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第4話 同じ水

 それから2日後。


 朝一番に来たのは、染色工房で働く若い男だった。


「昨日の夜から腹が痛い」


 男は腹を押さえながら、処置台の端へ腰を下ろした。


「吐いたか」


「2回。朝は何も食ってない」


「熱は」


「少しあると思う」


 エルドは額に手を当て、顔色を見る。


「昨日、何を食った」


「市場で干し肉とパン。あとは家で豆の煮込み」


「一緒に食った奴は」


「工房の連中も何人か」


「そいつらは」


「知らん。俺だけかもしれない」


 エルドは棚から薬包を取り出した。


「今日は休め。水は少しずつ飲め。一気に飲むな」


「仕事が――」


「吐きながら染める気か」


「……休むよ」


 男が薬を受け取って帰った。


 それから半刻もしないうちに、今度は年配の女が入ってきた。


「朝から気持ち悪くてねえ」


 腹痛と吐き気があり、頭も重いという。


 エルドは椅子へ座らせた。


「昨日、市場で何を食った」


「市場? 昨日は行ってないよ」


 エルドの手が止まる。


「家では」


「粥と干した魚。息子夫婦と一緒」


「そいつらは」


「嫁が少し腹を痛がってる。息子は平気」


 エルドは女の目を見てから、口の中を確かめた。


「水は飲めるか」


「少しなら」


「飲め。吐いた分は戻せ」


「水を戻せって?」


「腹に戻せとは言ってない」


「相変わらず嫌な言い方するねえ」


「元気なら帰れ」


「元気じゃないから来たんだよ」


 女は文句を言いながら薬を受け取った。


 3人目は夫婦だった。


 妻は店へ入るなり椅子へ座り込み、夫は隣で額を押さえている。


「私は朝から3回吐いたよ」


「俺は吐いてない。頭が重いだけだ」


 エルドは2人を順に見る。


「昨日の夕食は」


「同じだよ。パンと野菜の煮込み」


「昼は」


「俺は工房で食った。こいつは家だ」


「市場で同じものは」


 夫婦が顔を見合わせる。


「ないねえ」


「たぶん」


「水は」


「いつものを飲んでるよ」


「いつものじゃ分からん」


「職人地区の共同井戸さ」


 エルドは帳面へ何かを書いた。


 昼前になると、腹痛や吐き気、頭痛、身体のだるさを訴える患者がさらに何人も来た。熱のある者もいれば、ない者もいる。


 椅子が足りなくなり、店の外で待つ者まで出始めた。


「今日は多いですね」


 声に顔を上げると、ミレナが店へ入ってきた。後ろにはヴァルドもいる。


「同じようなのばかりだ」


 エルドは答えながら、次の患者の腹へ手を当てた。


 椅子に座っていた男が口元を押さえる。


「吐きそう」


「桶」


 ミレナがすぐ横の桶を取り、男の前へ置いた。


 男が吐き終わるのを待ってから、背中へ手を添える。


「少し楽にしますね」


 淡い光が広がり、荒かった呼吸が落ち着く。


「助かった……」


「治ったわけではありません。水分は取ってください」


 ミレナが顔を上げると、外にも2人待っていた。


「私も手伝います」


「好きにしろ」


 エルドは帳面を開いたまま、次の患者へ向き直った。


「昨日の夕食は」


「パンと煮豆」


「市場で買ったものは」


「塩くらいだ」


「家族は」


「妻が朝から腹を壊してる」


 答えを聞くたび、エルドは帳面へ短く書き込んでいく。


 ミレナが横から覗いた。


「住んでる場所も?」


「ああ。仕事場と、使ってる井戸もだ」


 帳面には、すでに何人もの名前が並んでいた。


 昼を過ぎる頃、ようやく店内の患者をひと通り診終えた。エルドは帳面を持ち、ミレナとヴァルドを連れて市場へ向かった。


 市場では、昨日売られた干し肉が悪かったらしいという話が広がっていた。


「うちの肉じゃないぞ」


 肉屋の主人は不機嫌そうに腕を組んだ。


「昨日買った奴が何人も腹を壊してるって聞いたぞ」


 エルドが言う。


「同じ樽から出した肉なら、他にも何十人も食ってる。そいつらはどうなんだ」


「平気な奴もいる」


「なら肉じゃないだろ」


「まだ分からん」


「分からんのに来たのかよ」


「分からんから来た」


 主人は嫌そうな顔をした。


 肉屋の店先に、昨日その干し肉を買ったという職人がいた。


