↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
27/27

第6話 来るな

 あの夜から3日が経った。職人地区の共同井戸には、まだ板が渡され、縄が張られている。壊れた排水路の修理は終わり、掘り返された裏通りでは石畳を戻す作業が続いている。染め場も少しずつ動き始めているが、飲み水だけは別の井戸から運ばれている。新しく倒れる者は、もう出ていなかった。


 朝、町の小さな神殿でバルトの葬儀が行われた。ミレナはヴァルドと並んで、集まった町人たちの後ろに立っている。前にはバルトの息子と嫁がいた。あの夜より顔色は戻っていたが、2人とも疲れた顔をしていた。


 祈りが終わり、人が少しずつ外へ出ていく。残った者たちはバルトの息子夫婦へ短く声をかけ、肩へ手を置いてから神殿を出ていった。


「薬師は来てないのか」


 誰かが小さな声で言った。


「来るわけないだろ」


「まあ、あいつだしな」


 それ以上、誰も続けなかった。


 神殿の壁際には、あの夜に使った毛布が畳まれて積まれ、裏手には洗われた桶が伏せてあった。3日前には患者で埋まっていた広間も、長椅子が元の位置へ戻されている。それでも床の隅には、運び込まれた寝具の跡がまだ残っていた。


 バルトの息子が振り返り、ミレナに気づいた。


「神官さん」


「はい」


「あの時は……どうも」


 言葉が途中で止まる。ミレナは少しだけ頭を下げた。


「いえ」


「親父、昔から治療師だの薬師だの嫌いでさ。腹くらい寝てりゃ治るって、ずっと言ってたんだ」


「そうだったんですね」


「最後まで言うこと聞かないんだから、どうしようもないよ」


 男はそう言って少しだけ笑ったが、すぐに笑みは消えた。


「エルドにも言っといてくれ」


「何をですか?」


「……いや、いい。言っても、どうせ嫌なこと返してくる」


 ミレナは否定しなかった。ヴァルドも何も言わなかった。


 神殿を出ると、葬儀に来た町人の何人かがそのまま片づけを手伝っていた。誰かが毛布を抱え、誰かが水桶を洗う。あの夜と同じ顔も多かったが、今日は誰も走っていなかった。市場の方からはいつもの声が聞こえている。数日前まで病人を運ぶ人間が行き交っていた通りを、今は荷車が走っている。


 途中の家では、腹を壊して寝込んでいた女が戸口に座って豆の筋を取っていた。向かいでは若い男が桶を洗っている。まだ顔色の悪い者もいたが、寝たきりの者はずいぶん減っていた。


