↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
26/27

第5話 治せるもの

 共同井戸を封じたその日の夕方、裏通りの石畳が剥がされた。町人たちが土を掘り、崩れた石を端へ寄せていく。ヴァルドは持ち上げるのに2人は必要そうな石を一つずつ抱え、道の脇へ積んでいた。


「それ、本当に1人で持てるんだな」


 近くにいた男が呆れたように言う。


「持ってる」


「見れば分かるけどよ」


 ヴァルドは次の石へ手を伸ばした。


 やがて、土の中から古い水路の一部が現れた。石を組んで作られた細い排水路だった。側面の一部が崩れ、黒ずんだ水が土へ染み出している。


 染色職人がしゃがみ込んだ。


「……排水だ」


 棒の先で水路の縁をなぞる。


「ここ、割れてる。思ったよりひどい」


 年配の男が眉を寄せた。


「前から傷んでたんだろうな。あの雨で広がったか」


 エルドは濡れた土を見る。


「井戸までの距離は」


 男が共同井戸の方角を指す。


「すぐそこだ。この辺の土は水を通す。漏れ続けてたなら、あり得る」


 エルドは立ち上がった。


「なら井戸はそのまま止めろ。排水も止められるか」


「染め場を止めれば」


「止めろ」


 染色職人が顔をしかめる。


「今日の分が――」


「明日まで布を染めたいなら、飲み水まで染めるな」


「……分かったよ」


 職人は仲間へ声をかけた。


 その時、裏通りの向こうから男が走ってきた。息を切らし、膝へ手をつく。


「エルド! また倒れた。今度は織り場の女だ。吐いて立てない」


 エルドが男を見る。


「井戸は」


「職人地区のだと思う」


「運べ」


「薬屋へ?」


 エルドは一瞬考えた。


「いや。神殿へ連れていけ。店じゃ入りきらん」


 さらに別の声が飛ぶ。


「エルド! こっちもだ!」


 通りの向こうで別の男が手を振っている。エルドは舌打ちし、周囲の町人を見る。


「井戸を使ってた家を回れ。吐いてる奴、立てない奴、呼んでも返事がおかしい奴を先に運べ。歩ける奴は自分で神殿へ行かせろ」


「全員か?」


「具合が悪い奴だけだ。元気な奴まで寝かせる場所はない」


 町人たちが走り出した。


「ミレナ、神殿へ行くぞ」


 ヴァルドが積み上げた石から手を離す。


「俺は」


「水だ」


「分かった」


 ヴァルドは共同井戸とは反対の通りへ歩き出した。


 町の小さな神殿は、ほどなく病人で埋まり始めた。祈りに使う広間の長椅子が壁際へ寄せられ、床へ毛布や布が敷かれていく。


 神殿の女が声を張る。


「こっちへ寝かせてください! まだ歩ける方は奥へ行かないで! 場所を空けてください!」


 エルドは入口近くに立ち、運び込まれる患者を順に見ていた。


「歩けるか」


「なんとか」


「あっち。水は少しずつ飲め」


 次。


「何回吐いた」


「分からない。ずっとだ」


「寝かせろ。こっち」


 次。


 若い男が母親らしい女を抱えている。


「返事は」


「さっきからほとんどしない」


「先に入れろ」


 ミレナがそちらへ向かう。


