第1話 灯守の娘
まだ空が青くなる前から、港には人の声があった。
「綱、外すぞ!」
「待て、そっちがまだだ!」
船縁から声が飛び、太い縄が濡れた石の上を擦っていく。低い石台には、黒ずんだ風除けのついた小さな油灯が間を空けて並んでいた。
リゼはその一つを開き、火種を移す。細い炎が風除けの内側で揺れた。
一つ。少し離れて、もう一つ。三つ目は火の立ち方が弱い。しゃがみ込み、風を背に受けながら芯を少しだけ上げた。
「そっちは?」
後ろから母の声がした。
「ついてる」
振り返らずに答える。海から吹き込む風は冷たく、髪が頬へ張りついた。
港の先では、小ぶりな船がゆっくりと岸を離れ始めていた。甲板に立っていた男がこちらを見つけ、片手を上げる。
リゼも手を上げた。
別れの言葉はない。あの船は何度もこの港へ来ているし、乗っている者の顔も大半は知っている。次に戻ってくる時も、同じように騒がしく綱を投げるのだろう。
船が港口へ近づく。
「風、東から少し入ってる。昼には変わりそうだけど」
「見れば分かるよ」
「じゃあ言わなくていい?」
「確認はしなさい」
結局言うのではないか、とリゼは思ったが口には出さなかった。
船は港口を抜け、朝の暗い海へ小さくなっていく。それが見えなくなるまで、母は何も言わなかった。
「もう消していいよ」
「分かってる」
リゼは一番端の灯から火を落とした。
日が昇る頃には、港はすっかり明るくなっていた。漁から戻った船の魚籠が次々と下ろされ、魚を運ぶ者、値を決める者、樽を転がす者が狭い道を行き交っている。
リゼと母は小さな灯を片づけると、そのまま港の端へ向かった。石段を上がった先には、港口を見下ろす小さな灯塔がある。
扉を開けると、油と煤の匂いが鼻に入った。
母が油壺を覗き、壁際の留め具へ手を掛ける。リゼはその背中に言った。
「油は昨日足した。そこも締めたよ」
「雨戸は?」
「今見る」
リゼは窓へ向かった。昨日の風で少し軋んではいたが、外れてはいない。金具を一度動かしてから戻す。
「問題ない」
「そう」
昔なら一つ確かめるたびに手を出されたが、今では母は確認するだけだった。
「今日の夕方、南の船が出るから」
「知ってる。灯は私がやる」
母は「そう」とだけ返して外へ出た。リゼも最後に戸を閉める。
眼下には茶色い屋根が並び、その間に塩を干す棚や修理中の船が見えた。どこかで船腹を叩く木槌の音が続いている。
リゼは母のあとを追って石段を下りた。
家へ戻ると、テーブルの端に折り畳んだ紙が置かれていた。
昨日も、その前の日もそこにあった。大きな港町の商会から届いた紙だ。
リゼは腰を下ろしてそれを開いた。働き始める日も商会の場所も、最初のうちは寝泊まりする部屋を用意してもらえることも、もう覚えている。
仕事は帳場の手伝いから始まり、慣れれば荷の確認や船荷の記録も任される。紙の下には、乗る船の予定を書いた小さな控えがあった。
数日後。それに乗れば、この町を出る。
「荷物は?」
母が鍋を火に掛けながら聞いた。
「だいたい終わってる」
部屋の隅には、口を開けたままの旅鞄が置いてある。服と仕事で使うものは詰めてあり、残っているのは出る前日まで使う細々したものくらいだった。
鞄の上に、見覚えのない油布が畳んである。
「これ、母さんの?」
「船で荷物が濡れたら困るでしょ」
「向こうで買えるのに」
「向こうへ着くまでに濡れたらどうするの」
母は鍋の中身を混ぜている。
リゼはまだ新しい油布を手に取った。
「……借りる」
「持っていきなさい」
少し迷ってから、油布を鞄へ押し込む。
「船賃は別にしてあるんだろうね。無くすんじゃないよ」
「子供じゃないんだから」
「19でも無くす人は無くす」
リゼは商会からの紙を畳んだ。母は鍋の火を弱め、それから何でもないことのように言った。
「出る前の日、夕方の灯はあんたの番だからね」
リゼの指が、畳んだ紙の上で止まった。
「分かってる」
「ならいい」
母は皿を出した。それ以上、その話は続かなかった。
