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第1話 馬屋の男

 馬は、怠けているわけではなかった。


「だから言っただろ。朝から全然歩きやしねえんだ」


 手綱を握った商人が、いら立ったように馬の首を叩いた。


 栗毛の馬は耳を伏せ、嫌そうに鼻を鳴らす。それでも前へ出ようとはせず、右の前脚を地面につけてはすぐ浮かせていた。


 ラウルはしゃがみ込み、その脚を取った。


「蹴られねえのか?」


「今は蹴らん」


「分かるのかよ」


「分からなきゃ、この仕事はしてない」


 蹄を持ち上げると、溝の奥に小さな石が食い込んでいた。ラウルは腰の道具袋から細い金具を抜き、石を外す。


 馬が脚を引こうとした。


「待て」


 低く言うと、馬は鼻を鳴らしたものの大人しくなった。


 蹄の縁も確かめる。幸い傷は浅い。腫れもない。


「歩かせろ」


「もういいのか?」


「いいから歩かせろ」


 商人が手綱を引く。


 栗毛は最初の2歩こそ慎重だったが、やがていつもの調子で厩の前を歩き始めた。


 商人が目を丸くする。


「おお。何だ、怠けてたんじゃないのか」


「痛かったんだ」


「だったら最初からそう言やいいのに」


 ラウルは立ち上がり、手についた土を払った。


「馬が言えるなら俺はいらん」


「愛想のねえ野郎だな」


「銅貨2枚」


「金は取るのかよ」


「仕事だからな」


 ぶつぶつ言いながらも、商人は腰の袋から銅貨を出した。


 受け取ったラウルは、それ以上相手をせず厩へ戻った。朝の仕事はまだ半分も終わっていない。


 町を東西に抜ける街道では、もう荷車の音が絶えなくなっていた。石を敷いた道を車輪が鳴らし、店先ではパン屋が焼き上がったばかりの黒パンを並べている。その向こうからは鍛冶場の槌音が一定の間隔で響いてきた。


 大きな町ではないが、2本の街道が交わる場所にあるせいで、住んでいる人間より通り過ぎる人間の方が多い日もある。街道沿いには宿屋や酒場が並び、その間に鍛冶屋や旅道具の店が挟まっていた。町の外から来た者はここで馬を休ませ、必要なものを整えて次の道へ出ていく。


 ラウルが働く厩も、街道沿いの宿に併設されていた。昨夜入った商隊の馬が4頭、宿泊客の乗馬が2頭、裏手には荷車が3台あり、そのうち1台は車軸から妙な音がすると主人が言っていた。


 飼葉も足りない。


「ラウル!」


 厩の奥から声が飛んできた。


 振り向くと、16歳になる宿屋の息子が馬具を抱えて立っている。


「これ、どっちだった?」


「見れば分かるだろ」


「分かんねえから聞いてるんだって」


 少年が持っている革帯を見て、ラウルは眉をひそめた。


「逆だ」


「昨日は何も言わなかったじゃん」


「昨日は逆じゃなかった」


「同じに見えるけどなあ」


「馬には違う」


 ラウルは革帯を取り上げ、留め具の向きを変えて返した。


「擦れる。長く歩けば皮が剥けるぞ」


「へえ」


「へえ、じゃない。次から覚えろ」


「はいはい」


「一回で返事しろ」


「はい」


 少年は笑いながら厩の奥へ消えていった。


 ラウルはため息をつき、今度は荷車の下へ潜った。昼前まで、馬や荷車を見て飼葉を運び、宿の主人に頼まれて、街道を行く商人へ次の宿場までの道を教えた。


 町の中央にある井戸の辺りでは、旅人と町の者が入り交じっていた。荷を背負った男が道を尋ね、露店の女が干した果物を売り、通りの端では御者同士が次の峠の状態について話している。


