第5話 治せるもの
共同井戸を封じたその日の夕方、裏通りの石畳が剥がされた。町人たちが土を掘り、崩れた石を端へ寄せていく。ヴァルドは持ち上げるのに2人は必要そうな石を一つずつ抱え、道の脇へ積んでいた。
「それ、本当に1人で持てるんだな」
近くにいた男が呆れたように言う。
「持ってる」
「見れば分かるけどよ」
ヴァルドは次の石へ手を伸ばした。
やがて、土の中から古い水路の一部が現れた。石を組んで作られた細い排水路だった。側面の一部が崩れ、黒ずんだ水が土へ染み出している。
染色職人がしゃがみ込んだ。
「……排水だ」
棒の先で水路の縁をなぞる。
「ここ、割れてる。思ったよりひどい」
年配の男が眉を寄せた。
「前から傷んでたんだろうな。あの雨で広がったか」
エルドは濡れた土を見る。
「井戸までの距離は」
男が共同井戸の方角を指す。
「すぐそこだ。この辺の土は水を通す。漏れ続けてたなら、あり得る」
エルドは立ち上がった。
「なら井戸はそのまま止めろ。排水も止められるか」
「染め場を止めれば」
「止めろ」
染色職人が顔をしかめる。
「今日の分が――」
「明日まで布を染めたいなら、飲み水まで染めるな」
「……分かったよ」
職人は仲間へ声をかけた。
その時、裏通りの向こうから男が走ってきた。息を切らし、膝へ手をつく。
「エルド! また倒れた。今度は織り場の女だ。吐いて立てない」
エルドが男を見る。
「井戸は」
「職人地区のだと思う」
「運べ」
「薬屋へ?」
エルドは一瞬考えた。
「いや。神殿へ連れていけ。店じゃ入りきらん」
さらに別の声が飛ぶ。
「エルド! こっちもだ!」
通りの向こうで別の男が手を振っている。エルドは舌打ちし、周囲の町人を見る。
「井戸を使ってた家を回れ。吐いてる奴、立てない奴、呼んでも返事がおかしい奴を先に運べ。歩ける奴は自分で神殿へ行かせろ」
「全員か?」
「具合が悪い奴だけだ。元気な奴まで寝かせる場所はない」
町人たちが走り出した。
「ミレナ、神殿へ行くぞ」
ヴァルドが積み上げた石から手を離す。
「俺は」
「水だ」
「分かった」
ヴァルドは共同井戸とは反対の通りへ歩き出した。
町の小さな神殿は、ほどなく病人で埋まり始めた。祈りに使う広間の長椅子が壁際へ寄せられ、床へ毛布や布が敷かれていく。
神殿の女が声を張る。
「こっちへ寝かせてください! まだ歩ける方は奥へ行かないで! 場所を空けてください!」
エルドは入口近くに立ち、運び込まれる患者を順に見ていた。
「歩けるか」
「なんとか」
「あっち。水は少しずつ飲め」
次。
「何回吐いた」
「分からない。ずっとだ」
「寝かせろ。こっち」
次。
若い男が母親らしい女を抱えている。
「返事は」
「さっきからほとんどしない」
「先に入れろ」
ミレナがそちらへ向かう。
エルドが声を飛ばした。
「そいつから見ろ」
ミレナがすぐ女のそばへ膝をつくと、淡い光が広がる。その横で、別の患者が吐く。
「桶が足りない!」
「薬屋から桶と薬箱を持ってくる!」
誰かが走る。別の井戸から水を運ぶ者もいれば、床へ敷く布を持ち込む者、家に残された子供を預かる者もいた。町のあちこちから人が集まり始めた。
ヴァルドが大きな樽を抱えて戻ってくる。
「どこへ置く」
「入口の横!」
ミレナが答えた。
ヴァルドは樽を置く。
「もう1ついるか」
エルドが患者から顔を上げずに言う。
「いる」
ヴァルドはまた出ていった。
エルドは床に横たわる男の瞼を開く。
「水は飲めるか」
「吐く……」
エルドは近くにいた家族へ言う。
「無理に飲ませるな。口を濡らすだけにしろ」
「薬は?」
「今作る」
エルドは持ち込まれた薬箱を開く。隣の女を見ていたミレナが顔を上げる。
「エルドさん、この人、術を使っても意識が戻りません」
「呼吸は」
「浅いです」
「そっちを見てろ。次に悪いのは」
「奥の男の人です。吐くのが止まりません」
「終わったらそっち」
言い終わる前に別の患者が運び込まれ、神殿の入口が一度塞がる。
エルドが怒鳴る。
「そこに置くな! 歩ける奴が通れなくなる!」
運んできた男たちが慌てて横へずれる。
外は、いつの間にか暗くなっていた。それでも患者は増えた。
ノアも薬屋から移され、神殿の奥に寝かされていた。薬屋にいた時より明らかに喋らなくなっている。水を少し飲ませても吐いた。咳をするたび呼吸が乱れ、そのあと目を閉じたままになる時間が長い。
父親はノアの横に座っていた。エルドが来ると顔を上げる。
「さっきまた吐いた」
「どれくらい」
「飲んだ分、ほとんど」
エルドはノアの頬へ手を当てた。
「ノア」
少年の瞼がわずかに動く。
「聞こえるか」
「……うん」
声が小さい。エルドは胸の音を聞き、脈を確かめる。
「咳は」
父親が答える。
「さっきから弱い。弱い方がいいんじゃないのか」
「咳をする力がなくなってるなら悪い」
父親の顔が強張った。
「ノア」
もう一度呼ぶ。今度は返事がない。エルドが振り返る。
「ミレナ」
少し離れた患者を見ていたミレナがすぐ来る。父親が場所を空けた。
「解毒をもう一度。呼吸も見ろ」
「俺は」
エルドが父親を見る。
「動けるな。水を運べ」
