第5話 山の向こう
朝になると、村は昨日とは違う音で騒がしかった。壊れた柵を直す槌の音や泥を掻き出す音、崩れた小屋から板や道具を運び出す声があちこちから聞こえる。ユアンも朝から泥に埋まった木箱を運び、倒れた柵を起こすのを手伝っていた。
昨日、山で腕を怪我した男は家の前に座り、片腕を吊ったまま村人に何か指図している。脚を折った男のところには朝からミレナが何度か出入りし、広場の端ではセドリックの商隊が荷の積み直しを続けていた。
ユアンは木箱を置き、額の汗を腕で拭った。ふと山を見ると、昨日まで木々に覆われていた斜面が大きく抉れていた。その上では雲に妙に大きな穴が残り、そこだけ青空が見えている。
「……あれ、雲までやったのか?」
少し離れたところでは、黒い外套のヴァルドも抉れた山を見ていた。
ユアンはしばらくその背中を見たあと、木箱の方へ戻った。
「ユアン。ちょっと来い」
ベルクは痛めた脚を庇いながら、家の脇に置かれた丸太へ腰を下ろした。ユアンも向かいに座る。
「昨日の話だ。本当に村を出たいんだな」
「うん」
「どこへ行く」
「まず山向こうの町。その先はまだ分かんない。仕事もまだ」
「金はあるのか」
「少し」
ベルクが眉を寄せた。
「何も決まってないじゃないか」
「だから見に行きたいんだよ」
「村にいたら分かんないだろ。山の向こうに何があるかも、俺に何ができるかも」
「行ったから分かるとも限らんぞ」
「それでも行きたい」
「で、どうやって行く」
ユアンは口を開きかけて止まった。昨日なら、オルドの荷馬車についていけばよかった。だが、その荷馬車はもう山の向こうだ。
「……オルドはもう行っちゃった。次に来るのもしばらく先だと思う」
「じゃあ終わりなのか」
「……いや」
広場の方から荷箱を動かす音が聞こえた。ユアンは3台の荷馬車に目をやり、立ち上がった。
「ちょっと、あの商人に話してくる」
ベルクは広場の方を見た。
「そうか」
ユアンは坂を下りた。
広場へ着くと、セドリックは荷車の横で帳面を見ていた。昨日の山崩れで予定が狂ったのか、商隊の男たちは朝から忙しそうに動いている。
ユアンは少し離れたところで足を止めた。セドリックはまだこちらに気づいていない。声をかければいいだけなのに、喉が詰まった。
「……セドリック」
セドリックが顔を上げた。
「ん? ユアンか」
「山向こうまで行くんだよな」
「ああ。街道は通れる。昼過ぎに出る」
「俺を雇ってくれないか。次の町まででいい」
「何ができる」
「荷物は運べる。馬の世話も少しできる。この辺の山道なら分かる」
「親には話したのか」
「話した」
「昨日のことで荷も積み直しだ。働く奴が1人増えるのは助かる。次の町までだ。飯は出すが、寝床は期待するな。荷運びと馬の世話をしてもらう」
「やる」
「勝手にいなくなるな。出る前に、親父さんともう一度話してこい」
「分かった!」
ユアンは坂へ向かって走った。
「走る暇があるなら、そこの箱1つ荷車に積んでから行け!」
後ろからセドリックの声が飛んできた。
ユアンは足を止めた。
「今!?」
「もう雇ったからな」
「まだ村出てないだろ!」
「飯食うなら働け!」
近くにいた商隊の男が笑った。
ユアンは文句を言いながら箱を抱えた。
家へ戻る頃には、ローディが入口の前にユアンの荷物を並べていた。
「なんで兄貴がやってるんだよ」
「お前が広場で商人捕まえてる間、親父に聞いた。で、雇ってもらえたのか」
「次の町まで」
ローディはユアンの靴を見た。
「その靴で行くのか? 3日で穴開くぞ」
「そんなに?」
「山仕事で散々履いただろ。底見ろ」
