第11話 限界オタクの特定作業
東京都内の一等地。雲を突くような超高級タワーマンションの最上階。
その広々としたリビングで、一人の女性が奇声を上げていた。
「ああっ……! 悠作様……っ! そのゴミを見るような冷たい流し目、最高すぎます……!!」
彼女の名前は、高橋すず。
表の顔は、登録者数300万人を超えるトップVtuber『天音ルミ』であり、探索者ギルドにおいてもA級のライセンスを持つ天才魔法剣士である。
170cmを超える長身と、誰もが振り返るようなクールでアジアンビューティーな美貌。配信では「氷の女王」のような孤高のキャラクターを演じており、男女問わず絶大な人気を誇っている。
しかし、彼女の本性は、誰も知らない『重度の強者オタク』であった。
自分よりも圧倒的に強い存在、理解が及ばないほどの武の極致を見ると、完璧な美人の皮が剥がれ落ち、語彙力を喪失した限界オタクへと変貌してしまうのだ。
すずの部屋には巨大な複数のモニターが設置されており、そのすべてで一つの動画がリピート再生されていた。
それは、ネットの特定班によってサルベージされ、世界を揺るがしているあの『完全版アーカイブ』である。
「はぁっ、はぁっ……。何度見ても信じられません。あの『災厄の魔竜』を、ただのデコピン一発で……! しかも、魔法陣の展開も詠唱も、魔力の練り上げすら一切ない、完全な『無拍子』……!」
A級魔法剣士であるすずだからこそ、その異常性が痛いほどに理解できた。
あれは魔法ではない。純粋な物理法則を完全に無視した、圧倒的な「質量の暴力」だ。
さらに彼女の心を狂わせているのは、悠作の「精神性」だった。
「リーダーに突き飛ばされ、絶体絶命の囮にされたというのに、一切の抵抗をせず……ただ仲間の背中を守るために自ら盾となる、あの『虚無の表情』……!」
すずは、悠作の極めて個人的な焦燥感を、「究極の慈愛と自己犠牲」だと盛大に勘違いし、感動のあまりボロボロと涙を流していた。
「強さ、精神、そしてあの190cmの屈強な体躯と、大人の色気漂う彫りの深いお顔……。完璧です。私の理想の『最強のオス』が、ここに具現化しています……!」
すずは床を転げ回りながらクッションを抱きしめた後、ガバッと起き上がり、スマートフォンを手にした。
画面には、SNSのトレンドと、ニュースの速報映像が映し出されている。
『——現在、ネットの有志たちによって特定されたと思われる、謎のポーターの自宅アパート周辺には、一目その姿を見ようと数万人の群衆が殺到しており、完全に包囲された状態となっています』
「チッ……俗物どもが。私のお師匠様の神聖な住処を、汚い土足で踏み荒らそうというのですか」
すずの瞳に、冷酷なA級探索者としての鋭い光が宿る。
「こうしてはいられません。悠作様は今、世界中からの悪意と狂熱に晒されています。私が一番に駆けつけ、彼をお守り……いえ、お仕えしなければ!」
彼女は、自身の莫大なスパチャ収益とギルドのコネクションをフル活用し、裏情報に通じる情報ブローカーへと連絡を入れた。
『……あら、天音ルミちゃん。こんな夜更けに何の用かしら?』
「単刀直入に言います。今、世界中が群がっているあのポーター、鈴木悠作様の自宅アパート。すでに現地は群衆で物理的に封鎖されていますが、誰にも見られずに彼の部屋のドア前まで直接到達できる『裏ルート』を確保してください。言い値の10倍、即金で払います」
『……フフッ、さすがトップアイドル。ただの住所じゃなくて侵入経路をご所望とはね。でも、あの人の周辺情報は今、世界一のプレミアが付いてるわよ?』
「20倍出します。さらに、次回の私の配信スポンサー枠を一つ差し上げます」
『交渉成立よ。アパートの隣にある廃ビルの屋上から、光学迷彩の魔導具を使って彼の部屋のベランダ側へ跳躍して回り込むルートがあるわ。図面とセキュリティの死角データを今すぐ送るわね』
すずは通話を切ると、クローゼットを開けた。
表向きの変装用コートなどではない。彼女が取り出したのは、自身の本業であるA級探索者としての最高級の隠密用ローブと、高価な魔導具の数々だ。
「待っていてください、お師匠様……。このすずが、あなたの身の回りのお世話から、あわよくば妻の座まで、すべてを捧げに参ります!」
限界オタクと化したトップアイドルは、財力と行動力、そしてA級の身体能力のすべてを暴走させ、群衆がひしめく夜の街へと飛び出していった。
★★★★★★★★★★★
一方その頃。東京都郊外、築40年のボロアパート。
四畳半の部屋の中では、鈴木悠作が外の喧騒を完全にシャットアウトし、強固な居留守の陣形を敷いていた。
窓には遮光カーテンを隙間なく引き、テレビも消し、部屋の照明すらも一段階落としている。
(しつこい借金取りどもめ。ドアさえ開けなければ、そのうち諦めて帰るだろう)
悠作は事なかれ主義の権化として、完全なるスルーを決め込んでいた。
