閑話 海の途中
港を出て半刻ほどすると、陸はもうずいぶん遠くなっていた。
風はまだ少し強いが、昨日の嵐が嘘のように空は明るい。船はときどき大きく上下しながら、沿岸に沿って進んでいる。
ミレナは甲板の端で手すりに掴まり、しばらく海を見ていた。港の屋根はもう形が分からない。灯塔だけが細く残っていたが、それも船が波の間へ沈むたびに見えなくなる。
「……思ったより揺れますね」
「そうか」
「ヴァルドさん、平気なんですか?」
「何がだ」
「船です。酔ったり」
「しない」
「でしょうね」
ミレナは少し恨めしそうに海を見た。
別に酔ってはいない。ただ、腹の底がふわりと浮く感覚にはまだ慣れなかった。地面なら止まっていてくれるのに、甲板は黙っていても勝手に傾く。
船員の一人が帆綱を確かめながら横を通る。
「姉ちゃん、駄目そうなら下入った方がいいぞ」
「大丈夫です。まだ平気です」
「まだって言ってる奴は大体そのうち駄目になるけどな」
「縁起でもないこと言わないでください」
男は笑って去っていった。
ヴァルドはその背中を見送り、ミレナへ視線を戻す。
「吐くのか」
「吐きません」
「そうか」
「その確認、必要でした?」
ヴァルドは答えなかった。
ミレナは口を尖らせた。
船旅は、陸路とは勝手が違った。道を選ぶ必要はない。水を探す必要もない。荷物は船倉へ預けられるし、足も使わない。楽と言えば楽なのだろうが、代わりに船の上では自分で決められることがほとんどなかった。それでも退屈はしなかった。
帆の張り方も、綱の結び方も、甲板で使われる言葉も知らないものばかりだった。荷を積んでいた樽には印が焼きつけられ、船員はそれを見ただけで行き先を分けている。ミレナが何の印か尋ねると、男は「商会の印」と答え、その横の小さな傷は荷揚げする港を見分けるためだと教えてくれた。
「全部覚えてるんですか?」
「何年乗ってると思ってんだ」
「何年です?」
「そこから聞くのかよ」
また笑われた。
昼前、船頭が甲板の中央で乾いた魚と固いパンを配り始めた。
「一人一つずつ! 水は欲しい奴だけ来い!」
ミレナは受け取った魚を見た。
「これ、何の魚ですか?」
「鯖だよ」
「この辺でも獲れるんですか?」
「獲れるけど、これは昨日のじゃないぞ。塩して干したやつだ」
「どれくらい持つんです?」
「姉ちゃん、飯食うたびに聞くのか?」
「気になったので」
船頭は呆れたように笑った。
「天気と塩加減次第だな。船乗りは匂いで見る」
「匂いで?」
「腐ってりゃ分かる」
「それは分かります」
近くで聞いていた船員たちが笑った。
ミレナはパンを膝に置き、鞄から小さな紙片を出した。揺れる甲板では文章までは書けない。魚、塩、匂い、と単語だけを残す。
ヴァルドが乾いた魚をそのまま齧りながら言った。
「また書くのか」
「あとで忘れますから」
「魚の話をか」
「魚もです」
ヴァルドはそれ以上言わず、二口目を齧った。
隣に座っていた年配の船員が二人を見た。
「あんたら、二人で旅してんのか?」
「はい」
「どっから来たんだ?」
「私は神殿の旅人宿で育ちました」
「神官か」
「はい」
「どうりで」
何がどうりなのかは分からなかったが、男は納得したらしい。それからヴァルドを見る。
「あんたは?」
ヴァルドは魚を食べる手を止めなかった。
「もうない」
男が少し黙った。
「……故郷が?」
「ああ」
「戦か?」
ヴァルドは答えなかった。
「そりゃ悪いこと聞いたな」
「別に」
船員は別の仲間に呼ばれ、皿を持って立ち上がった。
ミレナは手元のパンを見る。ヴァルドはもう魚を食べ終え、残った骨を皿の端へ置いている。
「ヴァルドさん」
「何だ」
「……いえ」
ミレナはパンをちぎった。
聞こうと思えば聞けた。どこにあったのか。いつなくなったのか。誰がいたのか。けれど、さっきの船員が聞いたからといって、自分まで続けて聞いていい話には思えなかった。
顔を上げると、ヴァルドはまだこちらを見ている。
「何でもないです」
「そうか」
ヴァルドは水を飲んだ。ミレナもそれ以上は言わなかった。
午後になると、海は少し穏やかになった。
ミレナは船員の邪魔にならない場所を探して、何度か甲板を移動した。
船首近くでは若い船員が海面を指している。
「あそこ、色違うだろ」
「どこです?」
「船の右。ちょっと黒いとこ」
「あ、はい」
「流れが変わってる。あそこ越えると揺れ方も少し変わる」
「名前ってあるんですか?」
