第6話 来るな
あの夜から3日が経った。職人地区の共同井戸には、まだ板が渡され、縄が張られている。壊れた排水路の修理は終わり、掘り返された裏通りでは石畳を戻す作業が続いている。染め場も少しずつ動き始めているが、飲み水だけは別の井戸から運ばれている。新しく倒れる者は、もう出ていなかった。
朝、町の小さな神殿でバルトの葬儀が行われた。ミレナはヴァルドと並んで、集まった町人たちの後ろに立っている。前にはバルトの息子と嫁がいた。あの夜より顔色は戻っていたが、2人とも疲れた顔をしていた。
祈りが終わり、人が少しずつ外へ出ていく。残った者たちはバルトの息子夫婦へ短く声をかけ、肩へ手を置いてから神殿を出ていった。
「薬師は来てないのか」
誰かが小さな声で言った。
「来るわけないだろ」
「まあ、あいつだしな」
それ以上、誰も続けなかった。
神殿の壁際には、あの夜に使った毛布が畳まれて積まれ、裏手には洗われた桶が伏せてあった。3日前には患者で埋まっていた広間も、長椅子が元の位置へ戻されている。それでも床の隅には、運び込まれた寝具の跡がまだ残っていた。
バルトの息子が振り返り、ミレナに気づいた。
「神官さん」
「はい」
「あの時は……どうも」
言葉が途中で止まる。ミレナは少しだけ頭を下げた。
「いえ」
「親父、昔から治療師だの薬師だの嫌いでさ。腹くらい寝てりゃ治るって、ずっと言ってたんだ」
「そうだったんですね」
「最後まで言うこと聞かないんだから、どうしようもないよ」
男はそう言って少しだけ笑ったが、すぐに笑みは消えた。
「エルドにも言っといてくれ」
「何をですか?」
「……いや、いい。言っても、どうせ嫌なこと返してくる」
ミレナは否定しなかった。ヴァルドも何も言わなかった。
神殿を出ると、葬儀に来た町人の何人かがそのまま片づけを手伝っていた。誰かが毛布を抱え、誰かが水桶を洗う。あの夜と同じ顔も多かったが、今日は誰も走っていなかった。市場の方からはいつもの声が聞こえている。数日前まで病人を運ぶ人間が行き交っていた通りを、今は荷車が走っている。
途中の家では、腹を壊して寝込んでいた女が戸口に座って豆の筋を取っていた。向かいでは若い男が桶を洗っている。まだ顔色の悪い者もいたが、寝たきりの者はずいぶん減っていた。
薬屋の前には3人ほど待っていた。扉が開き、中から出てきた年配の女がミレナを見るなり文句を言った。
「もう薬はいらないってさ。まだ腹が変だって言ってるのに。食えて歩けるなら帰れって。相変わらずだよ」
店の中からエルドの声が飛ぶ。
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言ってるんだよ」
女は言い返し、そのまま市場の方へ歩いていった。次に待っていた男が苦笑しながら店へ入る。
ミレナは薬屋を見たが、中へは入らなかった。
「葬儀には行かなくても、仕事はしてるんですね」
「薬師だからな」
ヴァルドが言う。
「そうなんですけど」
2人も市場へ向かった。
「あの薬師が井戸を止めなかったら、もっと死人が出てたぞ」
店先で男が話している。向かいの店の女が鼻を鳴らした。
「だからって好きにはならないよ。私なんか吐いてる時に『桶に吐け、床を汚すな』って言われたんだから」
「床を汚すなは普通だろ」
「吐いてる人間に最初に言うことじゃないだろ」
「腕はいいんだよ」
「口が悪いんだよ」
「前からだ」
「知ってるよ」
ミレナが足を止める。ヴァルドも止まった。
「エルドさんの評判、変わりませんね」
「そうか」
ミレナは少し笑い、また歩き出した。
共同井戸の前では、男たちが新しい縄を張り直していた。板の脇には、別の井戸から運ばれた水樽がいくつも並んでいる。
「まだ使えないんですか?」
ミレナが聞く。
作業をしていた男が答えた。
「しばらくはな。排水は直したけど、水の方はもう少し様子を見る。井戸をさらって、何度か汲み直して、それからだ。急いでまた腹を壊したら笑えない」
隣の男が樽を転がしながら言う。
「南の井戸から運ぶのも慣れたよ。慣れたくはないけどな」
通りの向こうでは、染色職人たちが修理した排水へ水を流し、漏れがないか確かめていた。以前沈んでいた石畳も持ち上げられ、土を固め直している。
そこへ近所の女が桶を持ってきた。井戸へ向かいかけ、張られた縄を見てから樽の方へ曲がる。
「まだこっちかい」
「まだだ」
「早くしておくれよ。毎朝ここまで樽を取りに来るのも面倒なんだから」
「腹壊すよりいいだろ」
「それはそうだけどさ」
女は樽から水を汲み、両手で桶を抱えて帰っていった。誰も縄を外そうとはしなかった。
少し離れたところでは、井戸を覗こうとした子供が母親に腕を引かれ、まだ使えないと言い聞かされていた。男たちは気にする様子もなく作業を続けた。
