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第3話 世界を滅ぼした男

 グラウスの声が、どこか遠くで続いていた。耳には届いているはずなのに、もう言葉として入ってこない。


 ヴァルドは腕を伸ばし、メルの身体を抱き上げた。3歳の頃よりずっと大きくなったはずなのに、妙に軽かった。


「陛下……これであなたは、再び我らの魔王に――」


 グラウスの立っていた場所が吹き飛んだ。


 轟音が地下通路を揺らし、砕けた石壁が奥まで弾け飛ぶ。残った反乱兵たちが凍りついた。


「ま、魔王様――」


 黒い光が走り、声が途切れた。


 武器を捨てた者がいた。背を向けた者もいた。ヴァルドはメルを抱いたまま歩き出す。


 逃げる影が光に呑まれ、階段を駆け上がった者は踊り場ごと消えた。上階から駆けつけた反乱兵が剣を抜くより早く、廊下の壁ごと吹き飛ぶ。


 誰かが命乞いをしていたが、ヴァルドは聞かなかった。自分は従っただけだと叫ぶ声も、すぐに消えた。


 階段を上り、中庭へ出る。そこにも武装した反乱兵たちがいた。


「陛下、お待ちを――」


 黒い光が中庭を薙いだ。


 石畳が割れ、柱が砕ける。逃げた者を追うように光が城壁を貫き、塔の一つが大きく傾いた。


 ヴァルドは足を止めない。腕の中でメルの髪が揺れている。


 やがて、城から声が消えた。


 剣戟も悲鳴もない。崩れた壁の向こうで火だけが小さく燃え、折れた柱が時折音を立てて崩れていく。


 ヴァルドは中庭に立っていた。グラウスはいない。反乱兵もいない。


 腕の中には、まだメルがいる。


「……メル」


 ヴァルドはその顔を見つめ、頬に触れた。冷たい。胸も動かない。


 返事は、なかった。


 ヴァルドの顔が歪んだ。


「――アアアアアアアアァァァァッ!!」


 絶叫が魔王城を震わせた。


 空気が弾け、残っていた窓が砕け散る。傾いていた塔が崩れ、轟音とともに中庭へ瓦礫が降り注いだ。


 それでも、メルは動かなかった。


 やがて声が途切れ、火の爆ぜる音だけが残る。


 ヴァルドは荒い息を吐きながら、腕の中のメルを見ていた。やがて足元へ視線を落とす。


 石畳の下、城の基礎よりさらに深く、この世界を巡る巨大な魔力の本流がある。


 大地龍脈。


 空いた手を石畳へ向け、自らの魔力を大地の奥へ沈めていく。城の基礎を抜け、岩盤を越え、さらに深く。


 やがて、途方もなく巨大な流れに届く。ヴァルドがそれを掴んだ瞬間、大地が低く鳴った。


 龍脈から逆流した魔力が、身体の奥まで焼くように腕を駆け上がる。それでも手を離さず、巨大な流れを力任せに引きずり上げた。


 魔王城全体が跳ねた。


 中庭の石畳が裂け、亀裂から白い光が噴き上がる。城壁が軋み、残っていた塔が崩れ落ちた。


 腕の中でメルの髪が舞った。


 チリン。


 地の底で大地龍脈が暴れ、ヴァルドの魔力を押し返してくる。それをさらに強く掴み、捻じ曲げた。


 大地が鳴いた。


 遠くで何かが崩れる音がする。空には白い亀裂が走った。


 さらに力を込める。


 何かが、切れた。


     ◇


 灰色だった。


 空も、大地も、どこまで見ても色がない。


 ヴァルドはその中に立っていた。どれほど時間が過ぎたのか分からない。


 魔王城はなかった。瓦礫すらほとんど残らず、城があったはずの場所には巨大な亀裂が走っている。その向こうにも、形を失った大地が続いていた。


 遠くにあった山も見えない。森も、街もない。


 雲のない空には黒い亀裂が走り、その縁から灰色の光が滲んでいる。


 風はなかった。鳥の声も、人の声もない。大地龍脈の気配も、もうどこにも感じられなかった。


 世界は、死んでいた。


 ヴァルドの指先から小さな欠片が剥がれた。灰のように崩れ、地面へ落ちる前に消える。腕にも細い亀裂が走っていた。


 自分も長くない。


 ヴァルドは崩れ始めた手を見ていた。


 そこで、もう片方の腕が軽いことに気づく。


 視線を落とすと、腕はまだ何かを抱いていた形のままだった。


 その中には、何もなかった。


「……メル」


 灰色の世界に声だけが落ちた。


 最後に腕の中の重みを感じたのがいつだったのか、思い出せない。手放した記憶はなかった。


 大地龍脈を掴んだときも、抱いていた。


