第2話 今日は何を見たの?
チリン。
廊下の向こうから小さな鈴の音が聞こえた。窓辺に座っていたメルが顔を上げ、膝の上で弄んでいた小さな布人形を置く。
チリン。
今度は少し近い。メルの顔がほころんだ。
「おかえり、とうさま」
扉を開けたヴァルドが足を止める。
「……ただいま」
それだけ言って部屋へ入った。
あの村からメルを連れ帰って、5年が過ぎていた。3歳だった少女は8歳になり、今では城の中ならほとんど一人で歩ける。
自室の扉から廊下の角まで14歩。そこを右へ曲がれば食堂まで21歩、大階段は32段。メルの頭には、魔王城の形が彼女なりの地図として出来上がっていた。
城に住む者たちも、いつの間にか人間の少女がそこにいることを珍しがらなくなっている。
「とうさま」
「何だ」
「今日ね、ちゃんと薬飲んだよ」
数日前から、メルは軽い咳をしていた。
ヴァルドが彼女を見る。
「聞いていない」
「でも飲んだよ」
「そうか」
「うん」
ヴァルドは卓上へ視線を向けた。咳止めの器は見当たらない。だが、花瓶の陰から器の縁が僅かに覗いていた。
「メル」
「なに?」
「そこの花瓶をどけろ」
「なんで?」
「いいからどけろ」
メルの肩がぴくりと動く。
「……やだ」
ヴァルドが無言で花瓶を退ける。そこには、中身のほとんど減っていない薬の器が隠されていた。
「飲んだんじゃなかったのか」
「飲んだよ」
「残っている」
「ちょっと飲んだ」
「全部飲め」
「にがい」
「知らん」
「昨日も飲んだ」
「今日の薬は今日飲め」
「じゃあ明日2つ飲む」
「今飲め」
メルが頬を膨らませる。
「とうさまのけち」
「何がだ」
「薬くらい残してもいいじゃん」
「駄目だ」
「けち」
「飲め」
「……はーい」
嫌そうに器を手に取り、匂いを嗅いだだけで顔をしかめる。それでも覚悟を決めて一気に飲んだ。
「にがい!」
「知るか」
「お水!」
ヴァルドが水差しから杯へ注いで渡す。メルはそれを両手で受け取り、喉を鳴らして飲んだ。
「薬作る人って、なんでおいしく作らないのかな」
「効けばいいからだろう」
「とうさまみたい」
「どういう意味だ」
「知らない」
言い返して、メルが笑う。ヴァルドは眉間に皺を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。
その日の夜。
「痛い!」
「動くな」
「とうさまが引っ張ったんでしょ!」
「絡まっている」
「だから痛くしないでって言ってるの!」
「面倒だな」
「じゃあ代わって」
「誰とだ」
「……いないけど」
「なら動くな」
メルは不満そうに唇を尖らせた。椅子に座る彼女の後ろで、ヴァルドが櫛を持っている。
風呂上がりの髪を梳かしてほしいと頼まれたのは彼だった。断ればいいはずなのだが、なぜかいつもこうなる。
「侍女に頼め」
「今日はとうさまがいい」
「なぜだ」
「別に」
「なら侍女でいいだろう」
「やだ」
「……意味が分からん」
ヴァルドがまた櫛を通す。
「痛い!」
「動くからだ」
「とうさまが下手なの!」
「なら自分でやれ」
「後ろはうまくできないもん」
ヴァルドの手が止まった。メルは何気なく言っただけらしく、鼻歌でも歌いそうな顔で座っている。
「……じっとしていろ」
「はーい」
先ほどより少しだけゆっくりと櫛が動き始めた。メルの髪は、もう肩より下まで伸びている。昔は片腕で簡単に抱えられたが、今ではあの頃よりずっと大きくなった。
「とうさま」
「何だ」
「今日は何を見たの?」
ヴァルドは櫛を動かしたまま答えた。
「山」
「また?」
「山が消えるわけではないからな」
「昨日も山って言った」
「昨日とは別の山だ」
「どんな山?」
「山だ」
「それじゃ分かんない」
「高かった」
「どれくらい?」
「高い」
メルが呆れたように息を吐く。
「とうさま」
「何だ」
「説明が下手」
「うるさい」
メルがくすくす笑った。
「ほかには?」
ヴァルドは黙る。
何があったかと聞かれても、すぐには思いつかない。いつものように道を進み、いつものように用を済ませて帰ってきただけだ。
