第4話 崩れる山
昨夜の揺れのあと、山はそれ以上鳴らなかった。それでもユアンはほとんど眠れないまま朝を迎えた。
寝床の上には、昨夜出した外套と水筒、それに着替えがそのまま置いてある。
ユアンは外套だけを羽織り、家を出た。
広場へ下りると、オルドの荷馬車はもう出発の支度を終えていた。荷台には村で買い取った炭や干し茸が積まれ、馬にも馬具がつけられている。
「早いな」
オルドが荷縄を確かめながら言った。
「……うん」
「荷物は?」
「まだ」
「親父さんには?」
「まだ」
オルドは縄を引いて締まり具合を確かめた。
「そうか」
広場の端では、セドリックの商隊も朝の仕事を始めていた。3台の荷馬車の周りを男たちが動き、ガレスたち3人も馬具や自分たちの装備を確認している。
「ユアン」
振り返ると、ローディが坂を下りてきた。
「話したか?」
「……まだ」
「もう朝だぞ」
「分かってる」
「いつ言うんだよ」
「今から――」
山の方で何かが砕けた。昨日までの落石とは違い、木が何本も折れる音に、土の塊が崩れる低い音が重なる。
広場にいた人間が一斉に山を見る。
「崩れたぞ!」
上の方から男が駆け下りてきた。
「作業道の上だ! 人が巻き込まれた!」
ローディが走り出した。
「兄貴!」
ユアンはその背中を追いかけようとして、足を止めた。
すぐ横では、街道へ向いた馬のそばでオルドが御者台へ上がろうとしていた。坂の上では、ローディの背中が遠ざかっていく。
ユアンはオルドを見た。
オルドもユアンを見たが、何も言わなかった。
また山の方から声がした。
「縄持ってこい!」
ユアンは坂へ向かって走った。
「兄貴!」
ローディに追いついた頃には、後ろからガレスたちとミレナも追ってきていた。
「どこだ?」
ガレスが走りながら聞く。
「上の作業道!」
炭窯を過ぎたところで、前を走っていた村人たちが止まっていた。
斜面の一部が崩れ、土と石が作業道を覆っている。何本かの木も根元から倒れ、向こう側へ渡れない。
「この先だ!」
村人が崩れた道の向こうを指した。
「2人いる!」
ガレスが斜面を見た。
「回れる道は?」
「ある。窯の裏から上へ行ける。道じゃないけど、向こう側に出られる」
「通れるのか?」
「人なら。荷車は無理」
「案内してくれ」
ユアンは炭窯の脇へ入った。
普段、薪を運ぶ時に使う細い踏み跡が山へ伸びている。途中から道とも呼べない斜面になるが、その先には作業道の上へ抜ける古い道があった。
「ここ、右側踏むなよ。土が崩れるから」
ユアンは木の根を掴んで斜面を上った。
後ろからローディ、ガレス、ナディア、杖を持った若い男が続き、その後ろをミレナと数人の村人がついてきた。
途中で足元から小石が転がり落ちた。
「止まって」
ナディアが先へ出て斜面を見上げ、足元を確かめた。
「足元見て。前の人と間を空けて」
ユアンが先に渡り、全員が間を空けて続いた。
上へ抜けると、土煙の向こうから声が聞こえた。
「こっちだ!」
作業道の脇にあった薪置き場が半分潰れていた。倒れた木のそばには腕から血を流す男が1人座り込み、もう1人は崩れた薪置き場の下に倒れている。脚に乗った太い梁を、斜面から落ちてきた大岩が押さえつけていた。
「先にこっちだ!」
ガレスが挟まれた男の方へ走り、ローディと村人たちが梁へ手をかけた。
「せーの!」
梁がわずかに浮いたが、大岩に押さえられてそれ以上上がらない。
「もう一回!」
その間に、ミレナは血を流している男の横へ膝をついた。
「腕、見せて」
「たいしたことねえよ」
「それは見てから言って」
ミレナが腕を取ると、手元に淡い光が灯った。流れていた血が少しずつ止まっていく。
「ユアン!」
ローディが梁を支えたまま叫んだ。
「下の土、掘れ!」
ユアンは地面へ膝をつき、梁の下へ手を入れた。ほかの村人も加わり、挟まれた男の脚の周りから土を掻き出していく。
斜面の上から石が落ちた。
「危ない!」
ミレナが片手を上げる。
薄い光の膜が斜面との間に広がり、落ちてきた石を弾いた。
「長くは持たないから、急いで!」
「分かってる!」
ローディが答える。
男の脚の周りから土をどけても、梁はまだ大岩に押さえつけられていた。
「この岩をどけるぞ」
ガレスが言った。
ナディアが持ってきた縄を岩へ回し、近くに落ちていた太い木をてこ代わりに差し込む。ガレスとローディ、それに村の男2人が手をかけた。
「せーの!」
岩がわずかに傾き、また元へ戻った。
「もう一回!」
今度も動かない。
ナディアが縄の位置を変えようと岩へ近づいた時、その横を黒い外套が通った。
ヴァルドだった。
「邪魔だ」
ガレスたちが岩から離れる。
ヴァルドは人の背丈の半分ほどある大岩の下へ片手を入れて持ち上げ、そのまま少し横へ歩き、邪魔にならない場所へ置いた。
「……は?」
ユアンの口から声が漏れた。
「梁上げろ!」
