第7話 新人衛兵とヤギ獣人
王都南門を抜ける風には、街道から舞い上がった乾いた土と、荷馬車を引く馬の匂いがわずかに混じっていた。
頭上からは明るい陽射しが降り注いでいるものの、城壁が作る大きな影のおかげで門番たちの立つ場所は幾分涼しく、リナは頬を撫でていく風を感じながら、記録台の前で旅人から受け取った通行証へ目を通していた。
「はい、問題ありません。どうぞ」
確認を終えたリナが通行証を返すと、旅人は軽く頭を下げて門の奥へ歩いていった。次の者を呼ぼうと顔を上げたところで、一人の獣人が目に入った。
人間の成人男性より一回り大きな身体を濃い茶色の体毛が覆い、頭からは後方へ緩やかに湾曲する二本の角が伸びている。顔立ちも明らかにヤギに近いが、濃紺の上着と灰色のズボンを隙なく着こなし、背中には手入れの行き届いた革鞄を背負っていた。
「次の方、どうぞ」
声をかけると、ヤギ獣人は落ち着いた足取りで検査位置まで進み、リナの前できちんと立ち止まってから丁寧に頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
「はい。まず、お名前をお願いします」
「ミハイル・ゴートンと申します。中央商業組合へ帳簿を提出し、その後は取引先との契約更新を行う予定です」
名前だけでなく入都目的まで簡潔に答えたミハイルは、滞在期間を尋ねられると、三日間と答えて宿泊予約証まで取り出した。受け取った書類には必要事項が漏れなく記載されており、身分証とも一致している。
「……ありがとうございます」
思わずリナの声が柔らかくなった。
名前を聞けば名前を答え、目的を聞けば目的を答える。説明の途中で妙な自慢話が始まることもなければ、聞いてもいないことを延々と語り始める気配もない。
仕事がしやすい。
ただそれだけのことが、最近のリナには妙に嬉しかった。
「嬉しそうだな」
門柱の近くにいたカイルから声をかけられ、リナは予約証から顔を上げた。
「普通って素晴らしいですね」
「本人に聞こえてるぞ」
「えっ」
慌ててミハイルを見ると、彼は不快そうな顔をするどころか、穏やかな笑みを浮かべていた。
「お褒めいただき光栄です。書類の不備で皆様のお手を煩わせないよう、確認してまいりましたので」
「助かります。本当に!」
リナは心から礼を言い、荷物の確認へ移ろうとした。
そのとき、門の外を進んでいた荷馬車の車輪が石畳の窪みへ落ち、荷台が大きく跳ね上がった。
ガタンッ!!
積まれていた木箱同士がぶつかり合い、乾いた音が城壁へ反響する。驚いたリナがそちらを見たものの、御者はすぐに馬を落ち着かせ、荷物も崩れていなかった。
大したことはなさそうだ。
そう判断して正面へ向き直ったリナは、そこで妙な違和感を覚えた。
「……ミハイルさん?」
先ほどまで自然に立っていたミハイルが、背筋を伸ばしたまま微動だにしなくなっていた。肩には不自然なほど力が入り、両腕は身体の横で固まり、脚まで一本の棒になったように伸び切っている。
横長の瞳は開いているのに、呼びかけても返事がない。
「ミハイルさん、大丈夫ですか?」
リナが記録台から身を乗り出した直後、直立していた大柄な身体がゆっくりと後方へ傾き始めた。膝を曲げて踏ん張る様子も、腕を伸ばして身体を支えようとする動きもない。
「危ない!」
