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第4話 逃げた日

――――――


「それ、食わないならもらうぞ」


 向かいに座ったグレンが、ラウルの木皿を見ていた。


「まだ食ってる」


「遅い」


「お前が早すぎるんだよ」


 ラウルが木皿を遠ざけると、グレンが不満そうに眉を寄せた。


「食わないなら、もったいないと思っただけだ」


「食ってるって言ってるだろ」


 隣で笑い声がした。


「グレンさん、また人の飯狙ってるんですか」


 隊に入ってまだ半年も経たないトーマが、パンをちぎりながらこちらを見ていた。少年っぽさの残る若い騎士だ。


「またとは何だ」


「昨日も俺の干し肉取ったじゃないですか。俺の皿に置いてあったのに」


「名前が書いてなかった」


「皿に名前なんか書きませんよ」


 グレンが肩をすくめた。


「なら仕方ない」


「ラウルさん、この人どうにかしてくださいよ」


「無理だ。俺も被害者だ」


「お前は昨日、俺の靴履いてただろ」


「それはお前だ」


「俺じゃない」


「じゃあ誰だよ」


「知らん」


 トーマが腹を抱えて笑った。


「2人とも、自分の靴くらい覚えてくださいよ」


「お前もそのうち分かる。朝は暗い」


「それだけですか?」


「それだけだ」


 少し離れたところから隊長の声が飛んだ。


「明日は早いぞ。いつまで喋ってる。トーマ、お前は特に寝ろ。明日になって眠いなんて言ったら置いていくぞ」


「はい!」


 トーマが慌てて返事をした隙に、グレンがその皿へ手を伸ばした。


「あっ、まだ食べます!」


「なら早くしろ」


「なんで取る側が急かすんですか!」


 また笑いが起きた。


 その夜、誰も翌日の話を長くはしなかった。



 翌朝、ラウルたちの隊は街道を東へ進んだ。敵がいると聞かされていた丘までは半日もかからない。


 近づくにつれて会話は減り、革と鉄の擦れる音ばかりが耳につくようになった。トーマは何度も剣の柄へ手をやっている。


「抜くなよ。触りすぎだ」


「……はい」


 少し前を歩いていたグレンが笑った。


「放っとけ。最初はそんなもんだ」


「グレンさんもですか?」


「俺は違う」


「初陣で吐いた奴が言うな」


 ラウルが言うと、グレンが振り返った。


「朝飯が悪かった」


「そういうことにしといてやる」


 トーマが笑って、剣の柄から手を離した。


 丘を越えたところで敵を見た。


 そこから先は、断片しか覚えていない。


 号令が飛び、ラウルは盾を前へ出した。何かがぶつかり、隣の男が怒鳴る。ラウルも叫び返して剣を振った。押され、押し返し、何度か泥に足を取られた。気づけば靴も膝も泥だらけだった。


