第3話 出ていく理由
「継ぎません」
男の笑顔が止まった。
「……継がない?」
「明後日の船で出ます。向こうの商会で働くことになってます」
馴染みの男はリゼと石台に並んだ灯を交互に見た。船はまだ港口へ向かっていて、女と子供がその背を追うように手を振っている。
「大港の商会? いつ決めたんだ」
「少し前です」
男は口を開きかけ、やめた。
「でも、お前が継ぐもんだと思ってたぞ」
「そうでしょうね」
少し離れていた船員までこちらを見る。
「じゃあ次の灯は? お母さん一人で見るのか」
「それは母が決めます」
リゼは端の灯へ目を戻した。風が少し強くなり、炎が風除けの中で細く揺れている。
男たちはそれ以上何も言わず、ミレナも口を挟まなかった。けれど帰る頃には、近くにいた何人かがこちらを見ていた。
翌朝、風は昨日とは違う向きから吹いていた。
港口の外には低い雲が流れ、普段なら朝のうちに沖へ出る小舟が何隻か岸に残っている。係留索を確かめる男たちの声が、いつもより早くから飛び交っていた。
リゼは母と灯塔へ上がった。
「北側、昨日より当たるよ」
リゼは窓の留め具を確かめ、油壺の蓋を締め直した。母は何も言わず、反対側の戸を見る。
昨日のことには、どちらも触れなかった。
灯塔を下りると、魚籠を抱えた女に呼び止められた。
「商会に行くんだって? 大港の方?」
「そうです」
女は驚いた顔をしたあと、すぐに笑った。
「いい話じゃないか。でも、もったいないねえ。あんた、灯の仕事向いてるのに」
「向こうでも仕事はありますから」
「そりゃそうだけどさ。お母さん、寂しくなるね」
リゼは曖昧に笑った。女は魚籠を持ち直し、「頑張んな」と言って歩いていく。
少し先では、船腹を削っていた職人が手を止めた。
「リゼ、町出るんだってな」
「もう広まってるんですか」
「港で言えば、そりゃ広まる」
職人は削りかけの板を見る。
「まあ、向こうで駄目だったら戻ってくりゃいい。灯の仕事は忘れんだろ」
「駄目になる前提なんですか」
「そういう意味じゃねえよ」
笑い声が返ってくる。
仕事へ戻ってからも、「せっかく覚えたのに」「お母さん一人じゃ大変になるな」と何度か声を掛けられた。最初は一つずつ答えていたが、途中から「はい」と「そうですね」だけで済ませるようになった。
船着き場で若い船員に潮の時間を聞かれ、答える。
「やっぱりお前に聞くのが早いな」
リゼも笑った。
その言葉だけが、しばらく耳に残った。
倉へ戻る途中、港口の旗がさっきより強くはためいているのが見えた。灯塔へ上がる石段の脇では、港番が雨戸の留め具を確かめている。リゼはその背中へ声を掛けた。
「油、今夜の分は上にある?」
「一壺ある」
「もう一つ運んどく」
「頼む」
リゼは倉から新しい油壺を抱えた。誰かに言われたわけではない。風が強くなる時は、先にやっておく仕事だった。
昼前、母と二人で倉の中を片づけていると、外で風が戸を鳴らした。
母は棚の油瓶を奥へ寄せながら言う。
「昨日、継がないって言ったんだってね」
「本当のことだし」
「言うなとは言ってないよ」
母は瓶を一本持ち上げ、底を確かめてから戻した。
「ただ、あんたが出るのと、ここの灯をどうするかは別の話だからね。しばらくは私が見る。夜の見回りは港番にも頼むし、油運びくらいなら荷揚げの連中が手を貸してくれる」
「もう頼んだの?」
「船の日は前から分かってたからね。あんたが出た翌日から考え始めるわけにもいかないだろ」
「……そっか」
「灯守は私だよ。手が足りないところを借りるだけ」
リゼは畳んだ布を棚へ置いた。
「私がいた方が楽?」
「そりゃ楽だよ」
返事は早かった。
「あんたがいた方が、ずっと楽だ。風も潮も分かるし、夜中に叩き起こしても文句言いながら来る」
「文句は言うんだ」
「言うだろ」
母は鼻で笑い、そのまま次の瓶へ手を伸ばした。
「いなくなれば困る。困るけど、灯は消せないからね」
「……うん」
「出るまではちゃんとやりな」
「やるよ」
午後、リゼは港の外れでミレナに会った。
昨日はあれだけ手帳を開いていたのに、今は何も書かずに海を見ている。リゼに気づくと、ミレナが手を上げた。
「こんにちは」
「昨日のこと、面白かったですか」
ミレナの手が止まる。
「送り灯の話ですか?」
「私が継がないって言った方」
