第3話 嫌われる理由
20年以上前。
診察を終えた男が、包んでもらった薬を懐へ入れた。
「助かったよ。また具合が悪くなったら頼む」
「できれば来るな」
師匠が言うと、男は笑った。
「そりゃそうだ」
「そっちの若いのも、少しは愛想を覚えた方がいいぞ」
帰り際、男がエルドを見る。
「薬の効き目は変わらない」
「そういうところだ」
男は笑いながら店を出ていった。
師匠は閉まった扉を見てから、エルドへ目を戻した。
「愛想で病気は治らん。だが、話を聞いてもらえなくなるほど嫌われる必要もない」
「必要がないだけで、困りはしないだろ」
「困る」
若いエルドは向かいの台で乾いた葉を選り分けながら首を傾げた。
「客に来るなって言うのか」
「客じゃない。患者だ」
師匠は薬草を刻み始めた。
「患者がまた来たいと思う治療所にするな。具合が悪くなれば来る。治れば来なくなる。それでいい。二度と来なくて済むのが一番だ」
「薬を売るために長引かせるな。愛想で通わせるな。必要な時だけ来ればいい」
エルドは手を止めた。
「つまり、来たくなくさせればいいのか」
師匠も手を止める。
「違う。治って来なくなるのと、嫌で来なくなるのは別だ」
「でも来ない」
「お前は人の話を聞け」
「聞いてる」
「なら聞いた上で間違えるな」
エルドは少し考えた。
「嫌われるくらいでちょうどいいってことか」
「言ってない」
「愛想よくしてまた来られるよりいいだろ」
「病気なら来させろ」
「どっちだ」
師匠はしばらくエルドを見ていた。
やがて深く息を吐き、次の薬草を手に取った。
「……薬の覚えだけはいいんだがな」
「褒めてるのか」
「そこだけはな」
エルドは頷き、また葉を選り分け始めた。
「なら問題ない」
「ある」
エルドの手は止まらなかった。
* * *
翌朝、ミレナとヴァルドは市場を歩いていた。
染め上がった布が店先に並び、荷車の間を職人たちが行き交っている。革や糸束を抱えた者の間を、染料の桶を運ぶ職人が抜けていく。川沿いの町らしく、通りには湿った布と薬草と煙の匂いが混じっていた。
「またエルドのところか?」
少し先で、野菜を並べていた女が客に言った。
「他に行くよりましだろ。腕はいい」
「腕はねえ。あいつに診てもらうと、病気より先に腹が立つよ」
客の男が笑う。
「薬代が足りないって言ったら、次に持ってこいって言われてさ。そのあと、忘れたら取り立てに行くぞ、だと」
ミレナが思わず振り返った。
「待ってくれてるんですよね、それ」
男もこちらを見る。
「そうなんだけどな。言い方ってもんがあるだろ」
「それは……まあ」
ミレナは否定できなかった。
野菜を並べていた女も肩をすくめる。
「うちの亭主なんて腰を痛めた時、太りすぎだって本人の前で言われたよ」
「それは関係あるんじゃないですか?」
「あるから腹が立つんだよ」
女はそう言って、大きな蕪を籠へ放り込んだ。
客の男が続ける。
「前に熱を出した時なんか、酒を3日控えろって言われたんだ」
「3日なら控えればいいじゃないですか」
「俺もそう思ったよ。だから3日我慢した。でも4日目に行ったら、もう3日だって言いやがった」
「治ってなかったんですね」
「たぶんな」
男は少し悔しそうな顔をした。
隣でヴァルドが言う。
「嫌われているな」
「本人は成功だと思ってそうなのが困るんですよね」
その先でも薬屋の話をする声が聞こえた。
「子供にはもっと優しくできないのかね」
「無理だろ、あの顔で」
「顔は関係ないでしょう」
ミレナが小声で言うと、ヴァルドは何も答えなかった。
薬屋へ着くと、店の中にはノアの父親がいた。
ミレナは旅支度の不足分を買い足すつもりだったが、店へ入るなり足を止めた。調合台の前に立つ父親は、肩を強張らせている。
「咳は」
エルドが帳面から顔を上げずに聞く。
「少し減った」
「夜は」
「一度起きた。朝は昨日よりましだ」
「工房は」
父親が黙った。
エルドが顔を上げる。
「出したな」
「半日だけだ」
「出すなと言った」
「分かってる」
「ならなぜ出した」
「家で寝かせてりゃ、その分こっちの仕事が減るんだよ。俺1人じゃ回らない。母親も家で仕事してる。薬代だってかかる」
「だから何だ」
「だから、休ませてりゃ済む話じゃないって言ってるんだ。今月は注文が重なってる。納めるのが遅れりゃ次の仕事が減る。あいつだって自分で手伝うって言った」
「ノアがやってるのは、乾いた布を運んで端を揃えるくらいだ。それを俺たちがやれば、その分ほかの手が止まる。家でやってる仕上げまで遅れる。誰か1人休めば、その分だけ金が減るんだ」
「子供が平気だと言えば平気になるのか」
「熱もない。昨日は神官様に楽にしてもらったんだろ」
父親がミレナを見る。
「昨日お伝えした通りです。楽になっただけで、治ったわけではありません」
「分かってるよ。でも、ずっと寝かせておくわけにもいかないんだ」
「工房に出せばまた悪くなる」
エルドが言う。
