第1話 嫌われ者の薬師
「何で昨日来なかった」
朝一番から、エルドは不機嫌だった。もっとも、機嫌がいいところを見た者がいるのかと聞かれれば、レンドルの町でも答えられる者は少ない。
薬屋の奥、小さな処置台の前に座らされた男は、左手に巻いていた布を外しながら顔をしかめた。
「仕事があったんだよ」
「じゃあ指も仕事場に置いてくればよかっただろ」
「置いてきてねえから来てんだろうが」
「なら黙って手を出せ」
木工職人の男が渋々、左手を差し出した。手のひらから人差し指の付け根にかけて、斜めに深い傷が走っている。昨日つけたものらしく、乾いた血の下で傷口の周りが赤く腫れていた。
エルドは手首を掴み、傷を覗き込む。
「鑿か?」
「ああ。滑った」
傷の縁を指で押さえ、指を1本ずつ曲げさせる。人差し指を動かしたところで、男の顔が大きく歪んだ。
「痛えって」
「動くな」
「動かしてんのはお前だろ」
「曲がるか見てる」
エルドは傷口を開くようにして中を見た。
「昨日、水で流しただけか」
「ああ」
「木屑が残ってる」
男の顔から文句が消えた。エルドは調合台から小瓶と細い器具を取る。
「染みるぞ」
「待て。何だそれ」
「洗う」
返事を待たず、傷へ液を流した。
「っっだぁ!」
「うるさい」
「お前がやったんだろうが!」
「怪我したのはお前だ」
「だからって――」
細い器具で、傷の奥から小さな木屑を抜き取った。エルドは傷をもう一度よく洗い、薬を塗って布を巻く。
「昨日来てれば、もっと楽だった」
「だから仕事が――」
「今日は休め。明日もう一度見せろ。3日はその手に力を入れるな。濡らすな」
「3日も休めるかよ」
「じゃあ化膿させろ。もっと長く休めるぞ」
男はしばらくエルドを睨んでいた。エルドは気にせず手を離す。
「銅貨6枚」
「お前、本当に人の事情ってものが――」
「6枚」
「話聞けよ!」
薬屋の外まで声が響いた。朝の市場へ向かう通行人が何人か店を見たが、足を止める者はいない。
通りには染め上がった布を積んだ荷車が行き交い、川の方から湿った風が吹いてくる。朝のレンドルでは、職人の怒鳴り声も荷車の軋む音も、薬屋から聞こえる患者の文句も珍しいものではなかった。
昼前になると、今度は杖をついた老婆がやってきた。店へ入るなり椅子へ座り、右足を前へ投げ出す。
「見ておくれ。市場で魚籠につまずいた」
「足首か」
「たぶんね」
エルドは老婆の前にしゃがみ、靴を脱がせた。足首は腫れている。指でゆっくり押していくと、ある場所に触れた瞬間だけ老婆の眉が跳ねた。
「そこだな」
「何が」
「痛いところ」
「痛いなんて言ってないよ」
「顔が言った」
「嫌な男だねえ」
「知ってる」
エルドは足首を慎重に動かした。
「骨は大丈夫そうだ。今日は歩くな」
「買い物があるんだよ」
「誰かに頼め」
「一人暮らしだよ。隣の嫁とは喧嘩してる」
「仲直りしろ」
「治療より難しいこと言うんじゃないよ」
包帯を巻くエルドの手元を眺めながら、老婆が鼻を鳴らした。
「まったく。あんたの師匠はもう少し愛想があったけどねえ」
「そうだったか」
「弟子のあんたよりはね」
「なら師匠に診てもらえ」
「できるもんならそうするよ」
包帯を巻き終えると、老婆は足を下ろし、試すように爪先を動かした。
「可愛げのない男だねえ」
「歩くなと言った」
「帰れないだろうが」
「杖がある」
老婆がその杖を振り上げ、エルドは一歩下がった。
「元気だな」
「誰のせいだと思ってる」
「まだ治ってない」
老婆はぶつぶつ言いながら椅子へ座り直した。しばらくすると、近所の女が店を覗き込み、老婆を見るなり肩を貸す。
「また何言ったの、エルドさん。怒ってるわよ」
「いつもだ」
「あなたもね」
扉が閉まる。エルドは帳面を開き、朝の木工職人の代金を書いた。その下に老婆の分を記す。銅貨が2枚足りなかったので横に小さく印をつけた。次に来た時に取る。忘れるつもりはない。
午後、11歳のノアが父親に連れられてきた。店へ入る前から、軽い咳が2度、少し間を置いて3度聞こえる。
エルドは帳面から顔を上げた。
「工房へ出したな」
「まだ何も言ってないだろ」
「咳が増えてる」
ノアが父親の横から顔を出した。
「今日は少しだけだよ」
「お前には聞いてない」
「俺のことなのに?」
「薬は飲んだか」
ノアの視線が逸れた。エルドが父親を見ると、そちらも目を逸らす。
「朝と夜は飲ませてる」
「昼は」
返事はなかった。
「座れ」
ノアは素直に椅子へ座った。エルドは胸と背中へ耳を当て、何度か深く息をさせる。
「もっと吸え」
「咳出る」
「出せ」
大きく吸い込んだ途中でノアが咳き込む。エルドは背中を軽く叩き、そのまま呼吸を聞いた。
「夜は何回起きた」
「2回だ。熱はないし、飯も食ってる」
「工房へ出したのは」