言われて裏返すと、踵の辺りがかなり薄くなっていた。
「……まだいける」
「いけない」
ローディは家の中へ入り、少しして別の靴を持ってきた。
「俺の古いやつ。少しでかいけど、お前のよりまし」
「兄貴は?」
「新しいのある」
「じゃあもらう」
「礼くらい言え」
「ありがとう」
「軽いな」
ユアンは笑いながら靴を履き替えた。
外套と水筒、着替え、それに少しの金をまとめると、荷物は思っていたより少なかった。
「兄貴、俺いなくなるけど……大丈夫?」
ローディは荷紐を締めながら答えた。
「大丈夫じゃない」
ユアンは黙った。
「親父の脚が戻るまで、俺の仕事は増える。面倒だよ」
「じゃあ俺――」
「でも、それとお前が行くかどうかは別だろ」
ローディは荷紐をきつく締めた。
「兄貴、ありがとう」
「今度はちょっと重いな」
「うるさい」
昼前、ユアンが広場へ向かうと、ミレナはまだ怪我人の家を回っていた。村外れの街道にはヴァルドが立っていた。
ユアンはそちらへ向かった。
「ヴァルド」
ヴァルドが振り返る。
「俺、行くことにした」
「そうか」
「……それだけかよ」
「他に何を言えという」
「なんかあるだろ」
「ない」
「ないのかよ」
「俺が決めたことではない」
「……まあ、そうだけど」
後ろから足音がして、ミレナがこちらへ歩いてきた。
「話は終わりました?」
「今終わった。俺、村を出ることにした」
「あら。決めたんですね」
「うん。それで、あんたたちは次どこへ行くんだ?」
「知らん」
ヴァルドが答えた。
ミレナがヴァルドを見る。
「……私も聞いてないんですけど」
「今決める必要があるのか」
「普通は決めてから出るんですよ」
「なら決めろ」
「どうして私が全部決めるのよ」
ユアンは吹き出した。
「ほんとに適当だな」
「お前に言われる筋合いはない」
「あ」
「じゃあな」
ユアンが言った。
「ええ。またどこかで」
ヴァルドは片手を上げ、ミレナと村を出ていった。
ユアンは、黒い外套と蜂蜜色の髪が道の向こうへ消えるまで見送った。広場ではその間も荷物を積む音が続いていた。
広場からセドリックの声が飛んできた。
「ユアン! 見てる暇があるならこっち手伝え!」
「今行く!」
昼を過ぎる頃には、3台の荷馬車の支度も終わっていた。ユアンが家の前へ戻ると、ベルクとローディが待っていた。
「次の町まで働かせてもらうんだってな」
「うん。飯を出してもらう代わりに荷運びと馬の世話。寝るところは期待するなって」
ベルクはユアンの荷物を見た。
「無理だと思ったら帰ってこい。しばらく帰らないなら、手紙寄越せ」
「字、下手だぞ」
「読めりゃいい」
「俺にもな」
ローディが横から言った。
「兄貴、字読めるの?」
「殴るぞ」
「冗談だって」
「行ってこい、ユアン」とベルクが言った。
「行ってくる」
商隊が村を出た。最初のうちは、炭や薪を運び、山仕事へ向かうたび何度も歩いた道だった。
だが、その先へ自分の足で進むのは初めてだった。
ユアンは荷車の横を歩きながら、頼まれた縄をまとめ直した。
「遅れるなよ」
御者に言われた。
「分かってる」
道は少しずつ高くなり、村の屋根が木々の間から見えたり、見えなくなった。
やがて峠へ出ると、向こう側には知らない山が続き、その間を道が伸びていた。
ユアンは一度だけ振り返った。山の間に見える村は、上から見ると思っていたよりずっと小さかった。
それでも、どの屋根が自分の家なのかは分かった。
「ユアン! 置いてくぞ!」
前から声がした。荷馬車がもう峠を下り始めていた。
「今行く!」
ユアンは前を向き、知らない道へ走った。




