第4話 嵐の夜
夜半、風の音でリゼは目を開けた。
眠っていたのかどうか、自分でもよく分からない。閉めた雨戸が一度大きく鳴り、続けて屋根の端を何かが擦っていった。隣の部屋で戸が開く音がする。
「起きてる?」
「うん」
リゼが上着を掴んだところで、母が扉を開けた。
「行くよ」
外へ出た瞬間、雨が横から顔へ叩きつけてきた。
港へ下る道にはすでに灯が動いている。提灯を持った男たちが倉と桟橋を行き来し、係留した船の脇では何人かが綱を引いていた。昼のうちに畳んだ帆布は倉へ入っているし、外に残していた樽もほとんどない。それでも風は屋根の板を鳴らし、海から上がる波しぶきを石畳まで運んできた。
「そっち、もう一本取れ!」
「こっちは持ってる!」
母は返事もせず近い船へ走り、リゼもその後を追った。増やしてあった係留索が張りつめ、濡れた綱が軋んでいる。船腹が波に押されるたび、杭が低く鳴った。
「リゼ、後ろ!」
声に振り向いた瞬間、一本の綱が弾けた。切れた端が水を打ち、船が大きく岸から離れる。二人の船員が別の綱へ飛びついた。
「船首を先に寄せて! 後ろから引いたら振られる!」
リゼが叫ぶと、近くの男がすぐ位置を変えた。母は別の杭へ綱を回している。
「こっち持てるか!」
「持つ!」
リゼは濡れた綱を掴んだ。掌に食い込み、靴の底が石の上を滑る。隣からもう一人加わったところで、ようやく船首が岸へ戻った。
「結べ!」
港番が新しい綱を杭へ回し、別の男は切れた綱を引き上げて使える長さが残っているか確かめる。母はすぐ隣の船へ目をやった。
「そっちも張りすぎてる! 一回緩めて掛け直して!」
「分かった!」
船員たちが新しい綱を船首へ運ぶ間に、母は隣の船へ移って張り具合を確かめる。リゼも次の船へ走ったところで、若い船員が船と岸の間へ入りかけるのが見えた。
「そこ入らないで! 押されたら挟まれる!」
男は慌てて下がり、岸側から綱を取った。次の波で船腹が石積みにぶつかり、鈍い音が響く。
その時、少し離れた桟橋で短い悲鳴が上がった。積んであった木箱の蓋が外れて風に煽られ、その角が男の腕を裂いた。雨の中でも分かるほど血が流れている。
「押さえろ!」
仲間が布を当てる。
「見せてください!」
駆けてきたのはミレナだった。髪をまとめ直す暇もなかったのか、濡れた髪が頬へ張りついている。後ろにはヴァルドもいた。
ミレナは男の腕を取り、巻かれた布を少しだけずらした。白い光が掌の下に集まって傷口を覆い、男が息を呑む。
「……血が」
「動かさないで。深いところだけ先に塞ぎます」
光が消える頃には、布へ広がる赤が止まっていた。
「指、動かせます?」
男が恐る恐る手を握る。
「動く」
「なら大丈夫です。今日はその腕で綱を引かないでください」
「いや、でも――」
「開いたらまた治すことになります」
男が口を閉じたところへ、倉の方から声が飛んだ。
「こっちで一人、足をやってる!」
「行きます!」
ミレナは立ち上がり、そのまま走っていった。
風はさらに強くなっていた。港口の外はほとんど黒く、波の白い筋だけが時々浮かぶ。
「まだ一隻戻ってない!」
灯塔の方から声が上がり、港番が海を指した。
「朝出た小舟だ! 沖に灯がある!」
朝、風が強くなる前に出た漁船だった。昼には戻る予定だったはずだ。
リゼは雨を手で拭って目を凝らす。遠くで小さな光が上下し、見えたり消えたりを繰り返していた。港口の位置を外せば、岩の多い岸側へ流される。
「導灯は?」
母が振り返る。灯塔の光はまだあったが、次の風で大きく揺らぎ、そのまま消えた。母はもう走っていた。
「リゼ!」
「分かってる!」
リゼも灯塔へ続く石段へ向かう。
「私も行きます!」
「怪我人は?」とリゼが聞く。
「歩ける程度には!」
「なら来て!」
母とリゼの後ろを港番とミレナが走り、少し離れてヴァルドも続く。石段へ近づくほど風は強くなり、海側から飛んでくる雨で目を開けているのも難しくなった。
「伏せて!」
ミレナの声と同時に、修理場の庇から剥がれた長い板が横向きに回転しながら飛んできた。ミレナが両手を前へ出すと半透明の膜が広がり、板が鈍い音を立てて叩きつけられる。ミレナの靴が石段の上を半歩滑った。
「早く!」
母が先に抜け、リゼも結界の横を走る。港番が通り抜けた直後にミレナが腕を下ろすと、板は地面へ落ち、そのまま風に転がっていった。
