第8話 新人衛兵と臭すぎる果物
雲一つない青空の下、南門へ続く街道には近郊の村から野菜や果物を運んできた荷車や行商人、長旅を終えた旅人たちが列を作っている。石畳を踏む馬の蹄音や御者の掛け声が絶えず響いていたが、赴任したばかりの頃には圧倒されていたその騒がしさも、今では日常の一部として耳に馴染み始めていた。
「はい、確認できました。どうぞ」
入都証を返すと、日に焼けた農夫が軽く頭を下げ、野菜を積んだ荷車を引いて門の内側へ進んでいった。リナは帳面へ確認済みの印を付けると、隣の検査位置でも順調に列が進んでいることを確かめ、次の入都者へ視線を向けた。
「だいぶ慣れてきたな」
横から聞こえた声に振り返ると、カイルが今日も門柱へ肩を預け、眠そうな目で街道を眺めていた。
「少しは、ですけど」
「最初の頃みたいに、入都証を三回も見直さなくなった」
「……見てたんですか?」
「暇だからな」
「仕事してください」
「してるぞ。後輩の成長を見守るのも仕事だ」
「絶対、今考えましたよね?」
リナが睨んでも、カイルは涼しい顔で肩をすくめるだけだった。
それでも、この十日間で少しずつ仕事に慣れてきたことは確かである。入都証の確認や荷物の検査にも以前ほど時間がかからなくなり、何より門前の人々を落ち着いて観察できるようになってきた。
「思っていたより、普通の仕事なんですね」
「普通?」
「もっと毎日、怪しい人を捕まえたり、危険な物を見つけたりするものだと思ってました。でも、農家の人や商人の確認をしている時間の方がずっと長いですし」
「平和でいいだろ」
「はい。それは本当に」
王都を守る衛兵に憧れてこの仕事を選んだとはいえ、事件が起きてほしいわけではない。人々が安心して門を通り、いつも通りの暮らしを送れることこそ、衛兵の仕事の成果なのだろう。
「この調子なら、今日は平和に終わりそうですね」
何気なくそう口にすると、カイルがこちらを見た。
「そういうこと言うなよ」
「どうしてです?」
「昔から、それを言った直後に面倒事が来る」
「迷信じゃないですか」
「衛兵を長くやるとな、迷信も馬鹿にできなくなるんだ」
真面目な顔で返され、リナは呆れたように笑った。
そのときだった。
南から吹いてきた風に乗って、鼻先を何かが掠めた。
「……ん?」
リナは無意識に鼻を動かした。
朝の南門には干し草や土、馬や牛の体臭、積み荷の野菜や香辛料など、さまざまな匂いが漂っている。しかし今感じたものは、そのどれとも違っていた。
妙に甘く、重苦しい。
それでいて、何かが腐ったような刺激が鼻の奥へまとわりついてくる。
もう一度、慎重に息を吸った。
「うっ……!」
今度ははっきり分かった。
「カイルさん、何か臭いません?」
「気のせいじゃないか」
「絶対臭いますよ!」
周囲を見回すと、旅人が鼻を押さえ、自分の積み荷を疑って荷台を覗き込む商人まで現れ始めていた。
「何でしょう、これ。何か腐ってるんでしょうか。カイルさん、こういう場合って――」
相談しようと隣を向いたリナは、そこで言葉を失った。
いつの間に用意したのか、カイルが鼻から口までを布で覆っていたのである。
「…………」
しかも、やけに手慣れている。
「カイルさん。それ、いつ着けたんですか?」
「さっき」
「さっきって、いつです?」
「お前が二回目に臭いを嗅いだあたりだな」
「私が原因を探してる間に何してるんですか!」
「対策」
「だったら私にも教えてくださいよ!」
カイルは悪びれる様子もなく、布の端を押さえて隙間を塞いだ。
「新人は経験が大事だからな」
「この臭いを直接嗅ぐことの何が経験なんですか!」
「次から布を用意するようになる」
「そういう経験!?」