リナが駆け寄ろうとしたときには、すでにカイルが動いていた。普段の気怠そうな姿からは想像できない速さで横へ踏み込み、倒れるミハイルの上着を背中から掴んで勢いを殺す。
「リナ、頭を支えろ!」
「はい!」
二人で大柄な身体を石畳へ横たえ、リナはすぐに膝をついた。突然の発作ではないかと胸の奥が冷たくなりかけた、そのときだった。
「……申し訳ありません」
「ひゃっ!?」
あまりにも普通の声が返ってきたため、リナは驚いて顔を離した。
「だ、大丈夫なんですか!? 全然動いてませんけど!」
「はい。しばらくすれば戻りますので、ご心配なく」
ミハイルは石畳に横たわったまま、普段と変わらない穏やかな口調で説明を始めた。
「私どもの一族には、突然驚いた際、全身の筋肉が強く硬直してしまう者がおりまして。私もその体質なのです」
「じゃあ、気絶しているわけではないんですね?」
「意識はあります。周囲の声も聞こえておりますので」
「それならよかったですけど……」
心配するべきなのか安心するべきなのか、リナには判断が難しかった。
やがて指先がわずかに動き、続いて肩や脚からも力が抜け始める。身体の自由が戻ったミハイルはゆっくり立ち上がると、上着についた砂埃を丁寧に払い、襟まで整えてから一礼した。
「お騒がせいたしました。では、検査の続きをお願いいたします」
「普通に続けるんですか!?」
「はい。仕事の書類を提出しなければなりませんので」
あまりにも平然とした返事だった。
リナはカイルと顔を見合わせたが、本人が問題ないと言う以上、様子を見ながら検査を続けることにした。
革鞄の中身は、持ち主の服装と同じくらい几帳面だった。着替えは種類ごとに畳まれ、帳簿や契約書は革製の書類入れにまとめられている。
堅パンや乾燥野菜、木の実も小袋ごとに分けられ、どこを探しても怪しいものは見当たらない。
「すごく綺麗に整理されていますね」
「商会で会計を担当しておりますので、物の所在が分からなくなる状態が苦手なのです」
「なるほど。なんだか納得です」
感心しながら書類入れを元の位置へ戻したとき、少し離れた列から大きなくしゃみが響いた。
「へっくしょん!!」
びくっ、とミハイルの肩が跳ねた。
「あっ!」
今度は何が起きたのかすぐに分かった。身体が横へ傾き始めた瞬間、リナは革鞄を避けながら素早く踏み込み、その肩と背中へ腕を回して体重を受け止める。
大柄な身体は見た目どおり重かったが、倒れる方向が分かっていれば何とか支えられた。
「大丈夫です。支えていますから」
「……ありがとうございます」
「本当に普通に喋れるんですね……」
「意識はありますので」
本人があまりにも冷静なので、心配していたリナの口元にも思わず苦笑が浮かんだ。しばらくすると硬直が解け、ミハイルは自分の脚で立てるようになる。
「慣れたな」
横からカイルに言われ、リナは少し得意げに胸を張った。
「倒れるって分かっていれば支えられますよ。石畳に頭をぶつけるよりいいでしょう?」
「まあな。無理はするなよ」
「分かってます!」
これならもう大丈夫だろう。
少なくとも、そのときのリナはそう思っていた。
荷物の確認が半分ほど進んだところで、門の外から別の荷馬車が近づいてきた。積荷を固定していた縄が緩んでいたらしく、荷台の端に寄っていた木箱が大きく傾き、そのまま街道へ滑り落ちる。
ガシャーン!!
