第6話 父の話
翌日、アニカは来なかった。
朝から馬の脚を見て、飼葉を運び、旅立つ客の荷を手伝った。昼を過ぎても、厩の入口にあの姿は現れない。
ラウルは一度だけ街道へ目をやり、すぐに手元の革紐へ視線を戻した。
昼前、入口近くの木箱を壁際へ戻した。
午後には荷車が2台続けて入った。
馴染みの御者が栗毛を引いてくる。
「ラウル、こいつの左前を見てくれ。少し歩き方が硬い」
「荷を降ろせ」
「昼過ぎには出たいんだが」
「なら余計にだ」
御者が荷車へ戻る間に、ラウルは栗毛の脚を取った。蹄を確かめ、歩かせて様子を見る。大した異常ではなかったが、今日は荷を軽くした方がいい。
「今日は荷を軽くしろ」
「また分けるのか」
「嫌ならそのまま行け」
「……分かったよ」
御者はぶつぶつ言いながら荷車へ戻っていった。
その後も、泥のついた車輪を見て、馬の汗を拭き、預かった荷の数を確かめた。
ラウルからアニカを探しに行くつもりはなかった。
「ラウルさん」
声に顔を上げると、ミレナが厩の入口に立っていた。隣にはヴァルドもいる。
「明日の朝、ここを出ようと思います」
「そうか」
「お世話になりました」
「金を払って泊まってる客に言われることでもない」
「そういう言い方します?」
ミレナが少し笑った。
ヴァルドは厩の奥を見ている。老馬が飼葉を噛みながら、時々こちらへ耳を向けていた。
「こいつはもう平気か」
「ああ。食うようになった」
「そうか」
ヴァルドは厩の外へ目を向けた。
「じゃあ、また明日。出る前に挨拶しますね」
ミレナが言い、2人は宿へ戻っていった。
ラウルは手元の革紐を締め直した。
日が傾いても、アニカは来なかった。
――――――
翌朝は、空が明るくなる頃から宿が騒がしかった。
早立ちの商人が荷車を出し、御者が馬を引き、宿屋の息子が眠そうな顔で桶を運んでいる。
ラウルもいつも通り厩へ出た。
ヴァルドとミレナは朝食を済ませたら発つと言っていた。荷物は多くない。ミレナの鞄だけが、来た時より少し膨らんでいるように見えた。
「増えてるな」
「この町で紙も買いましたから」
「捨てれば軽くなる」
「捨てません」
ミレナが鞄を抱え直した。
「ヴァルドさんも少しくらい持ってくれていいんですよ」
「お前の荷物だろう」
「そういうところですよ」
ミレナは鞄を背負い直した。
ラウルは馬具を棚へ戻した。
宿の方から主人に呼ばれ、ミレナがそちらへ向かう。ヴァルドも少し遅れてついていった。
ラウルが空になった桶へ手を伸ばした時、厩の入口に人影が止まった。
アニカが、そこに立っていた。
「……おはようございます」
「ああ」
アニカは厩の中へ入ったが、いつもの木箱には座らなかった。入口の近くに立ったまま、鞄の紐を握っている。
ラウルも座れとは言わなかった。
「昨日は……来たくなかったので」
「ああ」
そこで会話が止まった。
馬が鼻を鳴らす。外では荷車の車輪が石を踏み、がたんと音を立てた。
アニカは厩の奥を見た。
「……まだ、父の話を聞いてもいいですか」
「ああ」
返事をすると、アニカは少しだけ肩の力を抜いた。それでも木箱には座らない。
「あのこと、許したわけじゃないです。今も腹が立ってます。たぶん、しばらくは」
「分かってる」
「でも、父のことは聞きたいです。それとこれは、別なので」
ラウルは何も言わなかった。
アニカが厩の中の馬を眺める。
「父って、馬に乗るの上手かったですか?」
「普通だな。騎士だったから乗れはしたが、上手い方じゃない。馬にもあまり好かれなかった」
アニカがこちらを向いた。
「父が?」
「ああ。手綱を強く持つ癖があった」
昔、隊に栗毛の牝馬がいた。
大人しい馬で、誰が近づいても滅多に嫌がらなかったが、グレンが来る時だけ耳を伏せた。
「そんなに嫌われてたんですか」
「グレンも気づいてた。気に入られようとして、毎朝リンゴを持ってきてた」
「それで?」
「リンゴだけ食われてた」
アニカの口元が少し動いた。
「……かわいそう」
「自業自得だ」
「ラウルさんは好かれてたんですか?」
「少なくとも耳は伏せられなかった」
「それ、好かれてたって言うんですか」
「グレンよりはな」
アニカが小さく笑ったが、すぐに口を閉じた。
ラウルは何も言わなかった。
「その馬、名前は?」
「知らん。隊の馬を全部覚えてるわけじゃない」
「父は?」
「勝手に『姫』って呼んでた」
アニカが吹き出した。
「嫌われてるのに?」
「嫌われてるからだ。『いつか振り向かせる』とか言ってた」
「父、そんなこと言うんだ」
「言う。で、最後まで耳を伏せられてた」