リナが抗議した直後、さらに強烈な臭気が風に乗って押し寄せてきた。
咄嗟に鼻を押さえるリナの横で、カイルが街道の先を眺める。
「来たな」
「何がです?」
視線を追うと、一台の荷車が南門へ近づいてきていた。
荷車を引くのは、麦藁帽子を被った四十代ほどの男である。日に焼けた顔に逞しい腕と、見たところはどこにでもいる果樹農家だった。
問題は荷台に積まれた六つの木箱だった。
荷車が近づくほど、臭いが強くなる。
「……あれですよね?」
「たぶんな」
荷車が検査位置へ到着する頃には、臭気は喉の奥へまとわりつくほど濃くなっていた。リナは衛兵としての体面を守ろうと必死に表情を整え、できる限り浅く呼吸しながら男へ向き直った。
「お、おはようございます。入都証をお願いします」
「おう、おはよう!」
男は満面の笑みだった。
ハンスと名乗ったその男は、王都から南へ二日ほどの土地で果樹園を営んでいるという。入都証にも販売許可証にも問題はなく、書類上はごく普通の商人だった。
「では、積み荷を確認します。何を運んでいるんですか?」
「果物だよ」
「……果物?」
「ああ。ドゥリアだ」
聞き覚えのない名前にリナが首を傾げると、ハンスの顔が嬉しそうに輝いた。
「知らないのか? そりゃもったいない!」
「いえ、名前は初めて聞きましたけど――」
「なら見せてやろう!」
ハンスが勢いよく荷台へ向かう。
「おい、待て」
カイルが声をかけたが、遅かった。
木箱の蓋が開いた。
閉じ込められていた臭気が、一気に解放される。
「――っ!?」
リナは反射的に二歩下がった。
目の奥まで刺激され、涙が滲む。布で防御していたカイルまで一歩下がり、その上からさらに鼻を押さえた。
「布してても駄目なんですか!?」
「気休めだ」
周囲からも悲鳴が上がっていた。旅人たちは鼻を押さえて逃げ出し、荷馬車の馬まで嫌がって首を振っている。もう一班の衛兵たちも顔をしかめ、風上へ移動しながら検査を続けていた。
しかし、そんな騒ぎなど気にも留めず、ハンスは箱の中から人の頭ほどもある黄緑色の果実を取り出した。
硬そうな皮には鋭い棘がびっしりと並び、臭いさえなければ珍しい南方果実として納得できそうな外見だった。
「ほら、いい実だろ?」
「……それ、本当に食べ物ですか?」
「もちろん」
「腐ってません?」
「何言ってんだ。最高に熟れてるぞ」
「これで!?」
ハンスは不思議そうに眉を上げると、ドゥリアを鼻先へ近づけて大きく息を吸った。
「うーん、いい香りだ!」
「嘘でしょう!?」
リナが周囲を見回すと、いつの間にか荷車を中心として綺麗な円形の空間が出来上がっていた。
誰も近づこうとしない。
「これ……王都へ持ち込んでいいんですか?」
「禁止品じゃないぞ」
カイルが答える。
「本当に?」
「一応」
「今、一応って言いましたよね!?」
しかし、規則上は問題ないらしい。
リナは鼻を押さえながら、別の疑問を口にした。
「こんなに臭うのに、本当に売れるんですか?」
その言葉を聞いた瞬間、ハンスの表情が変わった。
「何言ってるんだ、衛兵さん。こいつはな、一部の連中にとっちゃ垂涎ものだぞ!」
「これが?」
「最初は誰だって臭いと言うさ。でも一度好きになったら終わりだ。濃厚な甘み、とろける舌触り、独特の風味が頭から離れなくなる。収穫時期が近づくと、毎日のように果樹園へ催促に来る奴までいるんだ!」
「それ、大丈夫な食べ物なんですか?」
「毒も薬も入ってない。ただ美味すぎるだけだ!」
「言い方が余計に怪しいです!」
ハンスは笑いながら果実を撫でた。
「去年は最後の一個を巡って、銀貨十八枚まで競り上がったぞ」
「銀貨十八枚!?」
思わず果実を見直してしまった。
これ一つで銀貨十八枚。