 何年も見てきた光景だった。ラウルもここで馬と荷車を相手に飯を食ってきた。


 昼を少し過ぎた頃、町の門を見張っている衛兵が1人、厩へやって来た。肩に古い馬具を掛けている。


「また切れた」


「見れば分かる」


「直るか?」


「革が残ってればな」


 ラウルは受け取り、裂けた部分を確かめた。


 かなり古く、そろそろ継ぎ当てでどうにかする段階ではなくなっていた。


「買い替えろ」


「予算が出ねえんだよ」


「俺に言うな」


「だから直してくれって言ってんだろ」


「夕方」


「助かる」


 衛兵はそう言って帰りかけ、ふと足を止めた。


「そういや、お前」


「何だ」


「剣はもう握らねえのか」


 ラウルは馬具から目を上げなかった。


「握る理由がない」


「そうか」


 衛兵もそれ以上は言わなかった。


 足音が街道の騒がしさへ混じってから、ラウルは裂けた革へ針を通した。


 午後になって、旅人が2人やって来た。


 1人は大柄な男だった。黒に近い髪に、使い込まれた旅装。腰に剣も下げていないのに、近くに立たれるだけで妙な圧迫感がある。


 もう1人は女神官らしい若い女で、蜂蜜色の髪を旅向けにまとめていた。2人とも馬を連れておらず、街道を歩いてきたらしく靴と外套の裾には薄く土がついていた。


 女神官は町へ入ってから、店先の焼き菓子や、どこからか聞こえる調子の外れた笛へ何度も目を向けていた。大柄な男はほとんど前しか見ていない。


 先に宿へ声を掛けたのは女の方だった。


「2人です。一晩お願いできますか?」


「ああ、空いてるよ!」


 宿の主人が中から顔を出す。


「飯付きでいいか?」


「お願いします」


「馬は?」


「いません。歩きです」


「そりゃご苦労さんだ」


 主人が2人を中へ案内しようとした。


 その時、大柄な男が厩の前で足を止めた。


 柵の向こうにいた鹿毛の馬が、耳を動かす。


 男はそちらへ目を向け、そのまま馬の後ろ側へ回ろうとした。


「そっちから近づくな」


 ラウルが言うと、男が止まった。


「何故だ」


「蹴られる」


「効かん」


 ラウルは男を見た。何を言っているのかと思ったが、顔はいたって真面目だった。


「知らん。馬を驚かせるな」


 少し間があった。


「そうか」


 男は素直に向きを変え、馬の前側へ回った。


 女神官がその背中を見て、小さく息を吐く。


「すみません。この人、そういうところがあるんです」


「どういうところだ」


「今みたいなところです」


「意味が分からん」


「俺にも分からん」


 ラウルが言うと、女神官が吹き出した。


「話が早いですね」


 大柄な男は何も言わなかった。


 宿の主人が笑いながら手招きする。


「部屋見るならこっちだぞ」


「あ、はい」


 女神官が歩き出しかけて、何かを思い出したように振り返った。


「そうだ。ちょっと聞いてもいいですか?」


「馬のことか」


「鳥です」


「鳥?」


「この辺に、胸のところだけ橙色の小さい鳥っています? 灰色っぽい羽で」


 ラウルは眉を上げた。


「ヒムネか」


「ヒムネ?」


「林の縁によくいる。珍しくもないぞ」


「そうなんですね」


 女神官が嬉しそうに隣の男を見る。


「ヴァルドさん、名前分かりましたよ。ヒムネですって」


「そうか」


「あと、この町に昔の旅人の歌が残ってるって聞いたんですけど。道とか橋の名前を覚えるための歌で」


「ああ」


 今度はすぐ分かった。


「夜になれば酒場に来る爺さんがいる。昔、御者をしてた。あいつなら知ってる」


「本当ですか?」


「同じ話を何度もするから、聞けばいくらでも歌う」


「それは助かります。ありがとうございます」


「礼なら歌った本人に言え」


「はい。そうします」


 2人は今度こそ宿へ入っていった。


「何なんだ、あいつ」


 思わず漏らすと、近くで馬具を片付けていた宿屋の息子が顔を出す。


「怖かったな」


「顔がか」


「全部」


「仕事戻れ」


「はいはい」


「一回で返事しろ」


「はい」


 夕方になると、町は朝とは違う騒がしさになった。今日のうちに先へ進む者は門へ急ぎ、泊まると決めた者は宿を探す。酒場の窓から灯りが漏れ始め、焼いた肉と玉葱の匂いに、厩の馬と藁と土の匂いが混じっていた。


 ラウルは街道から入ってくる荷車を1台ずつ見て、車輪を確かめ、馬へ水をやり、必要なものには飼葉を出した。日が傾く頃には厩の中も少し静かになった。


「もう上がっていいぞ」


 ラウルは宿屋の息子へ言った。


「まだ1頭残ってるけど」


「俺が見る」


「手伝うよ」


「明日も朝からだろ」


 少年は少し迷ったあと、肩をすくめた。


「じゃ、お先」


「ああ」


 残っていたのは、昼過ぎに着いた老馬だった。


 食いは悪いが、水は飲むし腹も張っていない。口の中にも大きな異常はなさそうだった。


 ラウルは飼葉を少し減らし、柔らかいものへ替えた。


「無理して食わなくていい」


 馬が鼻を鳴らす。


「明日まで食わなきゃ、飼い主に馬医者を呼ばせるぞ」


 通じるわけでもないのに言ってから、桶を置いた。


 外へ出ると、もう空は赤くなっていた。


 表通りの向こうでは、旅人が宿を探して歩き、別の男は荷車の脇に座り込んで靴を脱いでいた。朝になれば、今夜ここで休んだ旅人たちはまた街道へ出ていく。


「ラウル」


 宿の主人が裏口から顔を出していた。


「何だ」


「お前、明日いるよな?」


「仕事だからな」


「そうじゃなくて」


 主人が頭を掻く。


「お前を訪ねてる奴がいるらしい」


 ラウルの手が止まった。


「誰だ」


「知らん。若い娘だってよ」


「娘?」


「門番からの伝言だ。今日の夕方、若い娘がお前の居場所を聞いたらしい。着いたばかりで、今日はもう宿を取るってさ。明日の朝ここに来ると」


 心当たりはなかった。


 ラウルは桶の縁に残った水を捨てた。


「何て聞いてた」


 宿の主人が少し言いにくそうに口を曲げた。


「昔のことを知ってる奴みたいだぞ」


「……昔?」


「騎士団にいた頃のお前を知らないかって」


 桶から最後の一滴が落ち、石の上で小さく弾けた。ラウルはしばらくそれを見ていた。


「名前は」


「聞いてない」


「そうか」


「会うのか?」


 ラウルは桶を持ち直した。


「向こうが来るんだろ」


 それだけ言って、厩へ戻った。


 中では老馬が、ゆっくりと飼葉を噛んでいた。

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