「俺らは東流れって呼ぶけど、向こうの港じゃ別の名前だったな」
「違うんですか?」
「港ごとに勝手に呼んでんだよ」
「面白いですね」
「そうか?」
若い船員は首を傾げた。
さらに進むと、少しずつ岸が近くなってきた。前方には小さな入り江が見え、その手前で別の船員が船縁から重りのついた縄を下ろしている。一定の間隔で結び目が作ってあった。
「それは?」
「深さ見るやつ」
「結び目で?」
「そう。底についたところまで数える」
「いつもやるんですか?」
「沖じゃやらん。岸や浅瀬に近づいた時だな。海図だけ信じて船の腹擦ったら笑えねえだろ」
ミレナはしゃがんで縄を見る。
「結び目の間って、どの船も同じなんですか?」
「だいたいはな。でも古い船だと妙な印の付け方してることもある」
「それも港で違ったりします?」
「さあな。そこまで気にしたことねえよ」
「じゃあ次の船でも聞いてみます」
「好きだなあ、あんた」
呆れられたが、ミレナは紙片へ「深さ・縄・印」と書き足した。
その後も、帆を畳む時の掛け声や、遠くの岬の呼び名を聞いた。船員たちには説明するほどでもないことらしかったが、紙片には次々と字が増えていった。
夕方、船は小さな入り江へ入り、岸から少し離れたところで錨を下ろした。
夜の間はここで風を避け、朝になったら次の港へ向かうらしい。船員が錨綱の張りを確かめる横で、ミレナは夕食を受け取った。今度は豆を煮たものだった。
「これは聞かないのか?」
昼の船頭が言う。
「聞いてほしいんですか?」
「いや、別に」
「じゃああとで聞きます」
「聞くのかよ」
船頭が笑った。
簡単な夕食を終えると、船員たちは交代で見張りに入り、客の多くは船室へ下りていった。
ミレナは甲板の端に座り、膝の上へ日記を開いた。昼に走り書きした紙片を横へ置く。揺れはまだあるが、航行中よりずっと書きやすい。
乾いた魚のこと。潮の呼び名。岬の名前。重りのついた縄で深さを測ること。船乗りが風を見る時、頬に当たる向きだけでなく帆の端を見ること。港によって同じ流れを違う名前で呼ぶこと。
一つずつ書いていると、しばらくして足音がした。顔を上げると、ヴァルドがいた。
「まだ寝ないんですか?」
「お前もだろう」
「私はこれがあるので」
ミレナは日記を少し持ち上げた。
ヴァルドは一人分ほど間を空けて隣へ座った。
海の上は暗く、遠くの岸に小さな灯がいくつか見えた。港ではない。漁師の家か、見張り小屋か、それとも別の何かなのか、ここからでは分からなかった。
ミレナはまた日記へ視線を戻す。
数行書いたところで、ヴァルドが言った。
「今日は何を書いた」
ペン先が止まった。
「……はい?」
「それだ」
ヴァルドが日記を見る。
ミレナも日記へ目を落とした。
「聞きたいんですか?」
「聞いたからな」
ミレナは紙片を拾った。
「じゃあ、まずお昼の魚です。船では塩を強くした干物を持っていくことが多いそうです。それから、船乗りの人は匂いで傷んでないか確かめるって」
ヴァルドは何も言わない。
「あと、この辺の潮なんですけど、同じ流れでも港によって呼び方が違うそうです。今日の人は東流れって呼んでましたけど、次の港では違う名前かもしれないって」
「なぜ違う」
「さあ。それを次の港で聞こうと思ってます」
ミレナはページを一枚戻した。
「それから、水深を測る縄も見ました。重りを落として、結び目で深さを数えるそうです。古い船だと印の付け方が違うこともあるらしくて、それも次で聞いてみようかなって。あと、向こうに見えてた岬には二つ名前があって――」
そこまで言って、ミレナはヴァルドを見る。
「長いですけど」
「続けろ」
「……はい」
岬の呼び名。浅瀬を避ける時の目印。帆を畳む時の掛け声。夜、雲が出た時に星の代わりに何を見るか。船員の一人が、子供の頃は海鳥が岸へ戻る時間で天気を当てていたという話。
ミレナは一つずつ話した。話しているうちに、紙片に書かなかったことまで思い出した。
ヴァルドは途中で口を挟まなかった。ただ、聞いていた。
「……今日は、そんなところです」
ミレナが日記を閉じる。
ヴァルドは暗い海を見た。
「そうか」
ミレナはしばらく待った。
「……本当にそれだけですか?」
「何がだ」
「いえ。聞いたの、ヴァルドさんなので」
「聞いた」
「そうですね」
ミレナは笑って、また日記を開いた。
さっき話しながら思い出したことを、余白に二つ書き足した。
隣ではヴァルドが何も言わず、遠くの岸を見ていた。