彼は夕飯の洗い物を終えると、部屋の隅で丸まっていた銀色の子犬——S級幻獣フェンリルの幼体である『ポチ』に視線を向けた。
「それより、ポチ。お前、ゴミ捨て場にいたから結構汚れてるな。そろそろお風呂にするか」
悠作が声をかけると、ポチはピクッと耳を立てた。
ポチは首を傾げ、不思議そうに『キュゥ?』と鳴く。フェンリルにとって「風呂」という概念は未知のものであった。
悠作はポチを脇に抱え、狭いユニットバスへと移動した。
「よし、まずはシャワーでお湯に慣れさせるか」
悠作が蛇口をひねり、温かいお湯を出す。
ポチはシャワーヘッドから勢いよく飛び出す謎の液体にビクビクしながら、前脚を恐る恐る伸ばし、チョンとお湯に触れようとした。
その瞬間。
ポチの体から絶えず漏れ出している絶対零度の冷気により、触れる直前のお湯が空中で瞬時に凍りつき、パラパラと細かな氷の粒となって床に落ちた。
シャリシャリ、と涼しげな音が狭い風呂場に響く。
「……おいおい、急に水になったぞ。やっぱりこのアパートの給湯器、ガタがきてるな。大家さんに文句言わないと」
悠作は、S級幻獣が引き起こした物理現象を「給湯器の故障」として自己完結させ、温度設定のダイヤルを最高温度の熱湯に切り替えた。
「これならどうだ」
ボイラーが唸りを上げ、熱湯が降り注ぐ。ポチの冷気と熱湯がぶつかり合い、風呂場は一瞬にして真っ白な水蒸気に包まれた。
『ヒゥン……』
ポチは初めて経験する「温かさ」に目を丸くし、やがてその心地よさに気づいたのか、タライにお湯を張った即席の湯船の中に、自らポチャンと入り込んだ。
ポチがお湯に浸かると、凄まじい勢いで湯が冷めていくが、悠作が蛇口から熱湯を足し続けることで、なんとか適温を保っていた。常人なら激しく火傷する熱湯だが、悠作にはちょうどいい適温だった。
「ははっ、いい湯加減だろ。よし、洗ってやる」
悠作は、コンビニで買ってきた自分の安いボディソープを手に取り、ポチの銀色の毛並みをガシガシと洗い始めた。
ポチはされるがままになりながら、『ホワァァ……』と、S級幻獣の威厳など微塵もない、完全にだらけきったとろけるような顔で湯船に浸かっていた。犬かきのように前脚をちゃぷちゃぷと動かし、お湯の感触を楽しんでいる。
「おとなしくていい子だな。泡だらけで別の生き物みたいだ」
悠作は手の中に残った泡をポチの頭に乗せ、ソフトクリームのような形にして一人でクスクスと笑った。ポチもそれが楽しいのか、悠作の手をペロペロと舐めている。
悠作は鼻歌交じりにポチを洗い流し、タオルで包んで風呂場から出した。
「よし、綺麗になったな。あとは水を切って——」
悠作が言いかけた瞬間、ポチは本能に従い、全身を激しくブルブルッと震わせた。
——ギュォォォォォンッ!!
フェンリルの幼体が全身を振るったことで、毛束の間に溜まっていた水滴が音速を超えて弾け飛び、風呂場内に見えない暴風の刃が巻き起こった。
ユニットバスのプラスチックの壁に無数の細かい傷が入り、換気扇のカバーがひしゃげて吹き飛ぶ。
「おっと! 勢いがいいな。水滴が目に入ったじゃないか」
悠作は、換気扇が物理的に破壊されたことには気づかず、「元気な犬のブルブル」として適当に顔を拭った。
ポチとの微笑ましい入浴タイムを終え、悠作が部屋に戻ってドライヤーの準備をしようとした、まさにその時だった。
——ピンポーン。
外を取り囲む群衆の喧騒とは全く異なる、部屋のドアのチャイムが直接、そして明確な意志を持って鳴らされた。
悠作の動きがピタリと止まる。
(……ついに来やがったか。借金取りの強行突破だ。外の連中を出し抜いて、直接ドアの前まで来るとは……!)
悠作の事なかれ主義の論理エンジンが、最大級の警報を鳴らした。
息を殺し、足音を消してドアの方を睨みつける。
どんなに恐ろしいS級ボスと対峙した時よりも、はるかに深刻で切実な恐怖が彼を支配していた。
絶対に開けるものか。ここで扉を開ければ、法外な罰金の請求書を突きつけられ、遠い異国の過酷なダンジョンで一生タダ働きさせられるに決まっているのだ。
「……悠作様。いらっしゃるのでしょう? 私です、すずです。どうか扉を開けて、私をあなたの弟子に……!」
ドアの向こうから、鈴を転がすような、しかしどこか必死で粘着質な女性の声が聞こえてきた。
隣の廃ビルから跳躍し、光学迷彩を駆使して数万の群衆を飛び越えてきたA級魔法剣士・高橋すずの声である。
(……すず? 誰だそれは。借金取りの新しい手口か? 綺麗な女の声で油断させてドアを開けさせる気だな。俺はその手には乗らないぞ)
悠作は完全な虚無顔のまま、ポチを抱えて部屋の奥へと後退りした。
世界的なトップアイドルが、限界オタクと化して自分の部屋の前に押しかけてきているなど、彼の矮小な常識の範疇では想像の欠片も及ばない事態であった。
四畳半の平穏を死守するための、悠作の孤独な防衛戦が、今静かに幕を開けようとしていた。




