↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/27

第5話 旅立つ灯

 初めて送り灯の支度を手伝った日のことだった。


 まだ芯を切るのも油を注ぐのも許されず、リゼは母に言われて風除けを押さえていただけだった。石台の向こうでは、一隻の船が出る支度をしている。


「手、離さないで」


「分かってる」


「火がついたら、消えないように見てな」


 母が芯へ火を移すと、小さな炎が立った。


 リゼはしばらく炎を見ていたが、やがて岸を離れ始めた船へ目を移した。


「ねえ」


「何?」


「これ、船からも見えるの?」


 母も船を見た。


「見えるよ。遠くなれば小さくなるけどね」


「どんなふうに?」


「さあね」


 母は次の灯を手に取った。


「それは、乗ってる人にしか分からないよ」


 リゼはもう一度、遠ざかる船を見た。



 槌を打つ音で目を開けると、朝になっていた。


 雨は上がり、風も夜ほどではない。だが港には、嵐が通り過ぎた跡がそこら中に残っていた。外れた桟橋の残骸が石積みの脇へ引き寄せられ、切れた綱が山になっている。船修理の職人たちは朝から板を運び、港番は灯塔へ続く石段に散った木片を拾っていた。


 リゼも着替えて港へ向かった。


 昨日割れた雨戸には、とりあえず別の板が打ちつけられている。母が灯塔の中で金具を外し、リゼは使えそうな木材を選んで上へ運んだ。


「それ、短いよ」


「こっちは?」


「そっち」


 母に渡し、リゼはまた石段を下りた。少しして道具箱を手にした母も下りてきた。二人で港へ戻る途中、送り灯を置く石台が一つ傾いているのに気づいた。母は道具箱を置き、二人で起こした。土台の砂を踏み固めると、石そのものは割れていなかった。


「使える?」


「これならね」


 母は石台を一度押して確かめ、道具箱を持ち直した。


 港へ戻ると、馴染みの男が外れた桟橋の残りを縄でまとめていた。リゼを見ると、手を止める。


「昨日は助かったな」


「私だけじゃないですよ」


「そりゃ分かってる」


 男は縄を引きながら、灯塔の方を見た。


「でも、お前がいなかったら、あの灯を戻すのはもっと遅れてたかもしれん」


「母さんもいましたし、港番もいました」


「だから、分かってるって」


 男は結び目を締めた。


「それでもだよ」


 リゼは黙って、足元に落ちていた短い木片を拾った。


「やっぱり、お前がここにいた方がいいんじゃないか」


 昨夜の風より、その言葉の方が静かだった。


「向いてるんだし、実際役にも立ってる。昨日だってそうだろ」


 リゼは拾った木片を残骸の山へ放る。


「それでも、行きます」


「……そうか」


 男は少しだけ眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。すぐ近くで別の男が名前を呼ぶと、「今行く」と返して歩いていく。


 リゼも次の木片を拾った。



 昼前には、灯塔の雨戸がどうにか閉まるところまで直った。


 母が何度か開け閉めし、金具を確かめる。


「本直しはあとだね。今日はこれでいい」


「また風が吹いたら?」


「今夜は大丈夫だろ。念のため見回りは増やすけど」


 母は道具を箱へ戻した。


「船、出るってさ」


 リゼの手が止まる。


「私の?」


「あんたのも。昼過ぎだって」


「そっか」


「旅の二人の船は、その前に出る」


 母は道具箱を持ち上げ、階段へ向かった。リゼも余った板を抱えて後ろを歩く。


「夜の見回り、港番が一人増やしてくれるって。油は荷揚げの連中が運んでくれる。昨日みたいな時は、船の連中にも声を掛ける」


「うん」


 石段を下りきったところで、母が振り返った。


「楽じゃないけどね」


 リゼは板を抱え直す。


「私がいないから?」


「あんたがいないんだから」


「そっか」


「何笑ってるの」


「別に」


 母は眉を寄せたが、追及はしなかった。


 港では壊れた桟橋の横に仮の足場が組まれ始めている。昨日腕を怪我した男もいたが、今日は縄ではなく木材を数える役に回されていた。


 母はそちらを見てから言った。


「出るまでは手伝いな」


「そのつもり」


「ならいい」



 昼が近づく頃、港に船頭の声が響いた。


「乗る奴は支度しろ! 今日は出すぞ!」


 待っていた客たちが荷物を持ち始める。


 ヴァルドとミレナも宿の方から歩いてきた。ミレナは鞄を肩に掛け、もう一つの荷へ手を伸ばしたが、その前にヴァルドが取った。


「あ、それ私のです」


「知っている」


「持てますよ」


「そうか」


 それでもヴァルドは荷を返さなかった。ミレナはしばらくその背中を見ていたが、取り返さずに歩き始める。


 リゼは石台の前にしゃがみ、送り灯へ油を入れていた。


「私たちにもつけてくれるんですか?」


 ミレナが隣へ来た。


「船が出ますから」


「そうですけど」


 ミレナは少し笑う。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 リゼは芯を整え、火を移した。風除けの中に小さな炎が立つ。