アニカは俯いたまま笑った。
しばらくして、その笑いが静かになる。
「手紙には、そういうこと書いてなかったです」
「書くほどのことじゃないからな」
「だから聞きたいんです」
アニカは顔を上げた。
「母から聞けるのは、家にいた時の父のことなんです。朝が弱かったとか、物を置いた場所をすぐ忘れるとか」
少しだけ考えてから続ける。
「手紙も、父が書こうと思ったことしか残ってないでしょうし。騎士だった時に、どんなことで笑って、何を嫌がって、どうでもいい時に何をしてたのかは、私には分からないから」
アニカは厩の奥の馬へ目を向けた。
「そういう、書くほどじゃないことが知りたいです」
「まだあるぞ」
アニカは少し迷うように黙った。
「……父って、家の話はしてましたか」
「してた」
アニカの目がラウルへ向く。
「私のことも?」
「ああ」
「何て?」
「色々だ」
「色々じゃ分かりません」
ラウルは少し考えた。
「お前が字を書けるようになったって、見せられたことがある」
「私が書いた字を?」
「ああ。手紙と一緒に入ってたらしい」
アニカが眉を寄せた。
「何を書いたんですか?」
「知らん」
「見たんですよね?」
「見た」
「じゃあ何で知らないんですか」
「読めなかった」
アニカが黙った。
「子供の字だった。グレンは自分の名前だと言ってたが、俺には線にしか見えなかった」
「父は読めたんですか?」
「読めると言い張ってた。紙を指で叩いて、これは自分の名前だって何度もな。周りからは、お前の字も大概だろって言われてた」
アニカが一瞬ぽかんとして、それから笑った。
「父、人のこと言えないじゃないですか」
「だから言われてた」
「それでも見せてたんですか?」
「ああ。何人にも」
「恥ずかしい……」
「お前じゃなくて、グレンがな」
「同じです」
「そうか?」
「そうです」
アニカは口元を押さえたまま笑っていた。
やがて、その手を下ろす。
「父、私のこと話してたんですね」
「ああ」
「覚えてないです、その手紙」
「子供だったからな」
「父は取っておいたのかな」
「さあな」
ラウルが知っているのは、グレンがその紙を持ってきたことだけだった。その後どうしたのかまでは知らない。
アニカも、それ以上は聞かなかった。
「父、歌は上手かったですか?」
「下手だった。声だけはでかかった」
「どんな歌を?」
「行軍中に皆が歌うようなやつだ。途中から歌詞が怪しくなって、知らないところは声が小さくなる。知ってるところに戻ると急にでかくなる」
「分かりやすいですね」
「うるさかった」
アニカは笑っていた。
「ほかにもありますか」
「ある」
「聞きたいです」
そのあとも、思い出したことをいくつか話した。アニカは気になったところを聞き返し、時には黙ったまま聞いていた。
やがて宿の方から、ミレナの声が聞こえた。
「ヴァルドさん、そっちじゃないです!」
「道はある」
「裏口です!」
アニカが厩の外を見る。
「行っちゃうんですか、あの2人」
「ああ。今日出る」
「そうなんですね」
少しして、アニカが鞄の紐を握り直した。
「私も、そろそろ行きます」
「ああ」
入口まで歩いたところで、アニカが止まる。
「また、父の話を聞きに来てもいいですか」
「好きにしろ」
アニカはこちらを見た。
「……じゃあ、また来ます」
今度は笑わなかった。
ラウルも呼び止めなかった。
アニカは街道へ出て、そのまま人の流れの中へ消えていった。
少しして、ミレナとヴァルドが宿から出てきた。
ミレナは鞄を背負い、ヴァルドはいつもと変わらない旅装だった。
「お世話になりました」
「気をつけろ」
「はい。ラウルさんも」
「俺はここにいる」
「そういう意味じゃありません」
ミレナが苦笑した。
「またこの道を通ることがあったら、寄りますね」
「その時は、馬を驚かせるな」
ラウルがヴァルドを見る。
「俺は何もしていない」
「近づいただろ」
「近づいただけだ」
「それで驚かれてるんだから同じだ」
「ヴァルドさん、そこは諦めてください」
ミレナが笑い、ヴァルドは納得していない顔をした。
ミレナが街道へ出る。ヴァルドもその後を歩いた。
少し先でミレナが何か言い、ヴァルドが顔だけを向ける。声はもう聞こえなかった。
ラウルは2人の背中を見送った。
「ラウル!」
宿屋の息子の声が飛んできた。
「荷車の車輪、見てくれって!」
「今行く」
ラウルは街道から目を戻した。厩の奥では、老馬が空になった飼葉桶を鼻先で押している。
「お前は後だ」
壁際の道具箱を持ち上げ、宿の表へ向かった。