「面白いとは思ってませんよ」
リゼは返事をしなかった。
少し離れた桟橋では、船員が積み荷を縄で締め直している。朝より風が強く、旗が乾いた音を立てていた。
「みんな、私が残ると思ってたんです」
リゼは海を見たまま言った。
「向いてるとか、必要だとか、もったいないとか。朝からずっとそればっかり」
ミレナは黙って聞いている。
「できるなら、やればいいって思ってるんですよ」
「そう言われたんですか?」
「言われてません。でも同じです。私ができるから、次は私だって。子供の頃からずっとそうだったから」
風が髪を乱す。リゼは耳へかけ直した。
「この町が嫌いなんです」
口に出すと、思っていたより平たい言葉だった。
ミレナはしばらく黙っている。
「そうなんですか」
「何も言わないんですね」
「何か言った方がいいですか?」
「別に」
「海が嫌いなわけじゃないです。船も嫌いじゃない。灯の仕事だって、できないからやめたいんじゃない」
ミレナがこちらを見る。
「でも、この町にいると、何をしたいか聞かれる前から『次の灯守』なんです。誰かに会っても、まず灯守の娘で、その次が私で」
喉の奥が少し乾いた。
「向こうへ行けば、私が誰の娘かなんて誰も知らない。灯守になれなんて言う人もいない。最初くらい、ただのリゼでいられるでしょう」
「向こうの商会では、何をするんですか」
「最初は帳場です。荷の数を合わせたり、船荷の記録をつけたり。慣れたら、もっと任せるって」
「港の仕事なんですね」
「そうですね」
「でも、あの仕事は自分で探しました」
ミレナがリゼを見る。
「この町に来る商人に、大港で人を雇ってるところを知らないかって聞いたんです。帳場なら読み書きと計算ができれば雇うところもあるって教えてもらって」
大港へ行く船に何通か手紙を預けた。返事が来なかったところもあれば、人手は足りていると断られたところもある。
「その中で返事をくれたのが、今度行く商会です。一度、大港から来た人とも話しました」
「自分で探したんですね」
「他に誰が探すんですか」
リゼは海へ目を戻した。
「母に頼んだら、灯守以外の仕事なんて探さないでしょうし」
ミレナは何も言わなかった。
「ミレナさんは、なんで旅してるんですか」
「神託です」
リゼが横を見る。
「神託?」
「神さまに、旅に出ろって言われました」
「だったら、いいですよね。行く理由を自分で説明しなくていいじゃないですか。神さまに言われたからで済むし」
ミレナは腰の鞄へ手を入れ、いつもの手帳を少しだけ引き上げた。
「旅に出たきっかけは神託です。でも、何を見るかまで神さまに決めてもらったわけじゃありません。この手帳は、私がやりたいからやってます」
それだけ言って、手帳を鞄へ戻した。
リゼは沖へ視線を戻す。
「……そうですか」
雲がさっきより低くなっていた。
夕方前、船着き場が急に慌ただしくなった。
朝から積み荷をしていた船では出航の支度が止まり、船員たちが係留索を増やしている。ヴァルドとミレナが乗る予定だった船だ。
「今日は出さん」
船頭が短く言った。
「風が回ってる。外へ出てから強くなったら面倒だ」
ミレナが空を見る。
「明日は?」
「朝になってから決める」
ヴァルドは係留された船を一度見ただけだった。
予定を聞きに来ていた客たちも、船頭の返事を聞くと大きく騒がず散っていく。船員たちは積み荷を降ろさず、濡れないよう帆布を掛け直していた。
別の船では甲板の空樽を倉へ戻し、修理場でも長い板材を中へ運び込んでいる。港番は外に立ててあった道具を壁際へ片づけていた。
リゼは別の船頭を探した。
「明日の大港行きは?」
男は沖を見たまま首を振る。
「今は何とも言えん。今夜の風次第だな」
「朝には分かる?」
「たぶんな。悪けりゃ延ばす」
リゼは頷いた。
母が少し離れたところで空を見ていた。
「今夜は見回り増やすよ」
「私も出る」
「寝ときな」
「起こされるんでしょ」
「風次第」
母はそう言って歩き出した。
家へ戻る頃には、空はすっかり灰色になっていた。風が屋根の端を鳴らし、閉めた窓の隙間から細い音がする。
部屋の隅には、口を閉じた旅鞄がある。上には母がくれた油布が載ったままだった。
母もそれを見た。
「明日は出ないかもしれないね」
「そうみたい」
「荷物、ほどく?」
「ほどかない」




