第1話 魔王と盲目の娘
村が、道を塞いでいた。
ただ、それだけのことだった。
山間を抜ける街道の先に、100人に届くかどうかという小さな村がある。石造りの家が寄り集まり、その周囲を低い木柵が囲んでいた。遠くには収穫前らしい畑が広がり、風に揺れる麦穂が午後の日差しを受けて黄金色に輝いていた。
魔王ヴァルドは、丘の上からそれを眺めていた。
「迂回路は」
背後に控えていた副官が、すぐに答える。
「ございます。ただ、軍を動かせば半日は余計にかかるかと」
「そうか」
ヴァルドはもう一度、村を見た。目的地はこの先にある。
村そのものに用はない。あそこに住む人間にも、特に恨みはなかった。だが、邪魔だった。
「潰せ」
それだけ告げて、ヴァルドは村から目を離した。副官が一礼し、直後、待機していた魔族の兵が一斉に動き出した。
悲鳴が上がったのは、それから間もなくのことだった。
ヴァルドは聞いていたが、振り返らなかった。人間が逃げているのだろう。抵抗する者もいるらしい。剣戟の音が幾度か聞こえ、やがてそれも途絶えた。
ヴァルドにとっては、どうでもいいことだった。
村が一つ消える。ただ、それだけだ。
それよりも、半日遅れる方が問題だった。
◇
焼けた木の臭いが漂っていた。
家々の一部は崩れ、街道には折れた農具や荷車が転がっている。抵抗した者の死体もあった。
ヴァルドはそれらを踏まないよう避けることもしなければ、わざわざ踏みつけることもしなかった。進路にあれば跨ぐ。ただそれだけだった。
魔王軍はすでに先へ進み始めている。ヴァルド自身も村を抜けようとしたとき、微かな声が聞こえた。
「……おかあさん」
彼は足を止めた。
「おかあさん……?」
泣いている。
崩れた家の陰だった。ヴァルドがそちらへ向かうと、煤に汚れた小さな少女が座り込んでいた。
まだ3つか、それくらいだろう。淡い茶色の髪は乱れ、頬には涙の跡が残っている。
少女はヴァルドが近づいても、彼を見なかった。
正確には――見えていなかった。
「……おかあさん?」
「違う」
少女の肩が小さく跳ねた。声のした方へ顔を向ける。
「おとうさん?」
「違う」
「……だれ?」
「知らなくていい」
ヴァルドは答え、そのまま歩き出そうとした。
「まって」
足を止める理由はなかった。
「おかあさん、どこ?」
ヴァルドは面倒そうに振り返った。少女のすぐそばに、女が倒れている。すでに息はなかった。
「死んだ」
少女は黙った。
「……しんだ?」
「ああ」
「おとうさんは?」
ヴァルドは周囲を見る。どれが父親なのかなど知るはずもない。
「知らん。おそらく死んだ」
「おじいちゃんは?」
「知らん」
「ミナおばさんは?」
「知らん」
少女の顔が歪んだ。それから、堰を切ったように泣き始めた。
ヴァルドはしばらく眺めていたが、やがて興味を失った。泣き止むまで待つつもりもない。
背を向ける。
数歩進んだところで、背後から何かが転ぶ音がした。そして、小さな手が外套を掴んだ。
ヴァルドは見下ろした。少女が地面に膝をついたまま、必死に彼の服を握っている。
「離せ」
少女は首を横に振った。
「離せ」
「いや」
「……俺に命令するのか?」
少女は答えず、外套をさらに強く握った。
ヴァルドは改めてその顔を見る。瞳は開いている。だが視線は、彼の顔より僅かに横へずれていた。
「見えないのか」
少女は小さく頷いた。
「ずっとか」
「うん」
ヴァルドは鼻を鳴らした。なるほど。それなら転んだ理由にも説明がつく。
「俺が怖くないのか」
少女は黙った。少しして、震える声が返る。
「……こわい」
ヴァルドの眉が僅かに動いた。
「なら離れろ」
「いや」
「なぜだ」
少女はまた泣きそうな顔になった。
「だって……」
小さな指が、黒い外套を握る。
「ほかに、だれもいない」
ヴァルドは何も言わなかった。
理解できなかった。怖いなら離れればいい。嫌なら逃げればいい。それが当然だ。
もっとも、この少女にはどちらへ逃げればいいのかも分からないのだろう。
「魔王様」
後ろから声がした。副官が数名の兵を連れて戻ってきていた。
「その人間は」
「ただのガキだ」
「生存者でしたか。始末いたしますか?」
兵の一人が剣へ手を伸ばした。少女がびくりと震える。
ヴァルドはそれを見てから、兵を見た。
「必要ない」
「は」
「追ってくることも、俺たちの邪魔をすることもできん。殺す理由がない」
副官は一瞬だけ少女へ目を向けた。
「では、このままに?」
「好きにしろ」
ヴァルドは再び歩き始めた。
3歩。4歩。5歩。
外套はまだ掴まれていた。少女が何度も転びそうになりながら、必死についてくる。
6歩目でヴァルドは止まった。
「鬱陶しい」
少女の身体を片腕で抱え上げる。
「わっ」
「暴れるな」
「……どこいくの?」
「城だ」
「おしろ?」
「黙っていろ」
少女は少しだけ考えたあと、ヴァルドの服を握ったまま静かになった。
副官は何も言わなかった。言えるはずもなかった。
そうして魔王ヴァルドは、自ら滅ぼした村から一人の人間を連れ帰った。
◇
「まおうさま」
「何だ」
「おなかすいた」
「俺に言うな」
ヴァルドは書類から顔を上げなかった。
村から少女を連れ帰って、10日ほどが過ぎていた。食事も寝床も用意した。世話をする者もつけた。それで終わったはずだった。
