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第5話 その前に

 暴れた馬が落ち着いたあとも、厩ではしばらく騒ぎが続いた。驚いた馬を1頭ずつ見て回り、外れかけた留め具を直し、散らばった桶や道具を元へ戻す。


 日が傾き始めた頃、ようやくいつもの静けさが戻った。


「そっちは終わったよ」


「ああ」


 宿屋の息子は最後の水桶を抱えて宿へ戻っていった。


 ラウルは壁に掛けた馬具の位置を直してから、厩の入口へ目をやった。


 アニカが、入口近くの木箱に座っていた。


「まだいたのか」


「いました」


「見れば分かる」


「じゃあ聞かないでください」


 アニカの視線がラウルの手へ落ちる。


「もう痛くないですか?」


「治してもらった」


 塞がった手のひらを一度見てから、アニカは顔を上げた。


「まだ父の話を聞いてません」


 ラウルは返事をせず、近くの桶を元の場所へ戻した。


 昨日と同じように、字や飯や靴の話を聞くつもりなのだろう。グレンが生きていた頃のどうでもいいような話なら、まだいくらでもあった。


「今日はもういいです。遅くなると宿の人にも悪いので。また明日来ます」


 アニカが鞄へ手を伸ばした。


「待て」


 手が止まる。


「明日は少し早く来い」


「早く?」


「仕事を早めに終わらせる」


 アニカは少し不思議そうな顔をした。


「父の話ですか?」


「……ああ」


「分かりました」


 アニカは鞄を肩へ掛け、厩の入口まで行って振り返った。


「じゃあ、明日は早めに来ます。父の話、楽しみにしてますね」


 満面の笑みだった。


 ラウルは返事をしようとして、胸が詰まった。


「……ああ」


 アニカは笑ったまま、厩を出ていった。


 その日の仕事は、まだ少し残っていた。


 ラウルは飼葉の量を見て、空になった桶へ水を足した。留め具を1つずつ確かめ、最後に戸口の閂を見る。


 手を動かしている間も、昨日自分が言った言葉が頭から離れなかった。


 最後まで一緒だったわけじゃない。最後の言葉は知らない。


 どちらも嘘ではなかった。だが、あれで済ませようとした。


 グレンの最期を知らない理由まで、アニカは聞かなかった。聞かれなかったから言わなかった。それで昨日は終わった。


 字が汚かった話をして、飯を食うのが早かった話をして、靴を間違えた話をする。今日と同じように、アニカは笑うかもしれない。


 さっきの笑顔が浮かんだ。


 ラウルは桶を持ったまま、しばらく動かなかった。


 思い出したのは、飯を取ろうとして手を伸ばしてきたグレンだった。


 人の皿まで狙うくせに、戦の前には硬いパンを1つ齧っただけで手を止めた。剣帯の留め具を何度も触っていた。顔色が悪いまま、それでも立っていた。


 最後に見た時も。


 ラウルは桶を置いた。そこから先を、自分は知らない。


 明日も、知っているところだけ話すことはできる。アニカが聞きたいと言えば、グレンの話はいくらでも出てくる。


 そして、どうしてその先を知らないのかだけは言わない。


 黙っていれば、アニカには分からない。明日もまた笑うかもしれない。


 それで終わらせることもできる。


 ラウルは戸口へ向かい、閂へ手を掛けたところで動きを止めた。


「……逃げるのは、もうやめだ」


 明日、言う。


 ラウルは閂を下ろし、宿へ戻った。



――――――



 翌朝も、仕事はいつも通り始まった。


 馬の脚を見て、飼葉を運び、預かった荷車の車輪を確かめる。昼前には旅人が2組出ていき、昼を過ぎると別の荷馬車が入ってきた。


 宿屋の息子に呼ばれれば手を貸し、御者に馬の癖を聞かれれば答える。やることはいつもと変わらない。


 ただ、いつもより早めに片づけていった。


 夕方までにやればいい仕事を昼のうちに済ませ、後でもいい道具の手入れには手を付けなかった。


「今日は早いな。どっか行くの?」


「行かん。客が来る」


「客?」


「俺のだ」


「珍しい」


「うるさい」


 少年は笑いながら宿の方へ戻っていった。


 普段ならもう一仕事探す時間だったが、ラウルはそこで手を止めた。


 厩の前を掃き、木箱を2つ向かい合わせに置くと、その1つに腰を下ろした。


 何度か街道へ目をやる。