木箱が割れ、中に入っていた陶器が石畳へ散らばった。
その音に、ミハイルの身体が跳ねる。
「あっ、また!」
全身が硬直し、伸び切った身体が傾き始めた瞬間、リナは先ほどと同じように両腕を伸ばした。
ところが、今回は倒れる方向が違った。
真正面。
つまり、リナの方だった。
「ちょ、ちょっと待って――!」
胸元へ倒れ込んできた大柄な身体を両腕で受け止めた瞬間、その重さで膝が深く沈んだ。頭から石畳へ落とすわけにはいかず、必死に踏ん張る。
しかし、硬直したミハイルは自分で姿勢を立て直すことができない。
そのまま頭が前へ落ちてきた。
ぽすっ。
ミハイルの頭が、リナの胸元へ収まった。
「…………」
門前の喧騒が、そこだけ急に遠ざかったような気がした。
リナの身体が固まる。
ミハイルも固まっている。
近くの商人は気まずそうに視線を逸らし、荷車を引いていた農夫は口を半開きにしたまま動きを止めた。
ミハイルの横長の瞳だけが、ほんのわずかに動く。
リナの頬が熱くなった。
それが耳まで一気に広がり、次の瞬間には身体が勝手に動いていた。
長年の棒術の稽古で染み込んだ動きだった。倒れ込む身体を抱えたまま右足を引き、腰を落とすと、傍らの長棒を片手で引き寄せる。棒を相手の身体へ添え、倒れる勢いを横へ流しながら腰を鋭く捻った。
ぐるんっ!
大柄なヤギ獣人の身体が宙を舞った。
半円を描くように回転したミハイルの身体は、街道脇に積まれていた大きな干し草の山へ吸い込まれていく。
ぼすん!!
大量の枯れ草が舞い上がり、山の端から二本の脚だけが突き出した。
「…………」
リナは長棒を振り抜いた姿勢のまま固まった。
自分が何をしたのか理解した途端、頬から耳まで真っ赤になり、干し草から伸びている脚を呆然と見つめる。
隣ではカイルも同じ方向を眺めていたが、やがて感心したように口を開いた。
「……飛んだな」
リナは答えなかった。
ただ、長棒を握る手に力が入ったのを見て、カイルが黙って一歩下がる。
「俺は何も言ってないぞ」
干し草の中でもぞりと何かが動き、突き出していた脚がわずかに揺れた。
「……見事な棒術でした」
「ミハイルさんも喋らないでください!!」
「申し訳ありません」
「謝らないでください! 余計に恥ずかしくなるから!」
やがて硬直が解けたらしく、ミハイルは大量の干し草を押し分けて上体を起こした。角にも頭にも枯れ草が絡みつき、きっちり整えられていた上着まで草まみれになっている。
リナは慌てて駆け寄った。
「す、すみません! 怪我はありませんか!?」
「ありません。干し草が衝撃を受け止めてくれたようです」
「本当ですか? どこも痛くないですか?」
「はい。それに、空中で綺麗に一回転させていただきましたので」
「詳しく説明しなくていいです!!」
背後から小さく息の漏れる音が聞こえた。
リナが振り返ると、カイルが顔を逸らしていた。
「……カイルさん」
「なんだ」
「笑いました?」
「笑ってない」
「こっち見て言ってください!」
「検査がまだ終わってないぞ」
「逃げましたね!?」
恥ずかしさをどうにか抑え、リナは検査を再開した。それからは荷馬車が近づくだけでもミハイルを気にするようになったが、幸い再び硬直することはなく、残りの荷物も申告内容と一致していた。
帳簿、契約書、着替え、食料、日用品。税に関する書類まできちんと揃っていることを確認すると、リナは最後の項目へ印を付けた。
「……問題ありません。入都を許可します」
「ありがとうございます」
ミハイルは丁寧に頭を下げた。
角にまだ一本だけ干し草が引っかかっているのに気づいたリナは、少し迷ってから手を伸ばして取り除いた。
「ついてましたよ」
「これは失礼しました」
「それから……本当にすみません。飛ばしてしまって」
「お気になさらず。石畳へ倒れるより、干し草へ着地できた方が安全でした」
自分が飛ばされたにもかかわらず、ミハイルは本当に気にしていないらしい。