ガレスの声で、ローディたちが動いた。
大岩がなくなり、梁はさっきより高く持ち上がった。ユアンと村人が男の身体を引きずり出す。
男が梁の下から抜けると、ガレスが声を上げた。
「よし、下ろせ!」
ローディたちは梁を地面へ下ろした。
ミレナがすぐに移ってきた。
「脚、動かさないで。たぶん折れてる」
男の脚へ手を添え、淡い光を広げる。
「すぐ歩けるようにはならないから、担いで下ろして」
ガレスとローディが倒れた木を使って簡単な担架を作り、村人たちも縄を結ぶのを手伝った。ナディアはその間も斜面を見張っている。
脚を折った男を担架に乗せ、腕を怪我した男には村人が肩を貸した。一行は来た道を戻った。
炭窯の下にある開けた場所まで下りると、棒をついたベルクと何人かの村人が待っていた。担架をいったん下ろし、ミレナが2人の様子を見直す。
ユアンは土で汚れた手を服で拭いた。
そこからは村の屋根と、その向こうへ伸びる街道が見えた。
街道を、小さな荷馬車が進んでいた。荷台には見覚えのある布がかかっている。オルドの荷馬車は、もう村を出ていた。
ユアンは何も言わず、それを目で追った。
「行きたかったのか」
ベルクの声がした。
ユアンはしばらく答えなかった。
「……行きたかった」
「なんで言わなかった」
「親父の脚、まだ治ってないだろ」
「それで?」
「兄貴だって1人じゃ大変だし。俺がいなくなったら困るだろ」
「困るぞ」
ユアンは父を見る。
「人手が1人減るんだから、困るに決まってる」
「じゃあ――」
「だから黙って残るのか?」
ユアンは口を閉じた。
「困るならどうするかは、話して決めるだろ。俺はお前から何も聞いてない」
遠くで荷馬車が道を曲がり、木々の向こうへ半分隠れた。
「俺、村を出たい」
ベルクが黙る。
「ここが嫌だからじゃない。外を見たいんだ」
「どこへ行く」
「分かんない」
「分からないのか」
「まず山の向こう。その先は……まだ」
ベルクは何も言わなかった。
「今日だって、オルドについていこうと思ってた。でも兄貴が山に走ってくの見て、俺もこっちに来た。今日は、オルドについてくより兄貴たちの方に来たかったんだ」
ユアンは山を見た。
「……でも、それでずっと村にいるって話じゃないだろ」
ベルクはしばらく黙っていた。
「そうか」
「それだけ?」
「今初めて聞いたんだぞ。すぐ何か言えって方が無理だ」
「……そっか」
「帰ったら話す」
「うん」
地面の奥から昨夜より大きな低い音が響き、足元が揺れた。
「山だ!」
誰かが叫んだ。
斜面の上で土が裂け、一本の木が傾いた。その隣の木も引かれるように倒れていく。
「全員、下りろ!」
ガレスの声が響いた。
担架を担いだ村人たちが先に坂を下り、腕を怪我した男にも1人が肩を貸した。ローディがその後ろにつき、ガレスとナディアが周囲を確認しながら人を急がせる。
「こっちは通るな! 地面が割れてる!」
杖を斜面へ向けていた若い男が叫ぶ。
「下の道へ回せ!」
ガレスが返した。
ユアンはベルクの腕を取る。
「親父、行くぞ!」
「分かってる!」
ミレナも村人たちと一緒に坂を下り始めた。
背後で山が鳴り、ユアンが振り返ると、山腹に黒い亀裂が走っていた。亀裂は横へ伸び、その上にある木々がまとめて傾いていく。
「……嘘だろ」
岩も土も木もひとかたまりになり、山の一部そのものがゆっくりと下へ滑り始めた。その先には村がある。
「走れ!」
ローディが叫んだ。
ユアンはベルクを押すようにして坂を下りた。だが、脚を痛めたベルクは速く走れない。
「先行け!」
「行けるわけないだろ!」
山腹がさらに崩れ、さっきまで人がいた作業道が飲み込まれた。
「ナディア! 先に下りて、広場の連中を山から離せ!」
「分かった!」
ナディアが駆けていく。
「フェリク、何とかできるか!」
「この規模は無理だ!」
「なら走れ!」
フェリクも村へ向かって走り出した。
ミレナが振り返った。
「ヴァルドさんは?」
ユアンも周囲を見回すと、少し上に黒い外套の男だけが立っていた。
「おい! 何してるんだ、逃げろ!」
ヴァルドは山腹を見たまま言った。
「あれを壊せばいいのか」
「壊すって、あれを?」
「ヴァルドさん、村まで巻き込まないでください!」
「分かっている」
ヴァルドが片手を山へ向けた。
次の瞬間、腹の底まで揺さぶる轟音が響いた。
ユアンは反射的に頭を抱えた。強い風が坂を吹き抜ける。
顔を上げた。
崩れていた山腹が、ない。
村へ滑り落ちようとしていた岩も土も、崩れかけていた山肌ごと大きく抉り取られていた。
石が降ってくると思ったが、何も落ちてこない。
土煙が流れ、その向こうの空が見えてくる。山の上に広がっていた雲にも、大きな穴が開いていた。
そこだけ青空が見える。
誰も声を出さなかった。
ユアンは抉られた山から、片手を下ろしたヴァルドへ目を移した。
「……なんだよ、それ」