 荷車が1台通り過ぎ、旅人が2人、宿へ入っていった。


 アニカの姿はまだない。ラウルは木箱に座ったまま待った。


 昨日、自分から早く来いと言った。来たら話す。それだけだった。


 やがて、街道の向こうに見覚えのある姿が現れた。


 アニカは昨日より少し早く厩へ来て、木箱に座るラウルを見て目を丸くした。


「本当に仕事終わってるんですね」


「言っただろ」


「いつも何かしてるのに」


「今日は終わらせた」


 ラウルは向かいの木箱を顎で示した。


「座れ」


 アニカが腰を下ろす。


「この前、俺はお前に、そのあと離れたと言った」


「はい」


「あれじゃ足りない」


 アニカが首を傾げた。


 ラウルは一度、厩の奥を見る。老馬がゆっくりと飼葉を噛んでいた。


「俺は、お前の親父と離れたんじゃない」


「……どういうことですか?」


「逃げた」


 アニカが動かなくなった。


「戦場から?」


「ああ」


「撤退したってことですか?」


「違う」


 アニカの眉が寄る。


「撤退命令は聞いてない。隊もまだ残ってた」


「じゃあ……」


「怖くなって逃げた」


 厩の外を荷車が通り過ぎ、車輪の音が遠ざかっていった。


「父は?」


「残ってた」


「その時はまだ生きてたんですよね」


「ああ」


 アニカの手が、鞄の縁を握った。


「じゃあ、父が死ぬ前に、ラウルさんは……」


「俺はお前の親父の最期を知らない。その前に逃げたからだ」


 アニカは何も言わなかった。


 厩の奥で、馬が藁を踏む。


「……どうして」


「怖かった」


「死ぬのが?」


「ああ」


「父だって怖かったって言いましたよね」


「ああ」


「ラウルさんも怖かったって」


「ああ」


 アニカは一度俯き、また顔を上げた。


「でも父は残った」


 ラウルは答えなかった。


「ラウルさんは逃げた」


「ああ」


「父を置いて?」


「ああ」


 アニカは唇を噛んだ。


「……死にたくなかった?」


「死にたくなかった」


 アニカは鞄を開き、中から何通かの手紙を取り出した。


「父の手紙に、ラウルさんの名前が何度も出てきます」


 ラウルは黙っていた。


「友達だったんですよね」


「ああ」


「それでも置いて逃げたんですか」


「ああ」


 アニカが目を逸らした。


「……最低です」


「そうだな」


「謝らないんですか?」


 ラウルはしばらく黙った。


「……すまなかった」


 アニカは手紙を見下ろした。


「今それを言われても、嫌です」


 ラウルは何も言わなかった。


 アニカは手紙を鞄へ戻しかけ、手を止めた。


「もし、ラウルさんが残ってたら、父は死ななかったんですか」


「分からん」


「一緒に逃げられたかもしれない?」


「……分からん」


 アニカはしばらく手紙を見つめ、それから鞄へ戻した。


「この前、離れたって言いましたよね。それ、離れたって言うんですか」


 ラウルは答えなかった。


「私、そういうことだと思ってなかったです。戦ってるうちに別々になったとか、父が別の場所へ行ったとか」


 アニカの声が少し震えた。


「だから、最後の言葉を知らないって聞いても……仕方ないと思ってました」


 ラウルは床へ目を落とした。


「どうして昨日、言わなかったんですか」


「言えなかった」


「今日なら言えたんですか」


 ラウルはアニカを見た。


「言うつもりで待ってた」


「それ、ラウルさんの都合ですよね」


「ああ」


 アニカが目を伏せた。


「ずるいです」


 ラウルは返さなかった。


「ラウルさんから父の話を聞けて嬉しかったんです」


 ラウルは顔を上げた。


「私、父のことほとんど覚えてないから。字が汚かったとか、人の皿を狙ってたとか、そういう話でも嬉しくて」


 アニカは一度言葉を止めた。


「今日も、また何か聞けると思ってました。……でも今は、聞きたくないです」


 アニカは鞄を閉じた。


「今日は帰ります」


「ああ」


 アニカは木箱から立ち上がり、鞄を肩へ掛けた。そのまま厩の入口へ向かい、振り返らずに出ていった。

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