第3話 最後の言葉
ラウルはしばらく黙っていた。アニカは膝の上の手紙を両手で持ったまま、急かさず答えを待っている。
「最後まで一緒だったわけじゃない」
「そうなんですね」
アニカは手紙へ目を落とした。
「じゃあ、また聞いてもいいですか」
「何を」
「父のことを」
「好きにしろ」
ラウルは立ち上がった。仕事に戻ると、アニカもそれ以上は追ってこなかった。
翌朝、厩には湿った藁の匂いが残っていた。
ラウルは夜のうちに汚れた敷藁を外へ出し、水桶を洗ってから馬具の手入れに取りかかった。古い革帯へ油を擦り込み、ひびの入ったところを指で確かめる。
「おはようございます」
顔を上げると、宿の前にアニカが立っていた。
「早いな」
「昨日、また来てもいいって言われたので」
「言ってない」
「でも、来るなとも言われませんでした」
「誰に教わった、その理屈」
「母です」
真顔で答えるので、それ以上何も言えなかった。
宿屋の息子が厩の奥から顔を出す。
「今日も来たんだ」
「おはようございます」
「今日は待たせないの?」
「仕事しろ」
「はい」
少年が引っ込んだところで、宿の戸口からミレナが出てきた。昨日と同じ冊子を小脇に抱えている。
「おはようございます。昨日の橋、見に行こうと思うんですけど、だいたいどの辺です?」
「今の街道から南へ入った旧道だ。土台くらいは残ってるかもしれん」
「ありがとうございます」
後ろからヴァルドも出てきた。
「行きますよ、ヴァルドさん」
「分かった」
ミレナが街道へ出ると、ヴァルドもそのあとを歩いていった。
ラウルは塗り終えた革帯を壁へ掛け、空いている木箱を足で寄せた。
「今なら少し空いてる。座れ」
「はい」
アニカは鞄を抱えたまま腰を下ろした。
街道の方から荷車の軋む音が聞こえる。朝の客が宿を出始めたらしく、馬の鼻息や人の声が重なっていた。厩の奥では、昨日まで食の細かった老馬が飼葉を噛んでいる。
「それで?」
「父の話です」
「昨日も聞いた」
「昨日はほとんど聞いてません」
「そうだったか」
「そうです」
アニカは鞄から昨日の手紙を出したが、今日は開かなかった。
「父って、騎士団ではどんな人だったんですか?」
「真面目だった」
「それは聞きました」
「誰に」
「母にも、村の人にも。立派で真面目な騎士だったって」
「じゃあ、その通りだ」
アニカが困った顔をする。
「そういうのじゃなくて」
「難しいな」
「普通の話でいいんです。昨日言ってた、くだらないことで言い合ったとか」
ラウルは腕を組んだ。
「字が汚かった」
「……字?」
「ああ。ひどかった」
アニカは手元の手紙を見る。
「母も言ってました。読めないところがあるって」
「あるだろうな。俺も何度か読まされた」
「ラウルさんは読めたんですか?」
「慣れてたからな」
昔、伝令役の若い騎士が紙切れを持って天幕へ飛び込んできたことがある。グレンが書いた報告が読めないと言うので、ラウルが横から読んだ。
「それで?」
「翌朝、本人に見せた」
「はい」
「1文字だけ、あいつも読めなかった」
アニカが吹き出した。
「自分で書いたのに?」
「書いた直後なら読めたらしい」
「それ、読めたって言わないですよね」
「俺もそう言った」
「父、何て?」
「うるさい、って」
アニカが声を立てて笑った。
ラウルは次の革帯を手に取る。
「他には?」
「まだ聞くのか」
「そのために来ました」
「飯が早かった」
「どのくらい?」
「俺が半分食う前に終わってた」
「そんなに?」
「そのくせ人の皿を見る」
「取るんですか?」
「取ろうとする」
「最低ですね」
「本人に言え」
アニカがまた笑った。
「母は、家だとそんなに早くなかったって言ってました」
「騎士団にいる時だけだったのかもな」
「どうしてですか?」
「知らん。取られる前に食ってたんじゃないか」
「誰に」
「俺に」
「ラウルさんも取るんじゃないですか」
「取れるものは取る」
「似た者同士だったんですね」
「一緒にするな」
アニカはしばらく笑っていた。
その間に宿の前を荷車が通り、車輪が石を噛む音がした。御者が厩へ顔を出し、預けていた馬の具合を尋ねる。
「もう出していい。水も飲んでる」
「助かった」
ラウルが馬を引き渡して戻ると、アニカはさっきの木箱で待っていた。
「帰らなかったのか」
