第2話 送り灯
朝の仕事を終えたあと、リゼは港の倉の前に腰を下ろしていた。
膝の上には、昨日使った小さな油灯が一つある。煤で黒くなった風除けを布で拭き、芯の焦げた先を切り落とす。油はほとんど残っていなかった。
「昨日の灯りのこと、もう少し聞いてもいいですか?」
顔を上げると、昨日の女神官が立っていた。大男の姿はない。
「送り灯のこと?」
「はい。あ、私、ミレナといいます」
「リゼ」
「昨日、呼ばれてましたね」
ミレナは手にしていた小さな手帳を見せた。
「旅先の昔話とか、土地の風習とかを集めてるんです。いつか本にしたくて」
「送り灯も?」
「聞けるなら」
「別にいいですけど」
リゼは灯を膝に戻した。ミレナは近くの石段へ腰を下ろす。
「毎日つけるんですか?」
「船が出る時だけです。夜や朝早くだとよく見えますけど、昼に出る船でも持ってくる家はあります」
「家?」
リゼは手を止めた。
「町の灯だけじゃないんです。見送る人が自分の家のを持ってくることもあります」
足元の籠には、昨日使った灯がいくつか入っている。その中に一つだけ形の違うものがあり、ミレナがそこへ目を留めた。丸みのある銅の枠に、古い傷が何本も走っている。
「これは?」
「昨日出た船に乗った人の家のです。あとで返します」
「町の灯と一緒に並べるんですね」
「灯なら形は何でもいいです。風で消えないようにすれば」
ミレナの視線が、港の端にある灯塔へ向いた。
「あの灯も同じものですか?」
「違います。あっちは導灯です。夜とか天気が悪い時に、戻る船が港口を見つけるためのものです。送り灯はなくても船は出せます」
ミレナの手が止まり、二つの灯を見比べる。
「それでも、つけるんですね」
「昔からそうしてますから」
リゼは次の灯を手に取った。
「それ、うちのじゃないかい?」
しばらくして、背後から声がした。
振り返ると、腰の曲がった女が籠を覗き込んでいる。
「ああ、これ。昨日のですよね」
「そうそう。忘れるところだったよ」
女は受け取った灯の底を指で擦った。
「随分汚れたね」
「使えば汚れますよ」
「そりゃそうだ」
女が笑う。その隣で、ミレナが手帳を開いたまま灯を見ていた。
「ご家族の船だったんですか?」
「息子だよ。南へ塩を運びにね」
「送り灯って、いつからあるんです?」
「さあねえ。私が子供の頃にはもうあったよ」
近くで縄を編んでいた老人が顔を上げた。
「ありゃもっと昔からだ」
「知ってるの?」
「知ってるとも」
老人は縄を置き、膝を伸ばした。
「昔、大嵐があったんだ。何日も船が帰ってこなくてな。夜になっても海は真っ暗で、どこが港かも分からん。それで待ってた女たちが岸に火を並べた。その火を目印に船が帰ってきたんだ。それが最初だ」
ミレナは手帳へ書きつけながら聞いた。
「いつ頃の話です?」
「俺が生まれるより前だ。親父に聞いたんだったか、爺さんだったか……そこまでは覚えてねえ」
老人が眉を寄せる。
「そこまで書くのか? 誰から聞いたかも分からん話だぞ」
「それも書いておきます」
老人は妙なものを見る顔をした。
「その話、私も初めて聞きました」
リゼが言うと、老人がこちらを見る。
「お前の母ちゃんは教えなかったのか?」
「灯のつけ方は教わりました」
「由来は聞いてないのか?」
老人が腕を組む。
「今の若いのは昔話をしないからな」
「お爺さんも今初めて話したじゃない」
灯を抱えた女が言うと、老人は黙った。
ミレナが笑いをこらえながら手帳へ何かを書き足す。
「それも書くんですか?」
「これは書いてません」
「ならいいですけど」
女は「じゃあね」と灯を抱えて帰っていき、老人も縄へ戻った。
昼になると、港には焼いた魚や貝の匂いが漂い始めた。
油を買いに出たリゼは、昨日と同じ店の前で足を止める。焼き網の上には殻付きの貝が並び、汁を垂らしながら音を立てていた。
「一つ」
店の親父が紙に包んで渡す。
その時、店の脇から聞き覚えのある声がした。
「これ、焼いただけなんですか?」
「食べられるから売っているんだろう」
「そういう意味じゃありません」
見ると、ミレナと昨日の大男がいた。
ミレナは串に刺した貝を手にしている。大男――ヴァルドはすでに一つ食べ終えていた。
「どう?」
リゼが聞く。
「おいしいです。熱いですけど」
「焼いたばっかりだから」
ミレナがもう一口食べる。
その向かいでは、年嵩の漁師が木杯を片手に座っていた。
「送り灯の話を聞いてるんだって? 朝、爺さんに捕まったろ」
ミレナが目を丸くする。