「昨日の干し肉?」


「ああ。食ったよ。今朝も残りを食った」


「腹は」


「何ともない」


「一緒に食った奴は」


「2人。そいつらも普通に働いてる」


 魚屋でも似たような話だった。


 同じ魚を食べた家族のうち、腹を壊したのは1人だけ。逆に、朝薬屋へ来た年配の女は市場へ行ってすらいない。


 エルドは店へ戻る途中、帳面を開いた。


「干し肉は外すんですか? 魚も?」


「どっちも外さん。だが薄い」


「食べ物じゃないなら、別の共通点ですよね」


「探してる」


 薬屋へ戻ると、外には新しく3人待っていた。ヴァルドは店へ入るなり、空いていた椅子を持って外へ出た。


 エルドは患者を診ながら、帳面へまた一つ印を増やしていく。


 その時、扉の外から怒鳴り声がした。


「エルド!」


 ノアの父親だった。


 背中にはノアを背負っている。少年はぐったりして、父親の肩へ額を預けていた。


「中へ入れろ」


 エルドが処置台を指した。


 父親はノアを寝かせる。


「昨日の夜から吐いてる。今朝は立つのもしんどそうで」


「腹は」


「痛い」


 ノアが小さく答えた。


「咳は」


「いつもより少し多い」


 エルドは腹へ手を当て、目と口の中を見る。


「何を食った」


「俺たちと同じだ」


 父親が答える。


「母親は」


「腹が痛いって言ってる。俺も頭が重い。母親は1回吐いた」


 ミレナがノアのそばへ座る。エルドは一度そちらを見た。


「そっちは任せる」


 ミレナは頷き、ノアの胸元へ手をかざした。


 神聖術の光がゆっくり広がり、荒かった呼吸が少し落ち着く。


 エルドは父親への問いを続けた。


「昨日、どこにいた。ノアは」


「俺は工房と家だ。ノアは家。昨日は休ませた」


「工房には行ってないんだな」


「行ってない」


 エルドの指が帳面の上で止まる。


「昨日食ったものは。母親も同じか」


「朝はパン。昼は家で粥。夜はみんな同じ煮込みだ」


「市場の干し肉や魚は」


「どっちも食ってない」


「飲み水は」


 父親が少し考える。


「いつもの井戸だ」


「どこの」


「職人地区の共同井戸」


「家でもそれを使ってるのか」


「そうだ。毎朝汲んでる」


 エルドは帳面をめくり、朝から来た患者の名前を順に追った。


「最初の奴は染め場の東」


 ミレナが帳面を覗く。


「この夫婦も職人地区ですね」


「こいつは裏通りだ」


「でも井戸は?」


 エルドは夫婦の横に書いた短い文字を見る。


「同じだ」


 次の名前にも、その次にも、同じ井戸の名があった。


「水ですか?」


「まだ決めるな」


 エルドは帳面を閉じた。


 ノアの呼吸が落ち着いているのを確かめ、父親を見る。


「ここにいろ。動かすな」


「分かった」


 エルドは待っていた患者を手早く診終え、職人地区の共同井戸を使っている者には、原因が分かるまで飲むのを止めるよう告げた。


「見に行く」


 職人地区の共同井戸では、何人もの町人が桶を下ろしていた。


「待て」


 エルドの声に、井戸端の女が振り向く。


「何だい」


「その水、飲むな」


 場が一瞬静かになった。


「なんでだよ」


 桶を持った男が眉をひそめる。


「腹を壊してる奴が、この井戸を使ってる」


「俺は毎日飲んでるぞ。今朝も飲んだ」


「うちの子だって飲んでる。何ともないよ」


「昨日まで誰もそんなこと言ってなかったぞ」


 何人かが一斉に口を開く。


「全員がすぐ倒れるとは限らん」


 エルドは井戸を見る。


「原因が違うかもしれん。だから確かめるまで止める」


「止めるって簡単に言うなよ。飯も洗濯もどうするんだ」


「他から運べ」


「この辺だけで何十軒あると思ってる」


「何十軒あっても、毒かもしれん水を飲ませるよりましだ」


 男が言葉を詰まらせる。


「毒って決まったわけじゃないんだろ」


「決まってない。だから飲むなと言ってる」


 誰も納得した顔はしていない。それでも、新しく桶を井戸へ落とす者はいなかった。


 エルドは汲み上げられた桶を受け取り、水を見る。表面は普通に見え、光へ透かしてもはっきりした違いはない。


 近くにいた染色職人が桶を覗き込んだ。


「ちょっと待て」


「何だ」


「底」


 男が指さす。