 エルドが声を飛ばした。


「そいつから見ろ」


 ミレナがすぐ女のそばへ膝をつくと、淡い光が広がる。その横で、別の患者が吐く。


「桶が足りない!」


「薬屋から桶と薬箱を持ってくる!」


 誰かが走る。別の井戸から水を運ぶ者もいれば、床へ敷く布を持ち込む者、家に残された子供を預かる者もいた。町のあちこちから人が集まり始めた。


 ヴァルドが大きな樽を抱えて戻ってくる。


「どこへ置く」


「入口の横!」


 ミレナが答えた。


 ヴァルドは樽を置く。


「もう1ついるか」


 エルドが患者から顔を上げずに言う。


「いる」


 ヴァルドはまた出ていった。


 エルドは床に横たわる男の瞼を開く。


「水は飲めるか」


「吐く……」


 エルドは近くにいた家族へ言う。


「無理に飲ませるな。口を濡らすだけにしろ」


「薬は?」


「今作る」


 エルドは持ち込まれた薬箱を開く。隣の女を見ていたミレナが顔を上げる。


「エルドさん、この人、術を使っても意識が戻りません」


「呼吸は」


「浅いです」


「そっちを見てろ。次に悪いのは」


「奥の男の人です。吐くのが止まりません」


「終わったらそっち」


 言い終わる前に別の患者が運び込まれ、神殿の入口が一度塞がる。


 エルドが怒鳴る。


「そこに置くな! 歩ける奴が通れなくなる!」


 運んできた男たちが慌てて横へずれる。


 外は、いつの間にか暗くなっていた。それでも患者は増えた。


 ノアも薬屋から移され、神殿の奥に寝かされていた。薬屋にいた時より明らかに喋らなくなっている。水を少し飲ませても吐いた。咳をするたび呼吸が乱れ、そのあと目を閉じたままになる時間が長い。


 父親はノアの横に座っていた。エルドが来ると顔を上げる。


「さっきまた吐いた」


「どれくらい」


「飲んだ分、ほとんど」


 エルドはノアの頬へ手を当てた。


「ノア」


 少年の瞼がわずかに動く。


「聞こえるか」


「……うん」


 声が小さい。エルドは胸の音を聞き、脈を確かめる。


「咳は」


 父親が答える。


「さっきから弱い。弱い方がいいんじゃないのか」


「咳をする力がなくなってるなら悪い」


 父親の顔が強張った。


「ノア」


 もう一度呼ぶ。今度は返事がない。エルドが振り返る。


「ミレナ」


 少し離れた患者を見ていたミレナがすぐ来る。父親が場所を空けた。


「解毒をもう一度。呼吸も見ろ」


「俺は」


 エルドが父親を見る。


「動けるな。水を運べ」


 父親がノアを見る。


「でも――」


「俺と神官がいる」


 父親は一瞬動かなかった。ノアの胸元へミレナの光が広がる。


「……分かった」


 父親は立ち上がった。


「どこからだ」


「南の井戸。ヴァルドを探せ」


 父親は一度だけノアを見てから、神殿を出ていった。


 その後は、時間の区切りがなくなった。患者が来るたび、エルドは薬を出す。吐いた者の身体を横へ向け、水を飲める者には少しずつ飲ませる。飲めない者をミレナが見て、ヴァルドが水を運び、町人が空いた桶を持って出ていく。エルドは何度も広間を往復した。


