第5話 旅立つ灯
初めて送り灯の支度を手伝った日のことだった。
まだ芯を切るのも油を注ぐのも許されず、リゼは母に言われて風除けを押さえていただけだった。石台の向こうでは、一隻の船が出る支度をしている。
「手、離さないで」
「分かってる」
「火がついたら、消えないように見てな」
母が芯へ火を移すと、小さな炎が立った。
リゼはしばらく炎を見ていたが、やがて岸を離れ始めた船へ目を移した。
「ねえ」
「何?」
「これ、船からも見えるの?」
母も船を見た。
「見えるよ。遠くなれば小さくなるけどね」
「どんなふうに?」
「さあね」
母は次の灯を手に取った。
「それは、乗ってる人にしか分からないよ」
リゼはもう一度、遠ざかる船を見た。
槌を打つ音で目を開けると、朝になっていた。
雨は上がり、風も夜ほどではない。だが港には、嵐が通り過ぎた跡がそこら中に残っていた。外れた桟橋の残骸が石積みの脇へ引き寄せられ、切れた綱が山になっている。船修理の職人たちは朝から板を運び、港番は灯塔へ続く石段に散った木片を拾っていた。
リゼも着替えて港へ向かった。
昨日割れた雨戸には、とりあえず別の板が打ちつけられている。母が灯塔の中で金具を外し、リゼは使えそうな木材を選んで上へ運んだ。
「それ、短いよ」
「こっちは?」
「そっち」
母に渡し、リゼはまた石段を下りた。少しして道具箱を手にした母も下りてきた。二人で港へ戻る途中、送り灯を置く石台が一つ傾いているのに気づいた。母は道具箱を置き、二人で起こした。土台の砂を踏み固めると、石そのものは割れていなかった。
「使える?」
「これならね」
母は石台を一度押して確かめ、道具箱を持ち直した。
港へ戻ると、馴染みの男が外れた桟橋の残りを縄でまとめていた。リゼを見ると、手を止める。
「昨日は助かったな」
「私だけじゃないですよ」
「そりゃ分かってる」
男は縄を引きながら、灯塔の方を見た。
「でも、お前がいなかったら、あの灯を戻すのはもっと遅れてたかもしれん」
「母さんもいましたし、港番もいました」
「だから、分かってるって」
男は結び目を締めた。
「それでもだよ」
リゼは黙って、足元に落ちていた短い木片を拾った。
「やっぱり、お前がここにいた方がいいんじゃないか」
昨夜の風より、その言葉の方が静かだった。
「向いてるんだし、実際役にも立ってる。昨日だってそうだろ」
リゼは拾った木片を残骸の山へ放る。
「それでも、行きます」
「……そうか」
男は少しだけ眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。すぐ近くで別の男が名前を呼ぶと、「今行く」と返して歩いていく。
リゼも次の木片を拾った。
昼前には、灯塔の雨戸がどうにか閉まるところまで直った。
母が何度か開け閉めし、金具を確かめる。
「本直しはあとだね。今日はこれでいい」
「また風が吹いたら?」
「今夜は大丈夫だろ。念のため見回りは増やすけど」
母は道具を箱へ戻した。
「船、出るってさ」
リゼの手が止まる。
「私の?」
「あんたのも。昼過ぎだって」
「そっか」
「旅の二人の船は、その前に出る」
母は道具箱を持ち上げ、階段へ向かった。リゼも余った板を抱えて後ろを歩く。
「夜の見回り、港番が一人増やしてくれるって。油は荷揚げの連中が運んでくれる。昨日みたいな時は、船の連中にも声を掛ける」
「うん」
石段を下りきったところで、母が振り返った。
「楽じゃないけどね」
リゼは板を抱え直す。
「私がいないから?」
「あんたがいないんだから」
「そっか」
「何笑ってるの」
「別に」
母は眉を寄せたが、追及はしなかった。
港では壊れた桟橋の横に仮の足場が組まれ始めている。昨日腕を怪我した男もいたが、今日は縄ではなく木材を数える役に回されていた。
母はそちらを見てから言った。
「出るまでは手伝いな」
「そのつもり」
「ならいい」
昼が近づく頃、港に船頭の声が響いた。
「乗る奴は支度しろ! 今日は出すぞ!」
待っていた客たちが荷物を持ち始める。
ヴァルドとミレナも宿の方から歩いてきた。ミレナは鞄を肩に掛け、もう一つの荷へ手を伸ばしたが、その前にヴァルドが取った。