「大丈夫?」とリゼが聞く。
「平気です。行ってください!」
灯塔の戸は開きかけており、母が肩をぶつけるようにして押し開けた。ヴァルドは塔の外に残る。
中は雨で濡れていた。朝に確かめた雨戸の留め具は外れていないが、それを支えていた木枠が裂け、雨戸そのものが内側へ傾いている。
「枠が割れてる」
「火は私がやる。そっち押さえて!」
母が灯へ向かい、リゼは傾いた雨戸へ肩を当てた。風が吹き込むたび、木が体ごと押し返してくる。
「縄!」
港番が腰の縄を投げる。リゼは受け取って割れた枠から柱へ回した。完全には閉まらないなら、雨が直接灯へ吹き込まないところまで寄せればいい。
「もっと上!」
濡れた縄が指の間を滑る。リゼが結び目をほどいて位置を一段上げると、港番も横から雨戸へ肩を入れた。
「そこ、もう少し!」
「これ以上は無理!」
「その位置でいい!」
母は濡れた芯の先を切り、灯塔に上げてあった油を確かめて火を移した。一度は炎が立ったものの、隙間から吹き込んだ風に消される。
「もう一回!」
リゼが縄を引き直し、港番が割れた木枠を押さえる。母が再び火を入れると、小さな炎は細く揺れながらも残った。
母は風除けを戻し、次の風が吹き込んでも消えないことを確かめる。暗かった港口に導灯の光が戻り、濡れた窓の向こうでは沖の小さな灯が少しずつ向きを変え始めた。
「見えてる」
母が言う。
港番も窓へ寄った。
「こっちへ向いてる。俺は下へ戻る」
「火を見る人を一人寄越して!」
「分かった!」
港番が石段を下り、代わりの男が上がってくるのを待ってから、母たちも灯塔を出た。外に残っていたヴァルドが港の方を見ている。その直後、木が裂けるような音が響いた。
「桟橋が外れた!」
外側の木桟橋が根元から大きく傾いている。波を受けるたびに残った支柱が軋み、次の波で横木ごとちぎれて大きな木の塊が水に浮いた。
「まずい!」
桟橋の一部は波に押され、太い支柱と横木が絡んだまま石段の下へ流れてくる。下にいた男たちが縄を持って走り出した。
「近づくな!」
リゼが叫ぶ。
次の波が桟橋を持ち上げた。このまま石段へぶつかれば、下にいる人間まで巻き込まれる。
ミレナが手を上げかけた。
「無理です、あれは――」
その横をヴァルドが前へ出た。流れてくる桟橋を見てから、リゼを見る。
「あれは壊していいのか」
「いい! 壊して!」
ヴァルドは石段を駆け下り、波に持ち上げられた桟橋が迫った瞬間、一歩踏み込んで拳を叩き込んだ。
轟音とともに桟橋の中央が砕け、太い横木がいくつにも割れた。残った板と支柱は波に持ち上げられ、それぞれ別の方向へ流れていく。石段まで届いたのは、小さくなった板が数枚だけだった。
「これでいいか」
「……いい」
「来るぞ!」
港からの声にリゼが振り返る。沖にあった灯はもう港口のすぐ外まで来ていた。
船員たちが濡れた綱を手に並び、母も石段を下りる。
「リゼ!」
呼ばれてリゼも走った。小舟が波に押されながら港口へ入ってくる。船首が横を向きかけるたび、乗っている男が櫂で必死に戻していた。
「もう少しこっちだ!」
「分かってる!」
船から声が返り、港側の男たちも位置をずらす。リゼは空いている杭のそばへ回った。
「投げろ!」
船から飛んだ綱を一人が取り損ね、石の上を滑ったところをリゼが追って端を掴む。
「取った!」
隣の男がすぐ加わり、二人、三人と綱に手が増えた。強く引きすぎれば船首が岸へ叩きつけられる。リゼは波が寄せた時だけ綱を詰め、波が引いた時には少し送る。
「今!」
三人で引くと船首が岸へ寄った。母が反対側の綱を杭へ回し、港番が船尾側の綱を引いて、ようやく船が岸へ収まる。
乗っていた男の一人は岸へ降りた途端に膝をつき、もう一人も船縁へ掴まったまま何度も息を吐いた。
「怪我?」
ミレナが駆け寄る。
「違う、力が抜けただけだ」
「なら座っててください」
「そうする」
男はそのまま石の上へ座り込んだ。風も雨もまだ弱まらない。港では切れた綱を片づける者がいて、外れた桟橋の残りを見に行く者がいる。母は灯塔の火が残っているのを確かめると、すぐ別の係留船へ向かった。
リゼは手の中の濡れた綱を杭へ結び、まだ点いている導灯を見た。
さっきまで港口の外で揺れていた灯は、もう石積みの内側にあった。