ヴァルドが樽を見る。
「運ぶか」
作業をしていた男が首を振る。
「今日はいい。昨日まで散々やってもらっただろ」
「そうか」
ヴァルドはそのまま歩き出した。
* * *
昼前、ノアが父親と一緒に薬屋へ来た。もう背負われてはいない。自分の足で歩いて店へ入り、処置台へ座る。ただ、何度か小さく咳をしていた。
「口を開けろ」
「また?」
「嫌なら帰れ」
「診てもらいに来たのに?」
「なら開けろ」
ノアは渋々口を開けた。エルドは喉を見て、胸の音を聞く。
「深く吸え」
ノアが息を吸い、途中で咳き込んだ。エルドは胸の音を聞いたまま、咳が収まるのを待つ。
「中毒の方はもういい。お前と母親は」
「俺はもう何ともない。あいつも昨日から普通に飯を作ってる」
「なら薬はいらん」
父親の肩から力が抜ける。
「じゃあ、ノアももう普通にしていいのか」
「中毒はな。咳は別だ」
「やっぱり?」
ノアが嫌そうに言う。
「やっぱりだ」
父親が腕を組む。
「工房は」
「出すな」
父親が黙ると、エルドは薬棚へ向かう。
「あと5日」
「5日か」
「長いなら10日にする」
「5日でいい」
エルドが振り返る。
「今度は守れ」
「分かってる。今度は守る」
エルドはそれ以上言わず、薬棚から包みを取り出して調合台へ置いた。
「5日過ぎたら?」
父親が聞く。
「咳が増えてなければ少しずつ戻せ。朝から晩まで出すな。染め場の煙がひどい日は近づけるな」
「分かった」
ノアが父親を見る。
「最近、父ちゃんエルドの言うことばっかり聞くね」
「誰のせいだと思ってる」
「井戸?」
「お前だよ」
ノアは納得していない顔をした。エルドが薬包を差し出す。
「朝と夜。なくなるまで飲め」
ノアが嫌そうに見る。
「それ、また苦いやつ?」
「そうだ」
「甘いやつないの?」
「ない」
「作ってよ」
「嫌だ」
ノアが顔をしかめる。
「薬師なのに」
「薬師だからだ」
「意味分かんない」
父親が横から口を挟む。
「苦くても飲め」
「父ちゃんまで」
「今度はちゃんと飲め」
「次は甘いやつにして」
「次がなければ作らなくて済む」
「じゃあ来ない」
「そうしろ」
父親が代金を置く。
「これで足りるか」
「ああ」
ノアが処置台から降りる。扉のところで一度咳をした。
「走るな」
「走ってないよ」
「これからだ」
「走らないって」
ノアは文句を言いながら父親と店を出た。
* * *
午後、ミレナが薬屋へ入った。エルドは調合台で乾燥させた葉を刻んでいる。
「旅用の薬、できてます?」
「あそこ」
棚の端に包みが積まれていた。ミレナは数を確かめながら袋へ入れる。
「神殿に残ってた人たち、今日でほとんど家に戻れるそうです。まだ食べられない人が2人いますけど、昨日よりはいいって」
「水が飲めてるなら、そのうち戻る」
「町の人たち、エルドさんに感謝してましたよ。でも、やっぱり言い方はどうかと思うって」
「そいつらに言え」
「私もそう思います。もう少し患者さんに優しくした方がいいです」
「お前はそうすればいい」
ミレナは少し黙った。
「前に聞いた師匠さんの話、少し分かった気がします」
「そうか」
エルドは刻んだ葉を皿へ移した。
「明日の朝、町を出ます」
「そうか」
「一応、お世話になったので」
「何もしてない」
「かなりしましたよ」
「お前が勝手に手伝った」
ミレナは笑いながら袋の口を閉じた。
「じゃあ、代金は明日ヴァルドさんと一緒に払いますね」
「今払え」
「少し足りないんです」
エルドがミレナを見る。
「またか」
「今回は本当に少しだけです」
「踏み倒したら倍だ」
「踏み倒しません」
ミレナは薬の袋を持ち上げた。
「じゃあ、明日」
「金を忘れるな」
「分かってます」
ミレナは笑いながら店を出た。
* * *
翌朝、ヴァルドとミレナは旅支度を整えて薬屋へ来た。
ヴァルドが代金を台の上へ置く。エルドは数え、足りているのを確かめた。
「これで終わりだ」
「いろいろありがとうございました」
「礼なら神殿に言え」
「エルドさんにも言ってます」
「いらん」
ヴァルドが扉の方を見る。
「行くぞ」
「はい」
ミレナは扉へ向かい、そこで振り返った。
「またこの辺を通ったら寄りますね」
「来るな」
ミレナが目を細める。
「もう少し言い方があると思うんですけど」
「ない」
ミレナは呆れたように笑った。
「じゃあ、行きます」
エルドは返事をしなかった。
ヴァルドが先に外へ出て、ミレナもそのあとを追った。扉が閉まり、店の中が静かになる。エルドは調合台へ戻り、途中だった薬草を手に取った。
しばらくして、また扉が開いた。
「すみません」
若い女が、小さな子供の手を引いて立っている。
「朝から熱があって……」
エルドは薬草を置き、子供を見る。
「座れ。どうした」