その穏やかな態度に、リナもようやく肩から力を抜いた。
「胸元の件につきましても――」
「そこはもう言わなくていいです!!」
思わず大きくなったリナの声に、ミハイルの肩が跳ねた。
「あ」
全身が硬直する。
しかも、また前へ傾き始めた。
リナの手が反射的に長棒へ伸びる。
しかし、今度は途中で止めた。
「もう飛ばしませんから!」
素早く両脚を開いて腰を落とし、倒れ込んできたミハイルの肩と背中を支える。真正面からの重さに膝が沈んだものの、今度こそ頭が妙な位置へ落ちないよう、慎重に身体を横へずらした。
「おっっっも……!」
「……申し訳ありません」
「今は喋らなくていいので、ちょっと力を入れてください!」
「……動けません」
「そうでした!!」
横で見ていたカイルが、重さに耐えて震えるリナの腕へ目を向けた。
「飛ばした方が楽だったな」
「言わないでくださいぃぃ……!」
結局カイルにも手伝ってもらい、二人でミハイルを安全な場所へ座らせた。
しばらくして硬直が解けると、ミハイルはいつものように乱れた上着を整え、深々と一礼した。
「何度も助けていただき、ありがとうございました」
「一回は飛ばしてますけどね……」
「結果的には助かっております」
「……いい人すぎません?」
思わず漏れた言葉に、ミハイルは穏やかに目を細めた。
革鞄を背負い直し、今度こそ王都へ歩き始めたミハイルの背中を、リナは心配そうに見送った。
やがて濃紺の上着と二本の角が人混みの向こうへ消えると、ようやく大きく息を吐いた。
「いい客だったな」
隣でカイルが何気なく言った。
「三回も倒れてましたけど!?」
「四回だろ」
「……そうでした」
「書類は完璧だったし、礼儀正しかった」
「評価基準そこなんですか!?」
「門番だからな」
もっともな答えを返され、リナは開きかけた口を閉じた。
確かに、書類は完璧だった。
ただし、普通の入都検査で人が空を飛ぶ必要はないはずである。
【リナの日記】
今日はヤギ獣人のミハイルさんが来た。
すごく礼儀正しい人だった。
書類も完璧。荷物も綺麗。申告にも不備がなかった。
最初は本当に仕事がしやすかった。
でも倒れる!!
突然、大きな音がすると全身が固まってしまう体質らしい。
最初は気絶したのかと思ったけど、意識はあるし、普通に喋れる。
そこがまた不思議だった。
二回目は私もちゃんと受け止められた。
ちょっと成長した気がした。
でも三回目!!
私の方へ倒れてきた!!
受け止めた!!
そこまではいい!!
頭が。
胸に。
…………。
そのあとのことは、あんまり思い出したくない。
気づいたらミハイルさんが飛んでた。
干し草に刺さってた。
違う!!
飛ばそうとしたわけじゃない!!
身体が勝手に動いたの!!
棒術の癖なの!!
カイルさんには、
「飛んだな」
って言われた。
見れば分かります!!
ミハイルさん本人にも、
「見事な棒術でした」
って褒められた。
全然嬉しくない!!
でも、怪我がなくて本当によかった。
最後はちゃんと飛ばさずに受け止めた。
すごく重かった。
本当にすごく重かった。
カイルさんには、
「飛ばした方が楽だったな」
って言われた。
そういう問題じゃありません!!
それにしても、ミハイルさんは最後まで礼儀正しかった。
あれだけ大変なことがあっても怒らないし、書類も荷物も完璧だった。
いい人だったな。
できれば次は、あまり大きな音がしない日に来てほしい。
【今日の教訓】
人は見た目だけで判断してはいけない。
どんなに落ち着いていて礼儀正しい人でも、思わぬ事情を抱えていることがある。
それから、困っている人を助けるときは冷静に行動すること。
特に棒術は、必要な場面で正しく使うこと。
絶対に、反射だけで人を飛ばしてはいけない。
……でも、カイルさん。
あのとき笑ってましたよね?
明日の棒術訓練、付き合ってもらおうかな。
もちろん、飛ばしたりしません。
絶対に。
……たぶん。




