍵のサムターンを回した。


「ああっ、悠作様! ドアを開けてください! 今日のところは帰りますが、明日も明後日も、あなたが首を縦に振るまで私は通い続けますからねぇぇぇっ!!」


 ドアの外から、限界オタクの狂気に満ちた宣言が響き渡る。

 悠作は深い深いため息をつき、崩れ落ちるように部屋の中へと後退りした。


「……最悪だ。ついにヤバいストーカーまで湧いてきやがった。炎上さんが身代わりになってくれたのに、俺の平穏な四畳半の日常は、一体どうなってしまうんだ……」


 最強の無自覚ポーターの切実な嘆きは、ポチの無邪気な鳴き声によって虚しくかき消されていくのだった。

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