第2話 神官と薬師
翌朝、ミレナはまたエルドの薬屋を訪れた。
まだ市場が本格的に混み始める前で、通りには荷車が行き交い、職人たちが店先を開け始めていた。薬屋の扉はすでに開いていた。
店へ入ると、乾かした薬草の匂いに、煎じた薬の苦い匂いが混じっている。エルドは調合台の向こうで薬草を刻んでいた。
ミレナは昨日買った薬の包みを一つ、手に持っている。
「昨日の熱冷ましなんですけど」
エルドが顔を上げた。
「子供に使うなら、量は減らした方がいいですよね?」
「体格と症状で変わる。子供だから半分、みたいな使い方はするな」
ミレナは包みを見下ろした。
「じゃあ、使う前に状態を見た方がいいんですね」
「当たり前だ」
「言い方」
「間違ってないだろ」
「間違ってませんけど」
店の隅では、ヴァルドが壁にもたれて待っていた。昨日と同じく、荷物を持つ以外にやることはないらしい。
ミレナがもう一つ聞こうとした時、外から何かが倒れる大きな音がした。
続いて怒鳴り声。
「エルド! いるか!」
扉が勢いよく開いた。
2人の男が、若い職人を両脇から抱えて入ってくる。右腕から血が流れ、袖は肘から先が赤く染まっていた。
「荷車の積み荷が崩れた! 腕をやった!」
男の1人が叫ぶ。
若い職人は顔を青くし、歯を食いしばっていた。
「そこへ寝かせろ」
エルドが処置台を指した。
「神官様!」
職人を運んできた男がミレナを見る。
「治してやってくれ!」
「はい」
ミレナはすぐに処置台へ寄った。
腕を見た瞬間、手を伸ばしかけて止める。
エルドが横から腕を支えた。
「傷は閉じるな」
「分かってます。骨の位置を見てからでしょう?」
エルドが一度だけミレナを見る。
それ以上は何も言わなかった。
エルドが袖を裂く。
前腕は不自然な角度に曲がり、その近くに深い裂傷が走っていた。
ミレナは傷口へ手をかざした。淡い光が広がり、流れていた血が少しずつ弱まっていく。傷そのものは閉じない。
「指を動かせ」
職人が顔を歪める。
「無理だ!」
「動かせるか見る。少しでいい」
男は息を詰めながら、指先をわずかに動かした。
「痺れは」
「ある。いや、分からん……痛くて」
「こっちは?」
エルドが手の甲に触れる。
「分かる」
「ならいい」
エルドは傷の周りを指で確かめ、肘から手首までを順に触っていった。若い職人は触れられるたびに肩を強張らせる。
「ここは」
「痛い」
「ここ」
「そこも」
「全部痛いは無しだ。違う痛みがあれば言え」
「そんな余裕あるか!」
「ないなら作れ」
エルドは顔を上げた。
「ヴァルド。肩を押さえろ。動かすな。力は入れるな」
「分かった」
ヴァルドが処置台の横へ立ち、言われた通り肩を固定する。
「痛みを落とせ」
「やってます」
ミレナが術を重ねると、職人の荒い呼吸が少しずつ落ち着いた。
「痛みは少し残ります」
「それでいい」
エルドは折れた位置を確かめ、ゆっくり腕を支え直した。
「今から戻す。動くな」
「待て、待て待て――」
「待たん」
エルドは腕を支えたままゆっくり引き、ずれた位置を戻した。
職人の叫び声が店の外まで響いた。
ヴァルドは言われた通り肩を固定したまま動かない。ミレナは痛みを抑えつつ、呼吸が乱れすぎないよう職人の胸元へ手を添えていた。
「もう一度、指」
職人が震える指を動かす。
エルドは位置を確かめ、傷の奥に木片や布片が入っていないかを見た。
「今なら閉じていい」
「はい」
ミレナの光が傷を包む。
裂けた皮膚がゆっくり寄り、出血が止まっていった。完全に消えるのではなく、赤く新しい皮膚が細く残る。
エルドは腕をもう一度確かめ、また指を動かさせた。次に細い板を2本選び、前腕の両側へ当て、布を巻いて固定していく。
「これで終わりか?」
職人が荒い息のまま聞いた。
「終わってない。しばらく使うな」
「治しただろ」
「傷を閉じた。骨がつながったとは言ってない」
ミレナも首を横に振る。
「しばらく固定してください」
エルドは巻いた布の端を押し込んだ。
「神官もそう言ってる。諦めろ」
「2人して同じこと言うのかよ」
若い職人は固定された腕を見下ろし、深く息を吐いた。顔色はまだ悪いが、さっきまでの震えは収まっている。
「明日また見せろ」
「明日も?」
「嫌なら曲がったままでいろ」
「行くよ……」
男たちが帰ると、エルドは処置台に残った血を拭き取った。
「もう少しここにいてもいいですか?」
「邪魔するな」