「ラウル、右!」


 グレンの声に盾を向けると、すぐに衝撃が来た。


「助かった!」


「あとで飯よこせ!」


 グレンの返しに、ラウルは「それは関係ないだろ!」と怒鳴った。


 その横をトーマが駆けていく。


「前、下がってます!」


「追うな! 列を崩すな!」


 隊長の声に全員が止まった。


 敵兵は少しずつ丘の向こうへ退いていく。本当に退いたのか分からず、しばらく誰も動けなかった。


 やがて別の隊から歓声が上がり、「終わったぞ!」「勝った!」と声が重なる。


 ラウルは荒い息を吐きながら泥の上へ腰を落とした。グレンも隣へ座る。


「……終わったのか」


「たぶんな」


「腹減った」


「さっき食っただろ」


「朝だぞ」


「お前、戦ってる間も飯のこと考えてたのか?」


「今考えた」


 ラウルは笑った。


 グレンが周囲を見回す。


「トーマは?」


 ラウルも立ち上がった。


 人が行き交い、負傷した者が肩を借りて歩いている。座り込んだ者の腕には布が巻かれ、少し離れたところには何人かが地面へ横たえられていた。


 そのうちの1人のそばに、見覚えのある剣が落ちていた。柄に細い革紐が巻いてある。


 トーマの剣だった。


「……トーマ?」


 グレンが歩き出し、ラウルも続いた。


 若い騎士は仰向けに寝かされ、胸元まで外套を掛けられていた。目は閉じている。


「おい」


 グレンが呼んだ。


 近くにいた騎士が首を横に振った。



 野営地へ戻る頃には日が傾いていた。


 勝利はもう全体に伝わっていた。火の周りでは酒を出せと言う声が上がる一方、別の場所では怪我人のうめき声が聞こえる。隊長も腕に包帯を巻いていた。


「明日は休めるらしいぞ。勝った褒美だとさ」


 誰かが言ったが、グレンは返事をしなかった。


 トーマが使っていた寝床だけが空いていた。畳まれていない毛布と、隅に置かれた予備の靴。朝には本人がいて、昨日の夜には皿を取られそうになって怒っていた。


 ラウルは自分の手を見た。泥と乾いた血がついている。誰のものなのかは分からなかった。


 勝った。


 それでもトーマは死んだ。



 それからも戦は続き、ラウルもグレンも何度か戦場へ出た。矢が飛べば伏せ、誰かが倒れても立ち尽くさなくなった。死んだ者の荷物が片づけられる光景も、珍しくはなくなった。



 次の大きな戦いの前日、グレンが飯を残した。


「食わないのか」


 ラウルが聞くと、グレンは木皿を押しやった。


「たまには食いたくない日もある」


「お前が?」


「悪いか」


「いや」


 いつもなら人の皿まで狙う男が、硬いパンを1つ齧っただけだった。


 グレンは立ち上がる前に剣帯の留め具を確かめ、しばらくしてまた触った。


「緩んでないぞ」


「分かってる」


 それでも少しすると、また指が留め具へ戻った。ラウルはもう何も言わなかった。



 翌朝から様子がおかしかった。予定の位置に味方の隊がおらず、伝令も遅い。ようやく届いた命令は、前へ出ろというものだった。


「行くぞ!」


 隊長の声に、ラウルたちは走った。


 最初はいつもと同じだった。盾を並べて敵を受け止める。左にはグレン、右には見知った騎士がいて、隊長の声も聞こえた。ラウルも剣を振り、1度は敵を押し返した。


 だが、長くは続かなかった。


「左が抜かれた!」


 左を見れば味方がこちらへ走ってくる。


「下がれ!」


「持ちこたえろ!」


 2つの声が重なった。


「どっちだ!」


 誰かが怒鳴ったが、答える者はいない。


 隊長の姿が見えなかった。さっきまで右にいた騎士は地面に倒れ、その向こうから敵が来る。


「ラウル!」


 グレンの声は聞こえたが、何を叫んでいるのかまでは分からなかった。


 ラウルは盾を構えた。腕が震え、息がうまく吸えない。盾も剣もひどく重かった。


 地面の男はトーマではない。それでも、トーマの顔が浮かんだ。


 トーマは、勝った戦で死んだ。


 今は負けている。


 また「下がれ」と声がした。命令なのかは分からない。


 後ろでは何人かが走っていた。その先に、戦場から離れる道が見えた。


「ラウル!」


 グレンがもう1度呼んだ。


 グレンはまだ前にいた。顔色は悪かった。それでも、そこにいた。


 ラウルは1歩下がった。


 誰にも押されていない。


 もう1歩。


 敵が近づいてくる。


 死にたくなかった。


 ラウルは盾を捨て、走った。


 後ろから声がした。グレンだったのか、別の誰かだったのかは分からない。振り返らず、泥に足を取られそうになっても走り続けた。前を行く兵を追い越し、剣だけは持っていた。