父親がノアを見る。
「でも――」
「俺と神官がいる」
父親は一瞬動かなかった。ノアの胸元へミレナの光が広がる。
「……分かった」
父親は立ち上がった。
「どこからだ」
「南の井戸。ヴァルドを探せ」
父親は一度だけノアを見てから、神殿を出ていった。
その後は、時間の区切りがなくなった。患者が来るたび、エルドは薬を出す。吐いた者の身体を横へ向け、水を飲める者には少しずつ飲ませる。飲めない者をミレナが見て、ヴァルドが水を運び、町人が空いた桶を持って出ていく。エルドは何度も広間を往復した。
「薬師!」
入口から声がした。男と女が、老人を両側から支えている。老人の足はほとんど動いていなかった。
「こっちへ」
エルドが床を指し、息子夫婦が老人を寝かせた。顔色が悪い。
「名前は」
「バルト。親父です」
男が答えた。
「いつから」
「昨日の朝から腹が痛いって。でも寝てりゃ治るって言って……」
「吐いたのは」
「昨日の夜から。今日の昼くらいから、返事がおかしくなって」
エルドが男を見る。
「なんで今まで連れてこなかった」
男の声が上がる。
「本人が嫌がったんだよ! こんなことで薬師に行くかって。俺たちも、ただ腹を壊しただけだと思って――」
エルドはもう聞いていなかった。
「ミレナ、こっち!」
ミレナが駆け寄り、バルトのそばへ膝をついた。
「意識がかなり薄いです」
「解毒できるか」
「やります」
光がバルトの身体を包む。エルドは呼吸を確かめ、脈を取る。
「水は」
「ほとんど飲めてない」
息子が答える。
「最後に飲んだのは」
「朝……たぶん」
「たぶんじゃ分からん」
「俺だってずっと見てたわけじゃない!」
「もういい」
エルドはバルトの身体を横向きにし、息子の手をバルトの肩へ置いた。
「支えろ。仰向けに戻すな」
男は黙って従った。その時、バルトの呼吸が一度乱れる。
「エルドさん」
「続けろ」
ミレナの額に汗が浮かんでいた。
「毒は少しずつ抜けてます。でも身体が……」
「分かってる」
エルドは薬を少量の水へ溶く。
「飲ませられるか」
「やります」
ミレナが身体を支え、薬を溶いた水を少しずつ口へ含ませる。喉が動いた。
「親父」
息子が顔を近づける。
バルトの目がわずかに開いた。
「親父、分かるか」
口が動く。
「……うるさい」
息子が息を呑む。
「親父」
「聞こえてる」
声はほとんど息だった。エルドはバルトの脈から指を離さない。
一度は呼吸が少し落ち着いた。ミレナも術を続ける。息子と嫁は何も言わず、その横にいた。
近くで別の患者が呻き、町人が呼ぶ。
「エルド! こっちの子がまた吐いた!」
「横向けろ! 詰まらせるな!」
エルドは声だけ返した。バルトの呼吸がまた浅くなる。
「エルドさん」
「まだだ」
ミレナが光を強める。
老人の胸が一度上がる。
下がる。
もう一度。
その次が遅かった。
「親父?」
息子が呼ぶ。
バルトは答えない。
「親父」
エルドが首元へ指を当てる。ミレナはまだ手を離していない。
バルトのそばでは、誰もすぐには動かなかった。
「……エルドさん」
エルドはバルトの顔を見る。
「もういい」
ミレナの光が消えた。
「親父?」
息子がもう一度呼ぶ。
返事はなかった。
嫁が口元を押さえる。エルドは立ち上がり、一度だけ床に横たわった老人を見る。
神殿の奥から声がした。
「エルド!」
エルドが顔を上げる。
「……次」
エルドはノアのもとへ歩き出した。
父親が戻ってきた時には、少年の呼吸はさらに浅くなっていた。父親は水桶を置き、駆け寄る。
「ノア? ノア!」
「そこに立つな。邪魔だ」
「どうなってる」
「見れば分かる」
「分からないから聞いてるんだ!」
父親の声が震える。
エルドはノアから目を離さない。
「呼吸が弱い。水も入らない。熱も上がってる。体力も落ちてる」
「助かるのか」
エルドは答えなかった。
「エルド!」
「知らん」
父親が固まる。
「でも、まだやることはある」
エルドは布を父親へ投げた。
「水で濡らせ」
父親は受け取り、すぐ桶へ向かった。ミレナがノアの胸元へ手をかざす。
「解毒は進んでます。でも呼吸が弱いままです」
「咳をする力も落ちてる」
「治癒も重ねます」
「やれ」
ノアの身体を光が包む。父親が濡らした布を持って戻ってくる。
「次は」
「額。終わったら新しい水を持ってこい」
「分かった」
父親はノアの額へ布を置く。
ヴァルドが入口から戻ってきた。両腕には水樽を一つずつ抱えている。
「もう一往復」
エルドが言う。
ヴァルドは樽を置き、すぐ外へ出ていった。
夜は深くなった。患者の出入りは少しずつ減っていったが、神殿から人がいなくなることはなかった。
バルトの身体には布が掛けられ、息子夫婦がそばにいる。離れた場所では、眠れない患者が何人も横になっていた。ミレナはノアの横に座ったままだった。
エルドは何度目か分からない脈を取る。
「ノア」
返事はない。
「聞こえてるなら息をしろ」
「無茶言わないでください」
ミレナが疲れた声で言う。
「してる」
ノアの父親が答えた。
エルドが少年の胸を見る。
ゆっくりと上がる。
少し間を空けて、下がる。
もう一度、上がった。