――いや。
「……白い花が咲いていた」
メルが振り返ろうとして、ヴァルドに頭を押さえられる。
「動くな」
「どんな花?」
「白い」
「それは今聞いた」
「小さい」
「どれくらい?」
「……これくらいだ」
ヴァルドが指で大きさを示す。当然、メルには見えない。
「見えないよ」
「そうだったな」
「形は?」
「知らん」
「花びら何枚?」
「知らん」
「匂いは?」
「嗅いでいない」
メルが大きく息を吐いた。
「とうさま」
「何だ」
「ちゃんと見てきて」
「面倒だ」
「わたし見えないんだから、とうさまが見てよ」
ヴァルドの手が一瞬止まった。メルは気づかない。
「それで、帰ってきたら教えて」
「……なぜ俺が」
「わたしが聞きたいから」
「勝手だな」
「とうさまに言われたくない」
ヴァルドは何も言わず、再び櫛を通した。今度は髪を引っ張らなかった。
◇
「南部の人間どもが国境付近へ砦を築いております」
翌日の評定。長い卓を囲み、魔王軍の幹部たちが並んでいた。正面に座るヴァルドへ、将の一人が頭を下げる。
「兵を差し向けますか」
「規模は」
「およそ300。補給拠点として使うつもりでしょう」
「こちらの街道に届くのか」
「現状では届きません」
「なら放っておけ」
将が顔を上げる。
「よろしいのですか。砦を完成させれば、人間どもはさらに国境へ進出する可能性がございます」
「進出してから潰せばいい」
「しかし、今のうちに周辺の村ごと焼いておけば――」
「兵を動かすのに食糧はいくら使う」
将が言葉に詰まった。
「人間どもが勝手に石を積んでいるだけで、こちらから兵と食糧を使う意味がどこにある」
「……ございません」
「なら終わりだ」
ヴァルドが次の報告書へ手を伸ばす。別の将が口を開いた。
「先日捕らえた人間兵20名についてですが」
「まだいたのか」
「尋問は終えております。処刑の許可をいただきたく」
「何か知っていたか」
「いえ。末端の兵ゆえ、大した情報は」
「なら帰せ」
卓の周囲が僅かにざわついた。
「……帰すのでございますか?」
「置いておけば食わせる必要がある」
「奴らは敵兵です」
「だから何だ。使い道もない。情報も持っていない。殺したところで何も増えん」
誰も答えなかった。
「帰せ」
「……御意」
評定の端で、一人の魔族が黙ってその様子を見ていた。その男の名はグラウス。ヴァルドが魔王となった頃から仕える古参の魔将であり、多くの戦場を共にしてきた男だった。大柄な身体を黒い鎧で包み、額の片側には古い戦傷が残っている。現在では魔王城の守備を任されるほど、ヴァルドから信頼されていた。
グラウスにとって、かつてのヴァルドこそ理想の魔王だった。
敵国を踏み潰し、逆らう者を力で黙らせ、味方からすら恐れられる絶対者。血と炎の中に立つその姿を、グラウスは誰よりも敬っていた。
「何だ、グラウス」
ヴァルドが視線を向ける。
「いえ。陛下のお考えであれば」
「なら見るな」
「失礼いたしました」
それ以上は何も言わず、評定は続いた。ただ、ヴァルドが人間の砦を放置し、捕虜を帰せと命じたとき、卓を囲む者たちの何人かがほんの僅かに視線を交わしていた。
ヴァルドは気にも留めなかった。
◇
その夜、雷が鳴った。
窓の外が白く光り、一拍遅れて低い音が城を揺らす。ヴァルドは執務机で書類を読んでいた。
コンコン。
「入れ」
扉が開く。メルだった。
「何だ」
「別に」
「なら戻れ」
「ここにいる」
「なぜだ」
「別に」
また雷が鳴り、メルの肩が跳ねる。ヴァルドは書類から目を上げた。
「怖いのか」
「怖くない」
ゴロゴロと空が鳴る。メルの指が服の裾を握った。
「そうか」
「うん」
「なら戻れ」
「ここにいる」
「好きにしろ」
メルは壁を伝っていつも使っている長椅子まで歩き、そこへ腰掛けて膝を抱えた。
ヴァルドは仕事へ戻る。雷が鳴っても、紙をめくるだけだった。メルも何も言わない。
しばらくして妙に静かになったことに気づき、ヴァルドは顔を上げた。雷はまだ止んでいない。メルは長椅子の上で眠っていた。