「昨日からだ。本人だって手伝いたがってる。熱もないし、ずっと寝かせておくわけにもいかないだろ」
エルドはノアの胸へもう一度耳を当てた。
「子供は川にも入りたがる。流されても本人の希望だからで済ませるか?」
父親の表情が硬くなる。
「家のこともあるんだよ」
「知らん」
「エルド」
「咳が止まるまで工房へ出すな。染料の匂いも煙も吸わせるな。走らせるな。薬は昼も飲ませろ」
「いつまでだ」
「治るまで」
「それがいつか聞いてる」
「俺が知るか」
「診てるのはお前だろ」
「診たら未来まで分かると思ってるのか」
父親が息を吐く。エルドは薬棚から小瓶を取り、新しい薬を調合し始めた。
「前より胸の音はましだ。だから余計なことをするな」
「余計なことって、仕事を――」
「俺の薬を無駄にしたいなら勝手にしろ。だが、こいつの肺まで無駄にするな」
父親は黙った。ノアも何も言わない。
やがてエルドは薬包をまとめ、父親へ押しつけた。
「朝、昼、夜。5日分」
「昼も?」
「昼も」
「苦い?」
「苦い」
「もっと甘い薬ないの?」
「ある」
「本当?」
「効かないやつなら」
「それ薬じゃないじゃん!」
父親が吹き出した。エルドが見ると、咳払いをして顔を逸らす。
代金を告げると、父親は財布から硬貨を出したが、途中で手が止まった。
「今日はこれしかない」
「残りは次」
「悪い」
「踏み倒したら倍取る」
「そんなことできるのか?」
「今決めた」
「最悪だな」
「知ってる」
父親はノアの肩に手を置き、店を出た。外へ出る直前、ノアだけが振り返る。
「次来るまでに甘い薬作っといて」
「来るな」
ノアが舌を出し、扉が閉まった。エルドは帳面を開いて残金を書き足し、その横に咳の回数と、胸の音が前回より軽いことも記しておいた。
夕方、薬屋の前を2人の旅人が通り過ぎかけて、女の方だけが足を止めた。
「ヴァルドさん。薬、ここで補充しておきましょう」
少し先を歩いていた大柄な男が振り返る。
「まだあるだろう」
「傷薬は減ってますし、包帯もそろそろです。それに腹薬も欲しいです」
「俺はいらん」
「私はいります」
「なら買え」
女は一度、男が持っている荷物へ目をやった。
「一緒に来てください。荷物持ちです」
「嫌だ」
「そこまで即答しなくてもいいでしょう」
男は結局、戻ってきた。店の中まで声が聞こえていた。エルドが調合台から顔を上げると、蜂蜜色の髪をまとめた若い女が先に入ってくる。その後ろから、店の入口が少し狭く見えるほど大柄な男が続いた。
2人とも旅装だった。女の方は身なりから神官らしい。男の方は分からない。
「すみません。旅用の薬をいくつか欲しいんですが」
「何がいる」
「傷薬と、腹痛用のものと、熱が出た時のもの。それから包帯を」
女の視線が薬棚へ移り、並んだ乾燥薬草の一つで止まった。少し身を寄せる。
「触るな」
「触ってませんよ」
「ならいい」
女は薬草をもう一度見た。
「それ、熱冷ましに使うものですよね?」
「熱にも使う。だが、それだけで覚えるな。腹の弱い奴にそのまま使えば、今度はそっちを壊す」
「そこまで扱いにくいんですか」
「量を間違えればな」
「神殿では別の薬草と合わせてました」
「ならその方がましだ」
「ましって……」
エルドはもう棚へ向き直っていた。
「感じ悪いですね、この人」
大柄な男はエルドを見ただけだった。
エルドは女を見る。
「薬を買うんじゃなかったのか」
「買いますよ」
「なら欲しい量を言え」
女は一度だけ息を吐き、腰の小袋を開いた。
「……傷薬からお願いします」
「何日分だ」
「10日分くらい。できれば軽い傷に使うものと、少し深い傷に使うものを分けてください」
「包帯は」
「今ある分と合わせて、同じくらい持てれば」
エルドは棚から小瓶を2つ取り出し、続けて巻いた布を何本か調合台へ置いた。
「腹薬は」
「食べ過ぎと、水が合わなかった時の両方に使えるものがあれば」
「そんな都合のいい薬はない」
「じゃあ分けてください」
「最初からそう言え」
女の眉がまた寄った。
エルドは別の棚から小さな包みをいくつか取り出し、一つずつ説明しながら並べていく。女は途中で口を挟まず、使い方だけを確かめていった。
最後にエルドが代金を告げると、女は小袋の中を覗いた。
「ヴァルドさん」
「何だ」
「少し足りません」
「知らん」
「荷物持ちだけじゃなくて財布もお願いします」
大柄な男はしばらく黙っていたが、懐から硬貨を出して調合台へ置いた。エルドはそれを数え、釣りを返す。
「薬は濡らすな。熱のこもる場所にも置くな」
「分かりました」
女が薬をまとめ、大柄な男へ差し出した。
「お願いします」
「嫌だ」
「もう払ってくれたじゃないですか」
男はしばらく薬包を見てから、無言で受け取った。
店の外では、夕刻の鐘が鳴り始めていた。