 何のために持っているのかも考えなかった。


 戦場から離れかけたところで、1度だけ後ろを見た。


 グレンはまだいた。立ったまま、誰かに向かって何かを叫んでいる。声は届かなかった。


 ラウルは前を向いた。


 もう戻らなかった。



 どれだけ走ったのか分からない。気づけば、同じように戦場から離れてきた兵が何人もいて、道端に座り込んでいる者もいた。


 あちこちで「隊長は?」「知らん」「撤退命令は?」「聞いてない」と声が飛び交っている。


「お前、どこの隊だ」


 近くの兵に聞かれ、ラウルは息を整えながら答えた。


「……第3隊だ。他の連中は分からない」



 戦いは負けた。生き残った兵はその夜から数日にかけてばらばらと戻ったが、グレンも隊長も戻らず、副官も死んだと聞いた。


 撤退命令を聞いたという者もいれば、聞かなかったという者もいた。誰が命令で退き、誰が勝手に逃げたのか、最後まで話は揃わなかった。


 その混乱の中で、ラウルが罪に問われることはなかった。


 数日後、武具を返している時、別の隊の騎士が言った。


「お前、逃げるの早かったよな」


 ラウルは返事をしなかった。男もそれ以上は言わなかった。


 何週間かして、ラウルは騎士団を辞めた。



――――――



「危ない!」


 叫び声に、ラウルは顔を上げた。


 街道の向こうから、荷車を引いた栗毛が走ってくる。御者は手綱を引いているが、片方が手から抜けていた。馬は首を振り、荷車を跳ねさせながらこちらへ向かっている。


「どけ!」


 街道にいた人間が左右へ散った。


 ラウルは立ち上がった。


 宿で預かっている栗毛だった。気の荒い馬ではない。後ろでは、荷台から落ちたらしい木箱が転がっている。


「ラウル!」


 宿屋の息子の声がした。


 ラウルは答えず走った。馬の正面には入らず、街道脇を斜めに走って近づく栗毛へ声を張る。


「おい! こっちだ!」


 馬の耳が動き、首がわずかにこちらへ向く。勢いが少し鈍り、跳ねる手綱が近くへ来た。


 ラウルは数歩並走して手を伸ばした。一度目は届かず、二度目で掴んだ。


 腕を強く引かれ、靴が地面を滑る。


 御者も残った手綱を引いている。ラウルは真後ろから止めようとせず、栗毛の頭を街道脇の広場へ向けた。


 馬が大きく首を振り、荷車も続いて曲がる。広場の端にあった空桶が車輪にはじかれて転がった。


 ラウルは手綱を離さず、御者と2人で大きく弧を描かせるうちに、少しずつ速度を落としていった。


「よし。もういい」


 やがて栗毛が止まると、ラウルは荒く息をする馬の首筋へ手を置いた。


「ラウルさん!」


 振り返ると、アニカが走ってくる。その後ろには宿屋の息子がいて、御者も荷車から飛び降りた。


「怪我してませんか?」


「してない」


「手、血が出てます」


 言われて見ると、手のひらの皮が擦れて血が滲んでいた。


「これくらい何でもない」


「何でもなくないですよ」


 御者が息を切らしながら頭を下げた。


「すまん。荷が落ちた音で急に……」


「怪我は?」


「俺は大丈夫だ」


「なら荷車を見ろ。車輪をぶつけてるかもしれん」


 御者が荷車へ回るあいだに、ラウルは栗毛の前脚を確かめたが、大きな傷はなかった。


「車輪も大丈夫だ!」


 御者の声が飛んだ。


「ラウル!」


 今度はミレナの声がした。


 旧道から戻ってきたらしく、ヴァルドと一緒に街道の向こうから歩いてくる。転がった桶や集まった人を見て、ミレナが駆け寄った。


「何があったんです?」


「馬が驚いただけだ」


「それで何で手から血が出てるんですか。見せてください」


「いい」


「よくないです」


 ミレナがラウルの手を取り、淡い光が傷を覆う。ひりつきが消えた。


「これで大丈夫です」


「……悪いな」


「どういたしまして」


 ヴァルドは少し離れたところで栗毛を見ていた。


「ラウル、こっちも見てくれ!」


 厩の方から宿屋の息子が呼んだ。騒ぎで驚いた別の馬が、柵の中を落ち着かなく歩き回っている。


「今行く」


 ラウルは栗毛の手綱を御者へ返し、そのまま厩へ向かった。

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