先ほどまでは腐った何かにしか見えなかったものが、ほんの少しだけ高級品に思えてきた。
「好きな奴には、それだけの価値があるってことさ。嫌いな奴は十歩先から逃げるけどな」
ハンスが周囲を見る。
誰もいない。
「まあ、こんな感じだ」
「極端すぎません?」
するとカイルが布越しにぼそりと言った。
「ちなみに班長は好きだぞ」
「……え?」
「かなりな」
リナは固まった。
「あのオスカー班長が?」
「毎年買ってる。去年は三つだったな」
「三つも!?」
「詰所で食おうとして、全員に止められた」
「何してるんですか、班長!」
想像できない。
いつも厳しい顔をしているオスカーが、この棘だらけの果実を嬉しそうに食べている姿など、まるで似合わなかった。
「そうだ、衛兵さん」
ハンスが嬉しそうに笑う。
「せっかくだから味見してみるか?」
「え?」
「一口食えば分かるぞ!」
ハンスが荷車の横に吊るしていた包丁へ手を伸ばす。
カイルが動いた。
今日一番の速さだった。
「待て。ここで開けるな」
「なんでだ?」
「門が死ぬ」
「門は石ですよ?」
「もちろん比喩だ」
「分かってます!」
思わず突っ込んだリナへ、ハンスが果実を差し出してくる。
「でも、ちょっと気になってるんだろ?」
「気になってません!」
「さっきから実を見てるぞ」
「見てません!」
「見てたな」
「カイルさんまで!」
結局、その場で実を割ることだけは阻止し、残りの木箱を検査して数量と申告内容が一致していることを確認すると、リナはようやく通行許可の印を押した。
「……問題ありません。入都を許可します」
「ありがとう!」
ハンスは木箱を閉じ、荷車を引き始めた。
その瞬間、南から強い風が吹いた。
荷車の周囲に漂っていた臭気が、一気に王都側へ流れ込む。
「臭っ!」
「何だ、この臭い!」
「南門から来てるぞ!」
露店商や通行人が一斉に鼻を押さえ、人混みが左右へ割れていく。
「カイルさん! 王都に臭いが入ってます!」
「そうだな」
「どうするんですか!?」
「風が変わるのを待つ」
「それだけ!?」
「ほかにどうしろと?」
確かに風を逮捕することはできない。
リナが困り果てている間にも、ハンスは何事もなかったように王都へ進んでいく。人々は鼻を押さえながら道を譲り、その周囲だけ妙に広い通路が出来上がっていた。
「……王族の馬車より道を譲られてますね」
「理由は最悪だがな」
ところが、逃げる人々とは反対に、王都側から一人の男が鼻をひくつかせながら走ってきた。
「……ドゥリア?」
男の目が輝く。
「ドゥリアだ! 今年の初荷か!?」
その声を聞いた別の通行人まで振り返った。
「何!? もう入ったのか!?」
「ハンス! 俺に二つ取っといてくれ!」
「去年買えなかったんだ! 今年こそ頼むぞ!」
男たちは鼻を押さえながら、全力で荷車を追いかけていく。
リナは呆然とした。
「……本当にいる」
「何が?」
「夢中になる人たちです。あんなに臭がってるのに!」
「身体は拒絶してても、舌が求めてるんだろ」
「怖いですよ!」
やがて荷車が遠ざかり、ようやく南門に普通の空気が戻り始めた頃、門の内側からオスカーが歩いてきた。
「…….この臭いは」
「ドゥリアです」
カイルが答える。
オスカーの足が止まった。
「……何箱だ?」
「六箱」
「六箱か……」
低い声で繰り返す。
「どこの市場へ行った?」
「中央市場ですが……」
リナが答えると、オスカーは一度だけ頷き、何事もなかったように踵を返した。
ただし、来たときより歩くのが少し速い。
「……買いに行きますよね?」
リナが小声で尋ねる。
「たぶんな」
「勤務中ですよね?」
「班長だからな」
「班長なら余計に駄目でしょう!」