「まだ聞いてますから」
「そうか」
ラウルは革帯を取り直した。
「……知らなかったです」
「何が」
「そういう父」
アニカは手紙の端を親指で撫でた。
「手紙だと、天気のこととか、ちゃんと食べてるとか、母に無理するなとか。そんなことばっかりで」
「家に送る手紙なんてそんなもんだろ」
「ラウルさんのことは結構書いてありますよ」
「何を」
「勝手に靴を履かれたとか」
「それはグレンの方だ」
「父の手紙には逆って書いてあります」
「嘘だ」
「どっちの靴だったんです?」
「左だ」
「片方だけ?」
「片方だけだ。外へ出るまで気づかなかった」
「それ、どっちもどっちじゃないですか」
「うるさい」
アニカは笑いながら手紙を見下ろした。
「みんな、立派な騎士だったって言うんですけど。字が汚かったとか、人の皿を狙ってたとか、そういう方が父だったんだなって思えます」
「ろくな話してないぞ」
「でも、私が知らない父です」
「父って、怒ることもありました?」
「あった」
「喧嘩とか?」
「よくした」
「怖がることも?」
革帯を拭いていた手が止まった。
「……あった」
「どんな時ですか?」
ラウルは革帯へ目を落とした。
「戦の前だ」
「父が?」
「ああ」
出陣の前日、グレンが夕食を半分残したことがあった。いつもなら人の皿まで狙う男が、硬いパンを1つ齧っただけで手を止めた。
そのくせ、剣帯の留め具を何度も確かめていた。一度締めて、しばらくするとまた触る。緩んでもいないのに、3度も4度も。
具合でも悪いのかと聞いたら、グレンは「たまには食いたくない日もある」と言った。目は何度も天幕の外へ向いていた。
「怖いって言ったんですか?」
「言わなかった」
「じゃあ、どうして分かったんです?」
「あれだけ一緒にいれば分かる」
「……そうなんですね」
アニカは考えるように俯いた。
「母も村の人も、父は何も怖がらなかったみたいに話すから」
「そんなわけあるか」
思ったより強い声が出た。
アニカが顔を上げる。
「……すみません」
「お前が謝ることじゃない」
ラウルは布を置いた。
「怖いもんは怖い。それだけだ」
「ラウルさんも?」
「ああ」
「父、手紙には1度も怖いって書いてないです」
「書かんだろ」
「どうしてですか?」
「家に送る手紙だぞ。心配させてどうする」
アニカは膝の上の手紙を見た。
「じゃあ、手紙に書いてないこともいっぱいあったんですね」
「そりゃある」
しばらく紙面を眺めてから、アニカが小さく言った。
「……読めばもっと分かると思ってました」
ラウルは返事をしなかった。
宿屋の息子が水桶を抱えて横を通る。こちらを気にしていたが、ラウルと目が合うと口を閉じたまま井戸へ向かった。
外では昼前の客が出入りし、厩にも時折声が飛んできた。
ラウルは革帯の端まで油を擦り込んだ。
「ラウルさん」
「何だ」
「昨日、最後まで一緒だったわけじゃないって言いましたよね」
「ああ」
「父が死んだ戦いの時も、同じ場所にはいたんですか?」
「いた」
アニカは膝の上で指を組んだ。
「母も、1つだけずっと気にしてることがあるんです」
「何だ」
「父が最後に何か言っていたなら、知りたいって」
「私も知りたいです。父は、最後に何て言ったんですか?」
ラウルは答えなかった。
「ラウルさん?」
「知らん」
「……知らない?」
「聞いてない」
アニカが瞬きをする。
「でも、同じ隊だったんですよね」
「同じ隊でも、ずっと隣にいるわけじゃない」
「じゃあ、最後に父を見たのは?」
ラウルは革帯へ目を落とした。
「……戦場だ」
「その時は、まだ生きてたんですよね」
「ああ」
「そのあと、離れたんですか?」
「そうだ」
短く答えると、アニカは黙った。
「最後の言葉は、分からないんですね」
「ああ」
「分かりました」
アニカは鞄を抱え直した。
「急に聞いてすみません」
「別に」
「今日の話、帰ったら母にもします。字の話とか」
「1文字だけ本人も読めなかった話はやめろ」
「そこですか?」
「そこだ」
アニカは笑って立ち上がった。
「また明日来てもいいですか?」
「好きにしろ」
「じゃあ、来ます」
言い切って、アニカは宿の方へ歩いていった。
ラウルはその背中を追わず、壁に掛けていた次の馬具を取った。
まだ仕事は残っていた。