「知ってるんですか?」
「もう港中に話してる」
漁師は笑った。
「嵐で帰れなくなった船がどうとか言われたんだろ」
「そうです」
「そんな話じゃない」
リゼは貝を受け取りながら、そちらを見る。ミレナはすぐ手帳を開いた。
「違うんですか?」
「昔、長い航海に出る船があった。帰るのが半年先か1年先かも分からん。そいつを見送る家の連中が岸に火を置いた。それが始まりだ。戻すためじゃない。出す時の灯だよ」
「朝聞いた話と全然違いますね」
「爺さんは昔話を大きくするのが好きなんだ」
少し離れたところから、
「聞こえてるぞ!」
と声が飛んできた。
漁師が笑う。
ヴァルドが開いた手帳を横から見る。
「違う話だな」
「はい」
「どちらが正しい」
「分かりません」
「なら何を書いている」
ミレナは少し考え、手帳へ一行足した。
「分からないってことです」
ヴァルドは黙った。
リゼも貝を持ったままミレナを見る。
「全部違っててもいいんですか?」
「違うなら、違うって書きます」
「どれか本当の話を調べるんじゃなくて?」
「調べられるところは調べます。でも、聞いた話まで捨てたくないんです。なくなったら、後から聞けませんから」
ミレナは手帳を閉じ、残っていた貝を口へ運ぶ。
「あつっ」
ヴァルドが横を見る。
「冷めてから食えばいい」
「今言わないでください」
リゼも紙包みの貝を一つ口にした。
午後、リゼが買った灯用の油を倉へ運んでいると、ミレナが追いついてきた。
「お母さんなら、送り灯の始まりを知ってますかね。聞いてみてもいいですか?」
「今なら倉にいると思います」
二人で港の端へ向かうと、母は戸を開けた倉の中で灯の金具を選り分けていた。
「油、持ってきた」
「そこに置いといて」
リゼが壺を下ろす。母がミレナを見る。
「旅の人だね」
「ミレナです。送り灯のことを聞いて回ってるんですけど、始まりって知ってますか?」
「知らないね」
返事が早かった。
「知らないんですか?」
「私も母さんからやり方を教わっただけだからね。由来なんて聞かなかったよ。『港を忘れないための灯だ』とは言ってたけど」
リゼが思わず母を見る。
「灯守なのに?」
「あんたも知らないだろ」
それはそうだった。
ミレナが手帳を開く。
「港を忘れないためって?」
「船に乗った人間が、帰る場所を忘れないようにって。始まりかどうかは知らないよ。母さんがそう言ってただけだ」
ミレナは話を聞きながら手帳へ書きつける。
「そんなものまで書くのかい」
「こういうのが好きなんです」
母がリゼを見る。
リゼは肩をすくめた。
「朝からずっとやってる」
「変わった趣味だね」
「よく言われます」
倉を出ると、海から湿った風が吹いてきた。
「同じ灯なのに、みんな違う話をするの、面白いですね」
「毎日見てると、そうでもないです」
「そうなんですね」
リゼは少しだけ横を見る。ミレナはもう海の方を見ていた。
港へ戻る途中、沖に出ていた小舟が何隻か、まだ明るいうちに戻ってきた。桟橋では船員が係留索を一本足し、空を見上げた男が隣へ声を掛ける。
「今夜は少し吹くかもな」
「西からか?」
「まだ分からん。念のためだ」
二人はそのまま綱を締め直した。少し先の船修理場でも、干していた帆布を畳み、積んだ木材へ縄を回している。
リゼも一度だけ沖を見る。雲は流れていたが、まだ騒ぐほどではない。視線を戻し、そのまま歩いた。
夕方になると、風は朝より少し強くなっていた。
また一隻の船が出ることになり、リゼが灯を並べていると、幼い子供を連れた女が古い油灯を持ってきた。
「これも置いていいかい?」
「いいですよ」
受け取って石台へ置き、火を入れる前に位置を変える。
「そこだと風が当たるから、こっちにします」
「任せるよ」
子供が灯を覗き込み、女に服を引かれて離れた。
少し離れたところにミレナがいる。今は手帳を開かず、船の方を見ている。
船が岸を離れ始める。並んだ灯の前で女と子供が手を振り、甲板から男も大きく腕を振り返す。
リゼは端の灯の火を確かめた。
「随分熱心に見てるな」
馴染みの男がミレナへ声を掛ける。
「こういう灯って、誰でもつけられるんですか?」
「やり方さえ知ってりゃな。ただ、普段は灯守が見る。今はこいつの母ちゃん。その次はリゼだ」
男はリゼを顎で示した。
「こいつなら潮も風も分かるし、灯の扱いも慣れてる。次にここへ来る頃には、こいつが灯守になってるかもな」
ミレナがリゼを見る。リゼは灯から手を離した。
「継ぎません」