少し先でオスカーが立ち止まった。
「休憩時間に行く」
振り返らず、それだけ言って歩き出す。
「聞こえてたんですか!?」
「班長だからな」
「それ関係あります!?」
カイルは答えなかった。
それからしばらくして、ようやく臭いが薄れた南門に一人の衛兵が戻ってきた。
オスカーだった。
片手には、布で何重にも包まれた丸いものを三つ抱えている。
「……班長?」
「何だ」
「それ、ドゥリアですよね?」
「そうだ」
「三つも?」
「あたりだろ」
あまりにも当然のように答えるオスカーを見て、リナは言葉を失った。
カイルが横から布の包みを眺める。
「詰所では開けないでくださいよ」
「分かっている」
オスカーは厳しい顔のまま頷いた。
「自宅で食う」
「それなら安心です……」
リナが胸を撫で下ろすと、オスカーは少しだけ考え込んでから口を開いた。
「……一つ、味見してみるか?」
「結構です!!」
南門にリナの声が響いた。
オスカーは少し残念そうな顔をしたものの、それ以上勧めることなく詰所へ歩いていった。
その背中を見送りながら、リナは小さく息を吐く。
「……そんなに美味しいんでしょうか」
「気になるのか?」
「いえ、別に。ただ、そこまで人を夢中にさせる味って、どんなものなのかなって……」
カイルが口元を緩めた。
「そこが入口だぞ」
「何のですか?」
「ドゥリア沼」
「入りません!!」
即座に否定したリナだったが、頭の片隅では銀貨十八枚という値段と、あれほど臭がりながら荷車を追いかけていた人々の姿が、なぜか離れなくなっていた。
あんなに臭いのに、どうしてそこまで夢中になるのだろう。
少しだけ。
本当に少しだけ、気になる。
しかしリナは、その小さな好奇心を振り払うように帳面を開いた。
「次の方、どうぞ!」
朝の南門には、まだ長い列が続いている。
今日も王都は平和だった。
少なくとも、鼻以外は。
【リナの日記】
今日は南門に、とんでもなく臭い果物が来た。
名前はドゥリア。
果物。
果物らしい。
本当に?
見た目は棘だらけだし、臭いはどう考えても「食べるな」って全力で訴えてるでしょう!?
あれを最初に食べようと思った人、何を考えてたの!?
しかも、その果物を大好きな人がたくさんいるらしい。
銀貨十八枚で買った人までいるんだって。
信じられない!!
それからカイルさん!!
私が真面目に臭いの原因を探してる横で、いつの間に布を巻いてるんですか!
言ってくださいよ!!
一言!!
何が「経験は大事だ」ですか!
鼻で経験を積ませないでください!!
ハンスさんもおかしい。
あれを抱きかかえて「いい香りだ」って、本当に私と同じ鼻がついてるんですか?
でも、一番怖かったのは愛好家の人たち。
臭いから鼻を押さえてるのに追いかけてた。
身体は逃げたがってるのに、舌が求めてるって 何!?
そんなことある!?
そしてオスカー班長!!
三個も買うほど好きなんですね!
詰所で食べようとしないでください!
私たちの職場です!
逃げ場がありません!!
味見は勧められた。
いりません!!
……でも。
ちょっとだけ。
本当にちょっとだけ。
どんな味なのか気になる。
あそこまで臭いのに、どうしてあんなに夢中になるんだろう。
いや。
食べない。
絶対に食べない。
カイルさんは「そこが入口だ」って言ってたけど、入りません。
ドゥリア沼なんて。
絶対に。
……たぶん。
【今日の教訓】
食べ物は、見た目や臭いだけで判断してはいけない。
人によって好き嫌いが違うのは当たり前だし、自分が苦手なものでも、誰かにとっては大切な好物なのかもしれない。
だから、好みの違いは尊重すること。
でも――
好きだからといって、周りの人まで巻き込んではいけない。