「しませんよ」
ヴァルドは2人を見比べた。
「俺は外にいる」
そう言って、店を出ていった。
昼前、今度はノアが父親と一緒にやってきた。
昨日より咳は少ない。
エルドは診察台へ座らせ、胸と背中の音を聞いた。
「今朝の薬は」
「飲んだよ」
ノアは少し得意そうだった。
父親が横から付け足す。
「今日は工房にも出してない」
「最初からそうしろ」
「一言多いんだよ」
その時、ノアがミレナに気づいた。
「神官様?」
「はい」
「治せる?」
ミレナはノアの顔を見る。
「少し楽にすることはできます」
「じゃあやって」
エルドは止めなかった。
ミレナが胸元へ手をかざす。
柔らかな光が広がり、ノアの肩から力が抜けた。浅かった呼吸が少しずつ深くなり、続いていた咳も止まる。
しばらく呼吸してから、少年の顔が明るくなる。
「楽になった!」
父親も目を見開いた。
「治ったのか?」
「治ってない」
エルドが即座に言う。
ミレナも頷いた。
「今は呼吸を楽にしただけです。咳の原因そのものがなくなったわけじゃありません」
ノアが少し残念そうにする。
「じゃあ薬も飲むの?」
「飲め」
「神官様の方がいい」
「なら毎日来てもらえ」
ミレナが苦笑する。
「私たち、旅の途中なので」
「じゃあ、この町にいれば?」
「それはもっと無理です」
「工房には出すな」
「昨日も聞いた」
父親が言う。
「なら明日も忘れるな」
父親は言い返しかけて、やめた。
午後になると、別の職人がふらつきながら店へ入ってきた。
顔色が悪い。片手を壁につき、もう片方の手を何度も握ったり開いたりしている。
「気持ち悪い……指も痺れる」
エルドが椅子を指した。
「今日、何を触った」
「赤染めの根。新しく入ったやつ」
「素手で潰したか」
「少しだけ」
「馬鹿」
「今それ言うか?」
「今だから言う」
エルドは男の指先と目を見てから、手首を取り、掌に残った赤い染みを見る。
「量は」
「桶半分くらい」
「触った手で飯は」
男が黙った。
「食ったな」
「……食った」
「馬鹿」
「2回言うな」
ミレナが横から覗き込む。
「毒ですか?」
「毒だ。強いものじゃないが、口に入ったな」
「解毒しても?」
「できるならやれ」
ミレナが男の手を取り、解毒の術をかける。
しばらくして男の呼吸が落ち着いた。額に浮いていた汗も引き、丸めていた背中も少し伸びた。
男は指を動かした。
「……痺れが減った」
「吐き気は?」
「さっきよりましだ」
エルドはその様子を見ていた。
「便利だな」
ミレナが振り返る。
「それ、褒めてます?」
「褒めた」
夕方。
最後の患者が帰った頃には、ヴァルドも店へ戻っていた。
ミレナは処置台の上に残っていた布や小瓶を片付けている。
「勝手に触るな。場所が変わる」
「じゃあ戻す場所を教えてください」
エルドは一つずつ指で示した。
ミレナはその通りに戻していく。棚には同じような小瓶が並んでいたが、札には細かな印が付けられていた。薬草も乾かし方や刻み方で分けてあるらしい。
「これ、全部覚えてるんですか?」
「覚えてなきゃ仕事にならん」
「そういうところは普通なんですね」
「何が言いたい」
「別に」
「エルドさん。どうして薬師になったんですか?」
エルドは薬草を束ねながら答えた。
「向いてたからだ」
「それだけですか?」
「他に理由がいるか?」
「好きだったとか、人を治したかったとか」
「別に。師匠にも言われた。向いてるなら覚えろってな」
「どんな人だったんです?」
「普通の薬師だ」
「エルドさんより愛想はありました?」
「知らん」
ミレナが笑った。
エルドは気にせず続ける。
「患者がまた来たいと思う治療所にするな。二度と来なくて済むのが一番だ。そう言ってた」
ミレナは少し考えた。
「それって……患者さんに嫌われろって意味じゃないですよね?」
「嫌われれば来たくなくなる」
「そこだけ拾ったんですか?」
「何が悪い」
「たぶん師匠さん、そういう意味で言ってません」
「20年以上前の話だ。今さら知らん」
ヴァルドが口を開いた。
「嫌われているなら、上手くいっているな」
エルドが頷く。
「だろう」
「そこで意気投合しないでください」
ミレナが呆れた声を出した。
その時、扉が開いた。
「エルド、まだやってるか?」
腰を押さえた男が顔を覗かせる。
「何だ」
「腰をやった」
「座れ」
男が椅子へ腰を下ろす。
エルドはその後ろへ回り、腰へ手を当てた。