 ヴァルドが石台の前で足を止めた。


「これは、なくても船は出るんだったな」


「出ますよ」


「なら、なぜつける」


 リゼは灯を見る。炎は風除けの中で揺れていた。


「昔からそうしてますから」


「そうか」


 ヴァルドはそれ以上聞かなかった。


 乗船を呼ぶ声が上がる。ミレナが船へ向かいかけ、途中で振り返った。


「リゼさん」


「はい」


「元気で」


「ミレナさんも」


「はい」


 それだけ言って、ミレナは船へ乗った。ヴァルドも続く。


 船員が綱を外し、船がゆっくり岸から離れた。ミレナが甲板からこちらへ手を振り、リゼも片手を上げる。その隣でヴァルドは手を振らず、一度だけ石台の灯を見てから海の方へ顔を向けた。


 船が港口を抜けるまで、リゼは送り灯をそのまま残した。



 昼を過ぎると、今度はリゼの船の支度が始まった。


 旅鞄を持って家を出る。母がくれた油布は畳んで鞄の上へ括りつけてあり、母はそれを一度見て結び目を引いた。


「緩い」


「そう?」


「船の上で落とすよ」


 母が結び直す。


「これでいい」


「ありがとう」


 二人で港へ向かった。


 港では朝から変わらず、壊れた場所を直している。道の端には回収された板が積まれ、船修理の槌の音が続いていた。


 魚を運んでいた女がリゼに気づく。


「もう行くのかい? 忙しい時に行くねえ」


「船が出るので」


「そりゃそうか。達者でね」


「そっちも」


「私はどこにも行かないよ」


 リゼも笑って、その横を通り過ぎた。


 朝話した男は、壊れた桟橋の前にいた。こちらを見ると、少し黙る。


「行くのか」


「はい」


「……そうか」


 男は頭を掻いた。


「まあ、達者でな」


「はい」


「駄目だったら帰ってくりゃいい」


「駄目になる前提なんですか」


「またそれか」


 男が笑い、リゼも笑って歩いた。



 船着き場には、すでに何人か客が集まっていた。


 乗船名簿を確認していた男が、リゼの名前を指で追う。


「荷物はそれだけ?」


「はい」


「なら自分で持ってって」


 板を渡り、船へ乗る。振り返ると、母はまだ岸にいた。


「着いたら手紙くらい寄越しな」


「出すよ」


「忘れるんじゃないよ」


「忘れない」


「どうだか」


 母はリゼの鞄を見る。


「油布、濡れたらちゃんと干しなよ」


「分かってる」


「濡れたまま畳むんじゃないよ。黴びるから」


「分かってるって」


 そこで船員が出航を告げた。母が一歩下がる。


 リゼも何か言おうとしたが、言葉が出なかった。母も何も言わなかった。


「じゃあね」


 先に母が言った。


「うん」


 船員が渡し板を上げ、係留索が外された。船が岸を離れ始めると、リゼは甲板の端に立った。


 港では母がもうこちらを見ず、石台の方へ歩いていた。その隣では港番が籠から油灯を一つ取り出し、朝「必要だ」と言った男も修理の手を止めて別の灯を運んでいた。


 母が最初の火をつけ、港番が次の灯を置く。男も一つ並べた。


 最後に母がその籠の底から、小ぶりな油灯を取り出した。町の灯とは少し形が違う。持ち手の付け根が黒ずんだ、家の棚にずっと置かれていた灯だった。


 母は何も言わず、町の灯の隣へ置いて火をつけた。


 岸から誰かが手を振り、リゼも手を上げた。船はゆっくり港口へ向かっていく。


 岸にいる時には見上げていた灯塔が、海から見ると町の屋根の向こうに細く立っていた。壊れた桟橋の脇には仮の足場が伸び、その近くではまだ人が動いている。昼前まで何度も上り下りしていた石段も、船が進むにつれて少しずつ小さくなった。


 その下に、送り灯が並んでいた。


 母も港番も、やがて誰が誰だか分からなくなった。どれが家の灯なのかも見分けられなくなった。


 港が遠ざかっても、並んだ灯はまだ見えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。