 そのはずだった。


 それでも、いない。


 チリン。


 ヴァルドの身体が止まった。


 外套の鈴だった。


『これなら、とうさまが来たってわかる』


『今日は何を見たの?』


『帰ってきたら、今日見たもの教えてね』


 白い花が浮かんだ。花びらは6枚で、真ん中は淡い黄色。先端が少し尖っていて、僅かに甘い匂いがした。


 メルに話すために、ちゃんと見た花だった。


 ヴァルドは顔を上げる。


 白い花も、山も、川も、城もない。


 メルもいない。


 何もなかった。


 焼けた村が頭に浮かぶ。


『おかあさん、どこ?』


 3歳だったメルの声。


『死んだ』


 自分はそう答えた。それだけだった。


 あのとき、メルはすでに母親を失っていた。それをヴァルドは見ようともしなかった。


 メルだけが特別な命だったわけではない。


 自分にとって、メルが特別だっただけだ。


 あの村にも、失いたくない誰かがいたのだろう。ヴァルドは名前も知らずに、それを壊した。


 あの村だけではない。


 メルと暮らすようになってから、不要な殺しは減った。必要のない侵略もやめた。


 それでも、メルを失った途端にすべてを踏み潰した。


「……俺は」


 言葉は続かなかった。


 少し離れた場所に、女が立っていた。


 長い銀白色の髪に、飾り気のない白い衣。裸足で灰色の大地に立っているのに、足にも衣にも土一つ付いていない。


「戻せ」


 女は静かにヴァルドを見ていた。


「できません」


「この世界を戻せ」


「できません」


 ヴァルドの拳が震える。


「……メルを戻せ」


「できません」


「お前は神だろう。なら戻せ」


「できません。死んだ者を、死ななかったことにはできません。滅びたものを、何もなかったことにもできません」


 ヴァルドの指先がまた崩れた。


「……なら俺を殺せ」


「間もなく死にます」


 ヴァルドは自分の手を見る。


「そうか」


 それ以上、何も言わなかった。


 しばらくして女を見る。


「では、何が望みだ」


「私の望みを尋ねるのですか?」


 女はヴァルドから目を逸らさない。


「望みを持っているのは、お前でしょう、ヴァルド。世界を戻してほしい。メルを戻してほしい。それが叶わないのなら、自分を殺してほしい」


 女は静かに続けた。


「そのすべてが叶わないのなら、お前は何を望みますか」


 ヴァルドは答えなかった。


 欲しいものならいつでも分かった。欲しければ奪い、邪魔なら壊した。


 今は、何も浮かばない。


「……分からん」


 女が小さく頷く。


「ならば、知りなさい」


「何を」


「お前が知らなかったものを」


 女は灰色の大地へ視線を落とした。


「お前が踏みにじった者たちが、何を愛していたのか。何を恐れていたのか。何を守ろうとしていたのか。自分の目で見なさい」


 女の言葉に、ヴァルドはしばらく黙っていた。


「……それで、何になる」


「知りません」


 ヴァルドが女を見る。


「……お前は本当に神か」


「はい。旅路と道を司る神、エレシアです」


「それでも分からんのか」


「分かりません。私は、お前に殺された者ではありません。だから、お前を許すこともできません。罪が消えるとも言いません」


「では、なぜ俺に道を示す」


「お前が迷っているからです」


 エレシアの足元に小さな灯火がともった。白い光が大地を這い、ヴァルドの足元から先へ細い道を描いていく。


「この先に、別の世界があります。そこにも人がいる。お前がまだ知らない者たちが」


「……俺に、そいつらを見てこいと?」


「はい」


「何のために」


「それを決めるのは私ではありません。何を知り、そのあとどうするかは、お前が決めることです」


 ヴァルドはしばらく白い道を見ていた。


「このままなら、お前はこの世界とともに消えます。この道を渡れば、命は繋がります」


 ヴァルドはすぐには動かなかった。


 白い道を見る。


 チリン。


 小さな鈴へ指を触れた。


『今日は何を見たの?』


 メルはいつも、外の世界を知りたがった。


「……あいつが知りたがっていた世界を」


 ヴァルドは鈴から指を離さない。


「俺も、知りたい」


 エレシアは白い道の先へ視線を向けた。


