第2話 父の友人
翌朝、老馬は昨日よりましな顔で飼葉を食べていた。
「食えるじゃねえか」
ラウルが桶の中を覗くと、老馬は気にする様子もなく口を動かしている。
「馬には話しかけるんだな」
背後から声がして振り返ると、宿屋の息子が箒を肩に担いで立っていた。
「悪いか」
「俺には『仕事しろ』しか言わねえのに」
「お前より言うこと聞くからな」
「ひでえ」
「掃除」
「はいはい」
「一回で返事しろ」
「はい」
少年がぶつぶつ言いながら厩の奥へ消えていく。
ラウルは老馬の背を軽く撫で、残っていた飼葉を寄せてやった。
朝の街道には、もう何台かの荷車が出ていた。昨日泊まった旅人たちが荷を括り直し、馬へ水を飲ませて門へ向かう一方、夜明け前から歩いてきたらしい旅人が宿を探している。
いつもの朝だった。
「ラウルさん」
女の声に振り返ると、昨日泊まりに来た女神官が薄い冊子を手に立っていた。
「昨日はありがとうございました。歌、ちゃんと聞けました」
「あの爺さん、来ただろ」
「来ました。同じところを3回歌いましたけど」
「言っただろ」
「本当に3回だとは思いませんでした」
女神官は笑いながら冊子を開いた。昨日書いたらしい文字が何行も並んでいる。
「それで、歌に出てきた橋なんですけど。『三つ柳を越え、白石の橋を渡り』ってところ」
「ああ」
「白石の橋って、今もあるんですか?」
「ない。10年以上前に流された。今の街道は少し北を通ってる」
「じゃあ、古い道の歌なんですね」
女神官は嬉しそうに何かを書き足した。
「ない橋を覚えてどうする」
「何もしませんよ」
「なら何で書く」
「もうないからです」
ラウルは眉を寄せた。
「分からん」
「いいんです。私が面白いので」
昨日の大男――ヴァルドが、宿の入口から出てきた。
「ミレナ、行くぞ」
「まだです。今日は町も見たいんです」
「昨日見ただろう」
「一晩で全部見られません。ヴァルドさんが何にも興味なさすぎるんですよ」
「面倒だな」
ミレナは冊子を閉じた。
「それじゃ、また何か聞くかもしれません」
「俺に分かることならな」
「ありがとうございます」
ミレナはヴァルドと連れ立って町の通りへ歩いていった。
ラウルも朝の仕事へ戻り、馬具を干して昨夜預かった荷車の車輪を確かめる。昨日直した衛兵の馬具は、朝一番で持っていかれた。
しばらくして厩の前を掃いていると、街道から1人の若い娘が歩いてきた。
20歳には届かないだろう。茶色の髪を後ろでまとめ、肩から旅鞄を下げている。派手な服ではなく、靴と裾には街道の埃がついていた。
娘は宿の看板を見上げ、それから厩へ目を向けた。
「すみません。ラウルさんですか?」
「ああ」
娘の肩から、わずかに力が抜けた。
「よかった」
「昨日、門で俺を探してたのはお前か」
「はい。もう遅かったので、昨日は別の宿に泊まりました」
ラウルはそれ以上聞かず、掃除を再開した。娘はしばらく立っていたが、やがて口を開いた。
「それで、少しお話を聞きたいんです」
「何の」
「昔のことです。ラウルさんが、騎士だった頃の」
箒の先が止まり、ラウルは娘を見た。
「急ぎか」
「いえ」
「なら待て。仕事中だ」
「あ……はい」
娘が素直に下がると、ラウルは厩へ戻った。
午前中に着いた馬のうち、汗をかきすぎていた1頭から鞍を外し、擦れたところを確かめて水を飲ませる。途中で外を見ると、娘はまだ宿の軒先に座っていた。
その間にも厩には人が出入りした。馬を休ませたい御者から手綱を預かったそばから、南へ向かう商人に道の状態を聞かれる。ラウルは緩んだ車輪の留め具を締めながら答えた。
娘は何度かこちらを見たが、声は掛けてこなかった。
「ラウル、こっち手ぇ貸して!」
宿屋の息子が飼葉の袋を運ぼうとして、1つ持ち上げたところで隣の袋を倒した。
「何やってんだ」
「見れば分かるだろ!」
「分からん」
「昨日俺に言ったじゃん!」
転がった袋の口から乾いた草がこぼれる。
ラウルが向かうより先に、待っていた娘が立ち上がった。
「これ、押さえればいいですか?」
「助かる」