 薬屋の前には3人ほど待っていた。扉が開き、中から出てきた年配の女がミレナを見るなり文句を言った。


「もう薬はいらないってさ。まだ腹が変だって言ってるのに。食えて歩けるなら帰れって。相変わらずだよ」


 店の中からエルドの声が飛ぶ。


「聞こえてるぞ」


「聞こえるように言ってるんだよ」


 女は言い返し、そのまま市場の方へ歩いていった。次に待っていた男が苦笑しながら店へ入る。


 ミレナは薬屋を見たが、中へは入らなかった。


「葬儀には行かなくても、仕事はしてるんですね」


「薬師だからな」


 ヴァルドが言う。


「そうなんですけど」


 2人も市場へ向かった。


「あの薬師が井戸を止めなかったら、もっと死人が出てたぞ」


 店先で男が話している。向かいの店の女が鼻を鳴らした。


「だからって好きにはならないよ。私なんか吐いてる時に『桶に吐け、床を汚すな』って言われたんだから」


「床を汚すなは普通だろ」


「吐いてる人間に最初に言うことじゃないだろ」


「腕はいいんだよ」


「口が悪いんだよ」


「前からだ」


「知ってるよ」


 ミレナが足を止める。ヴァルドも止まった。


「エルドさんの評判、変わりませんね」


「そうか」


 ミレナは少し笑い、また歩き出した。


 共同井戸の前では、男たちが新しい縄を張り直していた。板の脇には、別の井戸から運ばれた水樽がいくつも並んでいる。


「まだ使えないんですか?」


 ミレナが聞く。


 作業をしていた男が答えた。


「しばらくはな。排水は直したけど、水の方はもう少し様子を見る。井戸をさらって、何度か汲み直して、それからだ。急いでまた腹を壊したら笑えない」


 隣の男が樽を転がしながら言う。


「南の井戸から運ぶのも慣れたよ。慣れたくはないけどな」


 通りの向こうでは、染色職人たちが修理した排水へ水を流し、漏れがないか確かめていた。以前沈んでいた石畳も持ち上げられ、土を固め直している。


 そこへ近所の女が桶を持ってきた。井戸へ向かいかけ、張られた縄を見てから樽の方へ曲がる。


「まだこっちかい」


「まだだ」


「早くしておくれよ。毎朝ここまで樽を取りに来るのも面倒なんだから」


「腹壊すよりいいだろ」


「それはそうだけどさ」


 女は樽から水を汲み、両手で桶を抱えて帰っていった。誰も縄を外そうとはしなかった。


 少し離れたところでは、井戸を覗こうとした子供が母親に腕を引かれ、まだ使えないと言い聞かされていた。男たちは気にする様子もなく作業を続けた。


 ヴァルドが樽を見る。


「運ぶか」


 作業をしていた男が首を振る。


「今日はいい。昨日まで散々やってもらっただろ」


「そうか」


 ヴァルドはそのまま歩き出した。


 * * *


 昼前、ノアが父親と一緒に薬屋へ来た。もう背負われてはいない。自分の足で歩いて店へ入り、処置台へ座る。ただ、何度か小さく咳をしていた。


「口を開けろ」


「また?」


「嫌なら帰れ」


「診てもらいに来たのに?」


「なら開けろ」


 ノアは渋々口を開けた。エルドは喉を見て、胸の音を聞く。


「深く吸え」


 ノアが息を吸い、途中で咳き込んだ。エルドは胸の音を聞いたまま、咳が収まるのを待つ。


「中毒の方はもういい。お前と母親は」


「俺はもう何ともない。あいつも昨日から普通に飯を作ってる」


「なら薬はいらん」


 父親の肩から力が抜ける。


「じゃあ、ノアももう普通にしていいのか」


「中毒はな。咳は別だ」


「やっぱり?」


 ノアが嫌そうに言う。


「やっぱりだ」


 父親が腕を組む。


「工房は」


「出すな」


 父親が黙ると、エルドは薬棚へ向かう。


「あと5日」


「5日か」


「長いなら10日にする」


「5日でいい」


 エルドが振り返る。


「今度は守れ」


「分かってる。今度は守る」


 エルドはそれ以上言わず、薬棚から包みを取り出して調合台へ置いた。


「5日過ぎたら?」


 父親が聞く。


「咳が増えてなければ少しずつ戻せ。朝から晩まで出すな。染め場の煙がひどい日は近づけるな」


「分かった」


 ノアが父親を見る。


「最近、父ちゃんエルドの言うことばっかり聞くね」


「誰のせいだと思ってる」


「井戸?」


「お前だよ」


 ノアは納得していない顔をした。エルドが薬包を差し出す。


「朝と夜。なくなるまで飲め」


 ノアが嫌そうに見る。


「それ、また苦いやつ?」


「そうだ」


「甘いやつないの?」


「ない」


「作ってよ」


「嫌だ」


 ノアが顔をしかめる。


「薬師なのに」


「薬師だからだ」


「意味分かんない」


 父親が横から口を挟む。


「苦くても飲め」


「父ちゃんまで」


「今度はちゃんと飲め」


「次は甘いやつにして」


「次がなければ作らなくて済む」


「じゃあ来ない」


「そうしろ」


 父親が代金を置く。


「これで足りるか」


「ああ」


 ノアが処置台から降りる。扉のところで一度咳をした。


「走るな」


「走ってないよ」


「これからだ」


「走らないって」


 ノアは文句を言いながら父親と店を出た。


 * * *


 午後、ミレナが薬屋へ入った。エルドは調合台で乾燥させた葉を刻んでいる。


「旅用の薬、できてます?」


「あそこ」


 棚の端に包みが積まれていた。ミレナは数を確かめながら袋へ入れる。


「神殿に残ってた人たち、今日でほとんど家に戻れるそうです。まだ食べられない人が2人いますけど、昨日よりはいいって」


「水が飲めてるなら、そのうち戻る」


「町の人たち、エルドさんに感謝してましたよ。でも、やっぱり言い方はどうかと思うって」


「そいつらに言え」


「私もそう思います。もう少し患者さんに優しくした方がいいです」


「お前はそうすればいい」


 ミレナは少し黙った。


「前に聞いた師匠さんの話、少し分かった気がします」


「そうか」


 エルドは刻んだ葉を皿へ移した。


「明日の朝、町を出ます」


「そうか」


「一応、お世話になったので」


「何もしてない」


「かなりしましたよ」


「お前が勝手に手伝った」


 ミレナは笑いながら袋の口を閉じた。


「じゃあ、代金は明日ヴァルドさんと一緒に払いますね」


「今払え」


「少し足りないんです」


 エルドがミレナを見る。


「またか」


「今回は本当に少しだけです」


「踏み倒したら倍だ」


「踏み倒しません」


 ミレナは薬の袋を持ち上げた。


「じゃあ、明日」


「金を忘れるな」


「分かってます」


 ミレナは笑いながら店を出た。


 * * *


 翌朝、ヴァルドとミレナは旅支度を整えて薬屋へ来た。


 ヴァルドが代金を台の上へ置く。エルドは数え、足りているのを確かめた。


「これで終わりだ」


「いろいろありがとうございました」


「礼なら神殿に言え」


「エルドさんにも言ってます」


「いらん」


 ヴァルドが扉の方を見る。


「行くぞ」


「はい」


 ミレナは扉へ向かい、そこで振り返った。


「またこの辺を通ったら寄りますね」


「来るな」


 ミレナが目を細める。


「もう少し言い方があると思うんですけど」


「ない」


 ミレナは呆れたように笑った。


「じゃあ、行きます」


 エルドは返事をしなかった。


 ヴァルドが先に外へ出て、ミレナもそのあとを追った。扉が閉まり、店の中が静かになる。エルドは調合台へ戻り、途中だった薬草を手に取った。


 しばらくして、また扉が開いた。


「すみません」


 若い女が、小さな子供の手を引いて立っている。


「朝から熱があって……」


 エルドは薬草を置き、子供を見る。


「座れ。どうした」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。