身体を丸め、片手を頬の下へ入れている。もう一方の手には、昼間にも弄んでいた小さな布人形が握られていた。
「……何をしに来たんだ」
返事はない。
ヴァルドは立ち上がって長椅子まで行くと、棚から薄い毛布を取り、無造作にメルへ掛けた。
外が白く光り、雷鳴が響く。眠っているメルの眉が僅かに寄った。
ヴァルドはその顔を見る。
もし、こいつが誰かに殺されたら。
殺した者を殺す。命じた者も殺す。そいつの仲間も。軍も。国も。
そこまで考えるのに時間はかからなかった。むしろ、そうすることが当然のように思えた。
そして――焼けた家が、一瞬だけ頭をよぎった。
崩れた家。街道に転がった荷車。泣いていた小さな子供。
『おかあさん、どこ?』
ヴァルドの眉が寄る。なぜ今、あの村を思い出した。
メルは何も知らず眠っている。遠くで、また雷が鳴った。
「……くだらん」
誰に言うでもなく呟き、ヴァルドは机へ戻った。
その夜、雷が止むまで、彼がメルを部屋から追い出すことはなかった。
◇
数日後。
「黒哭谷より急報!」
評定の途中で扉が開いた。伝令の魔族が転がり込むように膝をつく。
「封印が破られました! 災獣バルガロスが目覚め、北方の砦へ向かっております!」
室内の空気が変わった。
将の一人が顔色を変える。
「守備隊は」
「迎撃しておりますが、抑えられません!」
「周囲の町は」
「避難を開始しております。しかし、このままでは日没までに砦へ到達します!」
ヴァルドが席を立つ。
「俺が行く」
伝令が顔を上げた。将の一人がすぐに言う。
「陛下自ら?」
「兵を集めている時間が無駄だ」
「では私も」
「いらん」
ヴァルドは外套を取った。
チリン。
「グラウス」
「は」
「城は任せる」
古参の魔将は胸へ拳を当て、深く頭を下げた。
「命に代えましても」
「死ぬな。面倒が増える」
「……御意」
ヴァルドはそれだけ言い残し、評定の間を出た。
城の中庭で転移の術式を展開しようとしたところで、声が飛んでくる。
「とうさま!」
ヴァルドが振り返る。メルが侍女に手を引かれながら、こちらへ歩いてきていた。
「何だ」
「出かけるの?」
「ああ」
「どこ?」
「北だ」
「遠い?」
「大した距離じゃない」
「いつ帰る?」
「知らん」
メルが不満そうな顔をする。
「ちゃんと帰ってきてね」
「ここは俺の城だ」
「そうじゃなくて」
「何だ」
「……もういい」
メルが口を尖らせる。
「じゃあ、帰ってきたら今日見たもの教えてね」
「またそれか」
「だって、とうさま全然ちゃんと見ないから」
「仕事に行くんだぞ」
「途中に何かあるでしょ」
「転移する」
「じゃあ帰り」
「面倒だ」
「白い花があったら、今度はちゃんと見てきて」
「なぜ花ばかり見なければならん」
「花びらが何枚あるかも」
「嫌だ」
「匂いも」
「断る」
「約束ね」
「していない」
「約束」
メルが笑う。
ヴァルドはしばらくその顔を見ていた。
「……勝手にしろ」
「うん」
満足そうな返事だった。
「いってらっしゃい、とうさま」
「ああ」
ヴァルドが片手を上げる。足元の空間が歪んだ。
チリン。
次の瞬間には、その姿は消えていた。
◇
災獣バルガロスは、かつて三つの城塞を落としたとされる巨獣だった。
黒哭谷へ転移したヴァルドを待っていたのは、山肌を覆うほど巨大な黒い獣と、壊滅寸前の守備隊だった。
バルガロスが咆哮し、大地が揺れる。ヴァルドが片手を上げた次の瞬間、空から落ちた黒い光が巨体ごと谷を貫いた。
轟音と共に地面が大きく揺れ、土煙が舞い上がる。それが収まったとき、災獣はもう動いていなかった。
「終わりだ」
ヴァルドは踵を返す。
「お、お待ちください、陛下!」
砦の将が慌てて追ってきた。
「封印が破れた原因の調査が――」
「お前たちでやれ」
「ですが」
「俺が穴を眺めたところで元には戻らん」
まだ高い位置にある太陽を見上げた。想定していたより、遥かに早く終わった。
いつもなら、そのまま空へ上がって城へ戻る。だが今日は、ヴァルドは山道へ足を向けた。
『ちゃんと見てきて』
「……面倒なことを」
誰に言うでもなく呟く。