「歩きなさい、ヴァルド」


 ヴァルドは一度だけ背後を振り返った。


 メルがいた城も、あの白い花も、自分が生きてきた世界も、何一つ残っていない。


 前を向く。


 一歩、踏み出した。


 足元の光が身体を這い上がり、腕に走っていた亀裂へ染み込む。崩れ続けていた指先が止まった。


 もう一歩進むと、灰色の世界が遠ざかっていった。


     ◇


 祈りの鐘が鳴る頃には、台所から焼きたてのパンの匂いが漂い、中庭では旅人たちが荷をまとめ始めていた。


「それ、残すなら持っていってください」


 若い女神官が、旅人の皿に残ったパンを指す。


「いや、もう腹いっぱいで」


「昼に食べればいいでしょう。包みますから」


「そこまでしなくても」


「捨てるよりいいです」


 返事を待たず、パンを紙で包んで旅人へ渡した。


 胸元まで伸びた蜂蜜色の髪を、邪魔にならないよう後ろでまとめている。青緑色の目は厨房を巡り、もう次の仕事を探していた。


「ミレナ」


 年配の神官が厨房から顔を出す。


「朝のお祈りは?」


「あ」


 ミレナの手が止まった。


「……今から行きます」


「女神官でしょう。朝のお祈りを忘れないでください」


「忘れてたんじゃなくて、パンが先に目に入っただけです」


「それを忘れたと言うんです。早く行きなさい」


「はーい」


 ミレナは肩をすくめ、礼拝堂へ向かった。


 小さな礼拝堂には朝の光が差し込み、正面には旅杖を手にした旅路の神エレシアの像が立っていた。その足元には、小さな灯火が刻まれている。


 ミレナは像の前へ膝をつき、手を組んだ。


「エレシア様。本日も旅立つ人々に、安全な道を――」


『ミレナ』


 ミレナは息を止めて顔を上げた。礼拝堂には誰もいない。


『ミレナ』


 もう一度、同じ声が響く。耳ではなく、直接頭の中へ届いていた。


 ミレナの背筋が強張った。神の声を直接聞くなど、古い記録でしか知らないことだった。


「……エレシア様?」


『はい』


 しばらく動けなかったミレナは、慌てて姿勢を正した。


「お、お聞きしております」


『東門へ向かいなさい。そこにヴァルドという男がいます』


「ヴァルドさん……」


『彼に同行し、その旅を見届けなさい』


 ミレナは口を開きかけ、そのまま固まった。


「……その方は、どこへ向かわれるんですか。私はどこまで同行すれば?」


『まだ決まっていません』


「ご本人も?」


『はい』


 ミレナはエレシアの像を見上げた。


「……エレシア様」


『はい』


「説明、だいぶ足りなくないですか?」


 返事はなかった。


「エレシア様?」


 もう一度呼んでも、礼拝堂には朝の光だけが差している。


「……終わり?」


 ミレナはしばらく像を見上げ、それから息を吐いた。


「ヴァルドさん、ね」


 神殿長へ神託を受けたことを報告したあと、自室で鞄を開いた。行き先も期間も分からない。結局、いつもの旅支度を詰めるしかなかった。


「せめて何日分いるのかくらい教えてほしかったんだけど……」


 鞄を背負い、旅杖を手に取った。


     ◇


 街の東門は、朝から人の出入りが多かった。荷馬車が行き交い、商人が声を上げ、旅人たちが門兵へ通行証を見せている。


 聞いているのは、東門にいるヴァルドという男。それだけだった。


「せめて特徴くらい教えてくれてもいいと思うんだけど」


 誰にともなく呟いた、そのとき。


 チリン。


 小さな鈴の音に、ミレナが振り向く。


 門の外、街道から少し外れたところに一人の男が立っていた。周囲の旅人より頭一つ高く、使い込まれた黒い外套をまとっている。黒に近い髪は少し乱れ、どこかへ向かうでもなく、ただそこに立っていた。


 風に外套が揺れ、小さな鈴が付いているのが見えた。


 ミレナは少し迷ってから近づく。


「あの」


 男が振り返った。鈍い金色の目をしている。ひどく疲れた顔だった。


「ヴァルドさん?」


「ああ」


 ミレナは小さく息を吐き、その正面へ立った。


「あなたがヴァルドさんね? エレシア様から、あなたの旅に同行するよう神託を受けたわ」


 ヴァルドは数秒、黙ってミレナを見た。


「いらん」

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