 桶の底近くに、ごく薄く色のついた沈殿が残っていた。


「染めの色か?」


 ミレナが聞く。


「違う。布に色を留める時に使う媒染液《ばいせんえき》がある。その跡に似てる」


 井戸端の男が顔をしかめた。


「毒なのか」


「濃ければ腹を壊すものもある。でも、こんな井戸に入るはずない」


 別の男が染色職人を見る。


「工房から流したんじゃないのか」


「馬鹿言うな。廃液は排水へ流してる。井戸とは別だ」


 井戸端の女が口を挟む。


「誰か勝手に捨てたんじゃないのかい」


「そんなことしたら染め場全部が疑われる。決められた所に流してる」


 エルドが桶の中を見る。


「なら、どこかで混じった」


 年配の男が首を傾げた。


「この下、古い排水が通ってなかったか?」


 染色職人が眉を寄せる。


「昔の?」


「昔は染め場ごとに流してたんだ。それを後からまとめて地下へ通した。古い水路も一部そのまま使ってる」


 ミレナが井戸の足元を見る。


「この井戸の近くを?」


「すぐ横だったはずだ」


 別の男が手を上げた。


「そういや、この前の雨のあと、裏通りの石が沈んでたぞ」


 エルドがそちらを見る。


「どこだ」


「染め場の北側。荷車の車輪が片方はまった」


「案内しろ」


「今からか?」


「今見なくていつ見る」


 エルドは井戸端へ向き直った。


「原因が分かるまで、この井戸は使うな」


「じゃあ本当に水はどうするんだよ」


 ヴァルドが口を開いた。


「運べばいいのか」


 エルドが見る。


「できるのか」


「樽なら持てる」


 ミレナがヴァルドを見る。


「何個くらいです?」


「知らん。持ったことがない」


 エルドは井戸端の男たちへ言った。


「使える樽を集めろ。飲み水は別の井戸から持ってくる。それまではここを封じろ」


「お前が仕切るのかよ」


「飲みたければ勝手に飲め」


 男は顔をしかめたが、桶を井戸へ戻すことはなかった。


 井戸には板が渡され、縄が張られた。


 年配の男に案内され、エルドたちは裏通りへ回る。


 石畳の一部がわずかに沈んでいる。数日前の雨はもう上がっているのに、その辺りだけ石の隙間が湿っていた。荷車の車輪が通った跡も片側だけ深く、沈んだ石の脇には黒ずんだ水が溜まっている。


「この下だ」


 年配の男が地面を指す。


「昔の排水が通ってる」


 染色職人がしゃがみ込んだ。


「井戸まで近いな」


「排水が割れてたら?」


 ミレナが聞く。


「土の中へ漏れて、井戸の方へ染みた可能性はある」


 染色職人が答えた。


「この前の雨で広がったんでしょうか」


「前から傷んでたなら、あり得る」


 年配の男が沈んだ石を見る。


 エルドは地面を見たまま言う。


「まだ決めつけるな」


「でも掘るんだろ?」


「掘らなきゃ分からん」


 エルドは立ち上がった。


「水は止めたまま。ここを掘る」


 夕方、薬屋へ戻ると、ノアは処置台に横になっていた。父親がその脇に座っている。


 ミレナはノアのそばへ行き、別の井戸から運ばれてきた水を杯へ注いだ。


「井戸は止めた」


 エルドが父親へ言う。


「水だったのか」


「まだ決まってない」


「でも怪しいんだろ」


「怪しいから止めた」


 父親はノアを見る。


「うちだけじゃなかったんだな」


「今日は同じようなのが何人も来てる」


 ノアが薄く目を開けた。


「俺、また休むの?」


「寝てろ」


「ずっと?」


「口を動かせるなら水を飲め」


「苦い薬よりはまし」


「なら飲め」


 ノアは嫌そうな顔をしながら杯へ口をつけた。


 半分ほど飲んだところで手を止め、目を閉じる。


「疲れた」


「寝ろ」


「さっき寝た」


「また寝ろ」


 ノアは返事をせず、目を閉じた。


 しばらくして咳が出る。


 ミレナが背中へ手を添えると、ノアはそのまま呼吸を整えた。


 父親が処置台の横へ椅子を引く。エルドは一度ノアを見てから、調合台へ戻った。


 * * *


 夕暮れの職人地区では、共同井戸に渡された板と縄がそのまま残っていた。いつもなら絶えない桶の音はなく、縄だけが風に揺れている。


 井戸は静かだった。

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