「じゃあ、だれにいうの?」
「お前の世話をしている者がいるだろう」
「いない」
「いる」
「いま、いない」
ヴァルドはようやく顔を上げた。
扉のところに少女が立っている。壁へ片手を触れながら、どうにかここまで来たらしい。
ここ数日、世話役に連れられて何度か訪れていたため、道順を覚えたのだろう。
「どうやって来た」
「あるいた」
「それは見れば分かる」
「わたしは見えないよ」
ヴァルドは黙った。
少女も黙った。
「……名前は何だった」
「メル」
「そうか」
「まおうさまは?」
「ヴァルドだ」
「ばるど?」
「ヴァルド」
「ばるど」
「……好きに呼べ」
ヴァルドは立ち上がった。廊下へ出ると、すぐに使用人の一人を呼びつける。
「こいつを一人にするな」
「申し訳ございません」
「次はない」
使用人の顔が青ざめた。その声に、メルの身体が強張る。
ヴァルドは視線だけを下げた。メルが、彼の服の端を握っていた。
それから少し考え、
「食わせろ」
と言った。
「はい」
「甘いものがいい」
メルが付け加えた。
「調子に乗るな」
「だめ?」
「……好きにしろ」
メルが笑った。
何がおかしいのか、ヴァルドには分からなかった。
◇
目を治せ。
ヴァルドがそう命じたことで、魔王城には各地から治癒術に長けた者たちが集められた。
魔族の術師、薬師、呪術師。果ては人間の高名な治癒師まで連れてこられた。
結果は同じだった。
「治せません」
「なぜだ」
「傷や病ではございません。生まれながらのものを治癒術で変えることは――」
「できるか、できないかを聞いている」
「……できません」
床に膝をつく治癒師が震えていた。ヴァルドの周囲で魔力が膨れ上がる。
「なら、何のために来た」
「も、申し訳――」
「まおうさま」
小さな声がした。
ヴァルドが振り返る。椅子に座らされていたメルが、両手を膝の上で握っていた。
「何だ」
「もういい」
「よくない」
「いいよ」
「お前の目の話だ」
「うん」
「なら黙っていろ」
メルは俯いた。治癒師はまだ震えている。
「まおうさま」
「何だ」
「こわい」
ヴァルドの眉間に皺が寄る。
「俺がか」
「うん」
あまりにも簡単な返事だった。
「ずっと、おこってる」
ヴァルドは黙った。
「だから、もういい」
「見えなくてもいいというのか」
「みえたら、うれしい」
メルは少し考えてから続けた。
「でも、まおうさまがずっとおこってるのは、いや」
ヴァルドはしばらく何も言わなかった。やがて、膨れ上がっていた魔力が消える。
「……下がれ」
治癒師が顔を上げた。
「聞こえなかったか」
「は、はい!」
逃げるように部屋を出ていった。
ヴァルドは椅子に座るメルを見る。
「本当にいいのか」
「うん」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。そして、その日を境にヴァルドがメルの目を治させようとすることはなくなった。
◇
数か月が過ぎた。
「誰が動かした」
低い声が廊下に響いた。使用人たちが一斉に動きを止める。
ヴァルドの足元では、メルが額を押さえていた。廊下の隅にあったはずの長椅子が、掃除のため僅かに位置を変えられていたらしい。
メルはいつものつもりで歩き、その角へ見事にぶつかった。
「も、申し訳ございません」
「城内の家具を勝手に動かすな」
「しかし、掃除の際には――」
「戻せばいい」
「はい」
「次から徹底しろ」
命令は、その日のうちに城中へ広まった。理由を説明された者はいなかった。
メルは翌日から、また一人で城内を歩き始めた。
◇
ある日の夕方。
ヴァルドが自室へ戻ると、メルが待っていた。
「何をしている」
「まってた」
「なぜだ」
「これ」
メルが両手を差し出した。掌の上に、小さな真鍮の鈴がある。
「何だこれは」
「すず」
「それは分かる」
メルが笑った。
「これ、つけて」
「嫌だ」
「なんで?」
「邪魔だ」
「だめ」
「何がだ」
「つけるの」
「俺に命令するな」
「だめ」
会話になっていない。
ヴァルドが鈴を取り上げようとすると、メルが手を引いた。
「まおうさま、音しないから」
「音?」
「あるくとき」
言われてみれば、ヴァルドは足音をほとんど立てない。メルにはそれが困るらしい。
「いつも、いきなりいる」
「俺の城だ」
「びっくりする」
「慣れろ」
「やだ」
メルは手探りでヴァルドの腕を掴むと、鈴についた紐を外套の留め具へ結び始めた。
ヴァルドなら止めようと思えば簡単に止められる。だが、なぜかそのままにしていた。
「できた」
メルが満足そうに手を離す。
ヴァルドが一歩動いた。
チリン。
小さな音が鳴った。
メルの顔がぱっと明るくなる。
「聞こえる」
「だから何だ」
もう一歩。
チリン。
メルが嬉しそうに笑う。
「これなら、とうさまが来たってわかる」
ヴァルドの足が止まった。
「……誰が父だ」
返事はなかった。
メルはもう鈴の音に夢中で、笑いながらヴァルドの周りを歩いている。
ヴァルドは外套につけられた小さな鈴を見下ろした。
取ればいい。邪魔なら捨てればいい。そんなものは、指先一つで壊せる。
だが――。
チリン。
その日、魔王ヴァルドの外套から、小さな鈴が鳴るようになった。