「じゃあどうしろってんだ」
「休ませろ」
「だから、それができないって言ってる!」
「家で寝かせてりゃ飯が出てくるなら、そうするさ。薬だってただじゃない。冬になる前に稼げるだけ稼がなきゃならないんだ」
「ノアが倒れたら、もっと働けなくなる」
「分かってる!」
「分かってて出したのか」
「……半日なら大丈夫だと思ったんだよ」
「何を根拠に」
父親が言葉を詰まらせる。
「朝は咳も少なかった。飯も食った。本人も平気だって言った。家で寝てるより、少し動いた方がいいって」
「お前がそう思いたかっただけだ」
「そういう言い方しかできないのか」
「言い方で肺が治るか」
「そういう話をしてるんじゃない!」
父親は調合台へ手をついた。
「俺だって好きで働かせてるんじゃない。まだ11だぞ。休ませられるなら休ませたいに決まってる」
エルドは黙って父親を見る。
「できないんじゃない。やらないだけだ」
「……あんた、本当に何も分かってないな」
「分かってる」
「何が分かるんだよ」
父親は一歩前へ出た。
「あんたには家族がいないから分からないんだ」
しばらく誰も口を開かなかった。外を通る荷車の軋む音だけが聞こえる。
エルドは父親を見た。
「そうだな」
それだけだった。
「それでも工房には出すな」
「……本当に嫌な奴だな」
「そうか」
父親はしばらくエルドを睨んでいたが、やがて財布から硬貨を取り出して調合台へ置いた。
「前の分だ」
エルドは硬貨を数え、帳面へ線を引いた。
父親は何も言わず店を出ていった。
扉が閉まっても、店の空気はしばらく重かった。エルドは気にした様子もなく帳面を閉じ、調合台の薬草を刻み始める。
ミレナは何か言いかけたが、やめた。旅支度の不足分を買い、店を出る。
市場の端で、さっきの父親が店先に立っていた。
肉を一度手に取り、値札を見て戻す。隣の店では豆と固いパンを買い、残った硬貨を掌で数えた。
そこへ染色工房の男が声をかける。
「今日の分、夕方までにいけるか?」
「やる。少し遅れるかもしれん」
「ノアは?」
「今日は休ませる」
「昨日の遅れもある。無理なら別の家に回すぞ」
「分かってる。今日の分は出す」
男はそれ以上聞かず、通りを戻っていった。
父親は買ったものを袋へ入れる。
ミレナは少し離れた場所からその背中を見ていた。
「エルドさんの言ってることは、間違ってないんですけどね」
「そうだな」
ヴァルドはそれだけ答えた。
ミレナはもう一度、父親が手にした小さな袋を見る。
「……困りますね」
ヴァルドは何も言わなかった。
父親は袋を持ち上げ、薬屋とは反対の通りへ歩いていった。
夕方、宿へ戻る途中でもう一度薬屋の前を通ると、中から咳が聞こえた。
ミレナが足を止める。扉は開いていた。
中を覗くと、ノアが診察台に座っている。父親も一緒だった。ミレナはヴァルドと店へ入った。
「半日だけだったよ」
ノアが言う。
エルドは胸の音を聞きながら答えた。
「半日なら肺も半分しか悪くならないと思ったか」
「そんな言い方する?」
「する」
ノアがむっとする。
「父ちゃんだけじゃ終わらないんだよ。俺が休むと、母ちゃんも手伝わないといけないし」
「だから何だ」
「分かってない」
「分かってる」
ノアがエルドを見る。
「じゃあなんで休めって言うんだよ」
「悪くなるからだ」
エルドはそれ以上何も言わず、ノアの背中へ耳を当てた。
ノアが咳き込む。昨日より深い咳だった。
エルドは位置を変えながら何度か聞き、喉も見る。
「息を深く吸え」
ノアが息を吸い、途中で咳き込んだ。
「もう一度」
「今やった」
「足りない」
「エルド嫌い」
「知るか」
ノアは不満そうに鼻を鳴らしたが、もう一度息を吸った。
エルドは背中へ耳を当てたまま、父親に聞く。
「工房では何をさせた」
「乾いた布だけだ。重いものも持たせてない」
「染め場の中にはいたんだな」
「隅に少しだけだ」
「何を持ったかじゃない。匂いと煙でも咳は出る」
「外の仕事だけなら」
「今は駄目だ」
父親はしばらく黙り、やがて頷いた。
「……そうか」
エルドがノアから離れる。
「昨日より少し悪い。今すぐどうこうなるほどじゃない。だから今のうちに休ませろ」
ノアが父親を見る。
「俺、平気だよ」
「お前は黙ってろ」
「父ちゃんまで」
父親はノアの頭に手を置いた。
「明日は休め」
「仕事は?」
「俺と母ちゃんでやる」
「間に合う?」
「知らん。間に合わせる」
父親はそう言って、ノアの頭を軽く押した。ノアは口を尖らせる。
「明後日は?」
「治ってから聞け」
しばらくして、2人は店を出た。
「もう少し言い方を変えたら、聞いてもらえると思いますけど」
ミレナが言った。
「変えて治るなら変える」
「そういうところです」
「何が」
ミレナは答えなかった。
外でノアが一度咳をした。父親は足を止め、少年の背中に手を添える。
「ゆっくりでいい」
小さな声が聞こえた。
それから2人は、さっきより少しゆっくり歩いていった。