「あ、それ私のです」
「知っている」
「持てますよ」
「そうか」
それでもヴァルドは荷を返さなかった。ミレナはしばらくその背中を見ていたが、取り返さずに歩き始める。
リゼは石台の前にしゃがみ、送り灯へ油を入れていた。
「私たちにもつけてくれるんですか?」
ミレナが隣へ来た。
「船が出ますから」
「そうですけど」
ミレナは少し笑う。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
リゼは芯を整え、火を移した。風除けの中に小さな炎が立つ。
ヴァルドが石台の前で足を止めた。
「これは、なくても船は出るんだったな」
「出ますよ」
「なら、なぜつける」
リゼは灯を見る。炎は風除けの中で揺れていた。
「昔からそうしてますから」
「そうか」
ヴァルドはそれ以上聞かなかった。
乗船を呼ぶ声が上がる。ミレナが船へ向かいかけ、途中で振り返った。
「リゼさん」
「はい」
「元気で」
「ミレナさんも」
「はい」
それだけ言って、ミレナは船へ乗った。ヴァルドも続く。
船員が綱を外し、船がゆっくり岸から離れた。ミレナが甲板からこちらへ手を振り、リゼも片手を上げる。その隣でヴァルドは手を振らず、一度だけ石台の灯を見てから海の方へ顔を向けた。
船が港口を抜けるまで、リゼは送り灯をそのまま残した。
昼を過ぎると、今度はリゼの船の支度が始まった。
旅鞄を持って家を出る。母がくれた油布は畳んで鞄の上へ括りつけてあり、母はそれを一度見て結び目を引いた。
「緩い」
「そう?」
「船の上で落とすよ」
母が結び直す。
「これでいい」
「ありがとう」
二人で港へ向かった。
港では朝から変わらず、壊れた場所を直している。道の端には回収された板が積まれ、船修理の槌の音が続いていた。
魚を運んでいた女がリゼに気づく。
「もう行くのかい? 忙しい時に行くねえ」
「船が出るので」
「そりゃそうか。達者でね」
「そっちも」
「私はどこにも行かないよ」
リゼも笑って、その横を通り過ぎた。
朝話した男は、壊れた桟橋の前にいた。こちらを見ると、少し黙る。
「行くのか」
「はい」
「……そうか」
男は頭を掻いた。
「まあ、達者でな」
「はい」
「駄目だったら帰ってくりゃいい」
「駄目になる前提なんですか」
「またそれか」
男が笑い、リゼも笑って歩いた。
船着き場には、すでに何人か客が集まっていた。
乗船名簿を確認していた男が、リゼの名前を指で追う。
「荷物はそれだけ?」
「はい」
「なら自分で持ってって」
板を渡り、船へ乗る。振り返ると、母はまだ岸にいた。
「着いたら手紙くらい寄越しな」
「出すよ」
「忘れるんじゃないよ」
「忘れない」
「どうだか」
母はリゼの鞄を見る。
「油布、濡れたらちゃんと干しなよ」
「分かってる」
「濡れたまま畳むんじゃないよ。黴びるから」
「分かってるって」
そこで船員が出航を告げた。母が一歩下がる。
リゼも何か言おうとしたが、言葉が出なかった。母も何も言わなかった。
「じゃあね」
先に母が言った。
「うん」
船員が渡し板を上げ、係留索が外された。船が岸を離れ始めると、リゼは甲板の端に立った。
港では母がもうこちらを見ず、石台の方へ歩いていた。その隣では港番が籠から油灯を一つ取り出し、朝「必要だ」と言った男も修理の手を止めて別の灯を運んでいた。
母が最初の火をつけ、港番が次の灯を置く。男も一つ並べた。
最後に母がその籠の底から、小ぶりな油灯を取り出した。町の灯とは少し形が違う。持ち手の付け根が黒ずんだ、家の棚にずっと置かれていた灯だった。
母は何も言わず、町の灯の隣へ置いて火をつけた。
岸から誰かが手を振り、リゼも手を上げた。船はゆっくり港口へ向かっていく。
岸にいる時には見上げていた灯塔が、海から見ると町の屋根の向こうに細く立っていた。壊れた桟橋の脇には仮の足場が伸び、その近くではまだ人が動いている。昼前まで何度も上り下りしていた石段も、船が進むにつれて少しずつ小さくなった。
その下に、送り灯が並んでいた。
母も港番も、やがて誰が誰だか分からなくなった。どれが家の灯なのかも見分けられなくなった。
港が遠ざかっても、並んだ灯はまだ見えていた。