「薬師!」


 入口から声がした。男と女が、老人を両側から支えている。老人の足はほとんど動いていなかった。


「こっちへ」


 エルドが床を指し、息子夫婦が老人を寝かせた。顔色が悪い。


「名前は」


「バルト。親父です」


 男が答えた。


「いつから」


「昨日の朝から腹が痛いって。でも寝てりゃ治るって言って……」


「吐いたのは」


「昨日の夜から。今日の昼くらいから、返事がおかしくなって」


 エルドが男を見る。


「なんで今まで連れてこなかった」


 男の声が上がる。


「本人が嫌がったんだよ! こんなことで薬師に行くかって。俺たちも、ただ腹を壊しただけだと思って――」


 エルドはもう聞いていなかった。


「ミレナ、こっち!」


 ミレナが駆け寄り、バルトのそばへ膝をついた。


「意識がかなり薄いです」


「解毒できるか」


「やります」


 光がバルトの身体を包む。エルドは呼吸を確かめ、脈を取る。


「水は」


「ほとんど飲めてない」


 息子が答える。


「最後に飲んだのは」


「朝……たぶん」


「たぶんじゃ分からん」


「俺だってずっと見てたわけじゃない!」


「もういい」


 エルドはバルトの身体を横向きにし、息子の手をバルトの肩へ置いた。


「支えろ。仰向けに戻すな」


 男は黙って従った。その時、バルトの呼吸が一度乱れる。


「エルドさん」


「続けろ」


 ミレナの額に汗が浮かんでいた。


「毒は少しずつ抜けてます。でも身体が……」


「分かってる」


 エルドは薬を少量の水へ溶く。


「飲ませられるか」


「やります」


 ミレナが身体を支え、薬を溶いた水を少しずつ口へ含ませる。喉が動いた。


「親父」


 息子が顔を近づける。


 バルトの目がわずかに開いた。


「親父、分かるか」


 口が動く。


「……うるさい」


 息子が息を呑む。


「親父」


「聞こえてる」


 声はほとんど息だった。エルドはバルトの脈から指を離さない。


 一度は呼吸が少し落ち着いた。ミレナも術を続ける。息子と嫁は何も言わず、その横にいた。


 近くで別の患者が呻き、町人が呼ぶ。


「エルド! こっちの子がまた吐いた!」


「横向けろ! 詰まらせるな!」


 エルドは声だけ返した。バルトの呼吸がまた浅くなる。


「エルドさん」


「まだだ」


 ミレナが光を強める。


 老人の胸が一度上がる。


 下がる。


 もう一度。


 その次が遅かった。


「親父?」


 息子が呼ぶ。


 バルトは答えない。


「親父」


 エルドが首元へ指を当てる。ミレナはまだ手を離していない。


 バルトのそばでは、誰もすぐには動かなかった。


「……エルドさん」


 エルドはバルトの顔を見る。


「もういい」


 ミレナの光が消えた。


「親父?」


 息子がもう一度呼ぶ。


 返事はなかった。


 嫁が口元を押さえる。エルドは立ち上がり、一度だけ床に横たわった老人を見る。


 神殿の奥から声がした。


「エルド!」


 エルドが顔を上げる。


「……次」


 エルドはノアのもとへ歩き出した。


 父親が戻ってきた時には、少年の呼吸はさらに浅くなっていた。父親は水桶を置き、駆け寄る。


「ノア? ノア!」


「そこに立つな。邪魔だ」


「どうなってる」


「見れば分かる」


「分からないから聞いてるんだ!」


 父親の声が震える。


 エルドはノアから目を離さない。


「呼吸が弱い。水も入らない。熱も上がってる。体力も落ちてる」


「助かるのか」


 エルドは答えなかった。


「エルド!」


「知らん」


 父親が固まる。


「でも、まだやることはある」


 エルドは布を父親へ投げた。


「水で濡らせ」


 父親は受け取り、すぐ桶へ向かった。ミレナがノアの胸元へ手をかざす。


「解毒は進んでます。でも呼吸が弱いままです」


「咳をする力も落ちてる」


「治癒も重ねます」


「やれ」


 ノアの身体を光が包む。父親が濡らした布を持って戻ってくる。


「次は」


「額。終わったら新しい水を持ってこい」


「分かった」


 父親はノアの額へ布を置く。


 ヴァルドが入口から戻ってきた。両腕には水樽を一つずつ抱えている。


「もう一往復」


 エルドが言う。


 ヴァルドは樽を置き、すぐ外へ出ていった。


 夜は深くなった。患者の出入りは少しずつ減っていったが、神殿から人がいなくなることはなかった。


 バルトの身体には布が掛けられ、息子夫婦がそばにいる。離れた場所では、眠れない患者が何人も横になっていた。ミレナはノアの横に座ったままだった。


 エルドは何度目か分からない脈を取る。


「ノア」


 返事はない。


「聞こえてるなら息をしろ」


「無茶言わないでください」


 ミレナが疲れた声で言う。


「してる」


 ノアの父親が答えた。


 エルドが少年の胸を見る。


 ゆっくりと上がる。


 少し間を空けて、下がる。


 もう一度、上がった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。