昼過ぎ、リゼは空になった油の容器を持って港へ出た。朝より風が暖かく、魚の匂いに混じって焼いた貝の匂いがする。
「リゼ、ちょうどいい!」
船着き場の方から声を掛けられた。若い船員が、小さな荷船の綱を持って立っている。
「ここ、今晩まで置いていいか?」
「そこはやめた方がいい。夕方に潮が引いたら底を擦る。奥が空いてるからそっち」
「分かった。回す」
近くにいた男も綱を取り、二人で荷船を奥へ動かし始めた。リゼはその横を抜けていく。
「リゼ!」
今度は網を干していた馴染みの男が手を上げた。
「帰りにお母さんへ言っといてくれ。明後日の船、少し早めに出る。時間はまだ潮見てだ」
「決まったら先に言って。直前に言われても困るから」
「分かってるよ」
「毎回そう言う」
男が笑った。
「お前がいるうちは灯も大丈夫だろ。お母さんもそのうち楽できるな」
「まだ母がやってる」
「そりゃそうだけど、お前がいれば安心だ」
男はもう網へ戻っていた。
リゼも歩き出した。数歩進んでから、油の容器を持ち直す。
油を受け取った帰り、港の詰所の前で足を止めた。
中では白髪混じりの男が机に向かい、船の出入りを書きつけている。リゼが戸口から顔を出すと、男が帳面から目を上げた。
「何だ。灯の方か?」
「違う。私の船」
男は「ああ」と帳面を何枚かめくった。
「3日後のでいいんだな。荷物は?」
「鞄一つ」
「なら前の日でもいい。でかい荷が増えるなら先に言えよ」
「増えない」
男が帳面へ目を戻す。横から見えた紙面には出港する船の名と乗客の名前が並び、その中に「リゼ」と自分の名前があった。
リゼは詰所を出た。
表では、さっきの荷船が奥の係留場所へ収まり、若い船員が綱を結び直している。港の向こうでは誰かが木箱を運びながら怒鳴り、魚籠の間を子供が走っていた。
リゼは帰り道に焼いた貝を一つ買った。
午後になって、見慣れない二人連れが港へ来た。
先に目についたのは、背の高い男の方だった。遠目でも分かるほど大きく、使い込まれた旅装に、黒に近い髪は整えているのかいないのかよく分からない。
その隣にいる女は、旅装の女神官だった。
二人は船着き場のそばにいた男と話している。
「次の船はいつ出ます?」
「向こう岸なら明後日だ。今日の便は朝出たよ」
「明後日……」
「荷がまだ揃ってないし、潮もその方がいい」
女神官が隣を向いた。
「……ヴァルドさん。だから朝、もう少し早く出ようって言ったんです」
「間に合うとは言っていなかった」
「そういう問題じゃないでしょう」
「別の船を出せばいい」
「私たちの船じゃありません」
「金を払えばいいだろう」
「何でもお金を払えば急に用意できると思わないでください」
船着き場の男が二人を交互に見た。リゼも少し離れたところで足を止める。
大男は真顔だった。
「宿はありますか?」
女神官が聞いた。
「ああ。大通りまで出れば2軒ある。安い方なら――」
話はすぐに宿と船賃へ移った。女神官は金額や出発時刻を細かく確認し、大男は途中から海を見ている。
変な二人だとは思ったが、船待ちの旅人が2日ほど滞在するのは珍しくない。リゼは油の容器を抱え直し、家へ戻った。
夕方、西日が海へ落ち、波の端だけが赤く光っていた。
予定していた南行きの船がゆっくりと岸を離れ始める。リゼは朝と同じように灯へ火を移していった。
一つ。二つ。三つ。
風は弱く、今度はどの火も素直についた。
「リゼ、端の方いいぞ!」
船着き場から声が飛ぶ。
「分かってる!」
最後の灯に火を入れ、立ち上がった。
船の帆が風を受ける。岸に残った者が手を振り、船からも誰かが振り返す。
何度も見た光景だった。
船が少しずつ遠ざかり、港口へ向かっていく。
「すみません」
背後から声がした。
振り返ると、昼間の女神官が立っていた。近くで見ると、蜂蜜色に近い髪を後ろでまとめている。片手には小さな手帳のようなものを持っていた。
少し離れた場所には、あの大男もいた。
女神官は並んだ灯を見た。
「あの灯り、何ですか?」
リゼも灯へ目を向ける。
「送り灯です」
沖へ出ていく船の向こうで、日が海へ沈みかけていた。