娘が袋の口を持ち上げ、宿屋の息子がこぼれた飼葉を戻す。2人で袋を壁際へ寄せると、少年が娘を見た。
「ラウル待ってんの?」
「はい。父の知り合いだったみたいで」
「仕事しろ」
ラウルが言うと、少年は素直に袋へ戻った。
「はい」
娘が小さく笑った。
昼近くになって、町を見て回っていたミレナが戻ってきた。片手には焼き菓子の紙包みを持っている。
焼き菓子を1つ取り出して齧りながら厩の前を通りかけ、軒先の娘に気づいた。
「あれ。誰か待ってるんですか?」
「ラウルさんを。昔、父と同じ騎士団にいた人なんです」
「ラウルさんが? お父さんも騎士だったんですね」
「はい。父のことを聞きに来ました」
「長くなりそうなら、宿の中で待たせてもらえばいいですよ。外よりは楽ですから」
「ありがとうございます。でも、ここで大丈夫です」
ミレナは紙包みから焼き菓子をもう1つ取り出した。
「食べます? 朝買ったんですけど、思ったより多くて」
娘がためらうと、ミレナは菓子を差し出したまま言った。
「残すのも嫌なので」
「じゃあ……ありがとうございます」
娘が受け取ったところで、ヴァルドも戻ってきた。戸口の近くにいた娘とぶつかりそうになり、半歩横へずれる。
「あ、すみません」
娘が頭を下げても、ヴァルドは何も言わず宿へ入ろうとした。
「どこ行ってたんですか?」
「歩いていた」
「どこを?」
「そこだ」
「そこってどこです?」
ヴァルドは答えず宿へ入っていった。
「もう……」
ミレナは紙包みを閉じた。
昼を過ぎて仕事が一段落すると、ラウルは井戸から汲んだ水を飲みながら厩の外を見た。
娘はまだいた。
「おい。もういいぞ」
声を掛けると、娘はすぐに立ち上がった。
ラウルは木箱を1つ足で寄せる。
「座れ。名前は」
「アニカです」
「アニカか」
聞き覚えはない。ラウルも別の木箱へ腰を下ろした。
「それで、何を聞きたい」
「父のことです」
アニカは旅鞄から1通の古い手紙を取り出した。何度も開いたのか、端が擦れている。
「父は、グレンといいます」
ラウルの手が止まった。
「……グレン?」
アニカの表情が明るくなった。
「やっぱり、ご存じなんですね」
「ああ」
アニカは手紙を開き、その一部を指した。
「父が母に送った手紙です。家に残っていたものを最近整理していたら、ラウルさんの名前が何度も出てきて。同じ隊だったんですよね」
「……ああ」
「仲が良かったんですか?」
ラウルは間を置いた。
「まあな」
グレンとは同じ飯を食い、同じ天幕で寝た。くだらないことで言い合ったことなら、いくらでもある。
「よかった」
アニカは笑った。
ラウルは何も言わず、残っていた水を飲んだ。
「私、父のことをほとんど覚えてないんです。亡くなった時、まだ小さかったので」
アニカは手紙へ目を落とした。
「私が知ってるのは、母から聞いた話と、残ってる手紙くらいです。騎士だったことや、立派な人だったってことは分かってます。でも、それだけじゃ、どんな人だったのか分からなくて」
「普段は何を話してたのか、何が好きだったのか、怒ることもあったのか。そういうことを知りたいんです」
「母親には聞かなかったのか」
「聞きました。でも、母が知ってるのは家にいた時の父なので、騎士団ではどんな人だったのかまでは分からないって。それで、手紙に何度も名前が出てくるラウルさんなら、知ってるかもしれないと思って」
アニカがまっすぐこちらを見る。
「時間がある時でいいんです。父の話を聞かせてもらえませんか」
ラウルはすぐには答えなかった。
「……何日いる」
「2日か3日くらいはいるつもりです」
「なら、急ぐこともないだろ」
アニカは素直に頷いた。
ラウルは立ち上がる。
「仕事に戻る」
「ありがとうございました」
「まだ何も話してない」
「あ、そうですね」
アニカが照れたように笑う。
ラウルは背を向けた。
「ラウルさん」
アニカの声に足を止めたが、振り返らなかった。
「1つだけ、聞いてもいいですか?」
「何だ」
「父が死んだ時も、一緒だったんですか?」
ラウルは答えなかった。