城まで歩き通すつもりはない。少し景色を見てから飛べば、それでも十分早く戻れる。
山道をしばらく歩く。風が吹き、木々の枝が揺れていた。遠くには雪を残した山が見え、その麓を細い川が流れている。
昨日までなら、それだけだった。
今日は少しだけ足を止める。山の形を見る。川がどちらへ曲がっているかを見る。
何を聞かれても「山」「川」で終わらせずに済むように。
やがて道端で白いものが揺れた。いったんは通り過ぎたヴァルドだったが、数歩進んだところで足を止め、振り返った。
「……」
白い花だった。
膝より低い草の間に、いくつも咲いている。ヴァルドは近づいてしゃがみ込み、白い花弁を数えた。
1枚、2枚。
6枚だった。
中心は淡い黄色。丸い花弁は、先端だけ僅かに尖っている。顔を近づけると、ほとんど分からないくらいの甘い匂いがした。
「……6枚」
ヴァルドは立ち上がった。摘みはしない。
白くて小さい。花びらは6枚で、真ん中は黄色。少しだけ甘い匂いがした。
それだけ覚えておけば、今度は説明が下手だとは言われないだろう。
ヴァルドの身体がふわりと浮き、次の瞬間には地面を離れて山々の上へと舞い上がった。
城へ向かって飛びながら、もう一度頭の中で花の形を思い出す。
やがて魔王城が見えてきた。
最初に違和感を覚えたのは、煙だった。
ヴァルドの目が細くなる。城の西側から黒い煙が上がっている。訓練でもなければ、炊事でもない。
さらに近づいて見えた城門は、壊れていた。
次の瞬間、ヴァルドの姿が空から消え、城門前へ降り立った。
そこに転がっていたのは、人間ではなく、魔族の死体だった。見慣れた城兵の鎧。そのすぐ近くには別の魔族も倒れている。
剣傷、焦げ跡、砕けた壁。城門は外からではなく、内側から破壊されていた。
何が起きた。その疑問より先に、別の言葉が出る。
「メルは」
返事はない。
ヴァルドは城へ駆け込んだ。
「メル!」
チリン。
いつもなら、あの音が聞こえればどこからか声がする。
『とうさま?』
今日はない。
「メル!」
角を曲がるたびに死体がある。どちらの側なのかなど見なかった。そんなものはどうでもいい。
倒れていた兵士の一人が僅かに動いた。ヴァルドは即座にそのそばへ屈む。
「メルはどこだ」
「へ……陛下……」
「メルは」
兵士が震える手を僅かに上げ、地下へ続く方角を指した。
「避難……通路……へ……」
それだけ言うと、力尽きたように意識を失った。
ヴァルドはもう見ていなかった。
走る。
チリン。
地下へ続く階段を駆け下り、石造りの通路へ入る。壁には血が付き、折れた槍が転がっている。
「メル!」
返事がない。足が速くなる。
チリン。チリン。
最後の曲がり角を抜けた。
ヴァルドの足が止まる。
避難通路の途中だった。2人の護衛が倒れている。一人は扉を守るように、もう一人はさらに奥へ手を伸ばしたまま。
その先。
壁際に、小さな身体が横たわっていた。
さらに奥には武装した魔族たちがいる。その中央には、グラウスが立っていた。
だが、今のヴァルドには目に入っていない。
外套の鈴が、遅れて一度鳴った。
チリン。
「……メル」
返事はない。ヴァルドは歩き出した。数歩しかない距離が、妙に遠かった。
メルのそばへ膝をつき、その頬へ触れる。
もう冷たかった。胸も動いていない。
「メル」
返事はなかった。
朝の声が浮かぶ。
『帰ってきたら、今日見たもの教えてね』
白い花。花びらは6枚で、真ん中は黄色。少しだけ、甘い匂いがした。
「お戻りでしたか、魔王様」
聞き慣れた声だった。
ヴァルドは振り向かない。
「予定より、随分とお早いお帰りで」
グラウスが一歩前へ出る。
「ですが、これでよかったのかもしれません」
ヴァルドはメルの頬に触れたまま動かなかった。
「陛下。あの人間こそが、あなたを弱くした。かつてのあなたは、敵がいれば国ごと踏み潰し、逆らう者を一人として残さなかった。誰もがあなたを恐れた。それこそが――」
「メル」
グラウスの言葉が止まった。
返事はなかった。
外套についた小さな鈴だけが鳴った。
チリン。




