第24話 新人衛兵と先輩の休日
衛兵宿舎の朝は、休日であっても賑やかだった。廊下を行き交う足音に、共同の洗面所から聞こえる水音、早番へ向かう衛兵たちの話し声が、薄い扉越しに伝わってくる。リナ・フェルドはいつもの時刻に目を覚まし、寝台から勢いよく起き上がった。
「……遅刻してないよね!?」
窓から差し込む朝日を見て一瞬慌てたものの、壁に掛けた勤務表を確認してようやく思い出す。今日は非番だ。身支度を急ぐ必要も、南門へ走る必要もない。そう分かっているのに、身体は勝手に制服の置いてある棚へ向かっていた。
「休みなのに、何やってるんだろう……」
苦笑しながら制服を戻し、淡い色の上着と動きやすいスカートに着替える。長棒も衛兵の徽章も今日は部屋に置いていくつもりだったが、何も持たずに出かけることには少し落ち着かなさを覚えた。結局、小さな財布と布袋を手に取ると、髪を整えて宿舎を出た。
王都の通りは、勤務中に眺める景色とはずいぶん違って見えた。南門で立っているときは人の流れを整え、身分証や荷物に注意を向けるばかりだが、今日は焼きたてのパンの匂いを追いかけても、露店の飾りを眺めて足を止めても誰にも叱られない。石畳を行く荷車の車輪が音を立て、商人たちの呼び声が青空に響いている。
「お嬢ちゃん、何か探してるのかい?」
布地を並べた店の主人に声をかけられ、リナは我に返った。気づけば店先の品物ではなく、店主の腰袋と荷箱の置き方ばかりを見ていたらしい。
「い、いえ! 今日は買い物に来ただけです」
「そうかい。さっきから通りをきょろきょろ見てるから、誰か探してるのかと思ったよ」
礼を言って店を離れたリナは、少しだけ頬を赤くした。せっかくの休日なのに、無意識のうちに通行人の動きを追ってしまう。深呼吸して気持ちを切り替えると、今度は気になっていた焼き菓子の屋台へ向かった。
蜂蜜を使った小さな焼き菓子を二つ買い、一つをその場で頬張る。外側は香ばしく、中はまだ温かい。甘さが口いっぱいに広がり、リナは思わず顔をほころばせた。
「……おいしい」
誰に聞かせるでもない感想を漏らし、残りを布袋にしまったところで、通りの向こうに見覚えのある横顔を見つけた。少し無造作な髪に、眠たそうな目つき。人混みの中でも、あの気の抜けた立ち姿は見間違えようがない。
「……カイルさん?」
王都南門で一緒に働く先輩、カイル・ローデンだった。ただし今日は衛兵服ではなく、襟元の緩い私服を着ている。しかも片手には買い物籠、もう片方には紙包みを持ち、隣を歩く女性の話に相槌を打っていた。
リナは少し迷った。休日の先輩に声をかけていいものか。それでも、普段とは違う姿への好奇心が勝ち、女性が露店の前で立ち止まったところで近づいた。
「カイルさん、こんにちは!」
「ん? おお、リナか。お前も休みだったな」
「はい。買い物に来たんです。カイルさんも……買い物ですか?」
「見りゃ分かるだろ。これ全部、俺が好きで持ってるように見えるか?」
カイルが籠を軽く持ち上げると、隣の女性がくすりと笑った。落ち着いた色の服を着た、柔らかな目元の女性で、カイルと並んでいても気負った様子がない。
「あら、あなたの職場の方?」
「ああ。南門で一緒のリナだ。まだ若いが、真面目にやってる」
さらりと言われた言葉に、リナは思わず目を瞬かせた。カイルが人前で自分を褒めるとは思っていなかったのだ。
「初めまして。エレナ・ローデンです。いつも主人がお世話になっています」
「えっ、ローデン……ということは、奥様ですか!?」
「ええ、そうですよ」
エレナが微笑むと、リナは勢いよく頭を下げた。
「こちらこそ、いつもカイルさんに助けていただいています! リナ・フェルドです!」
「まあ、礼儀正しいのね。主人から聞いていたとおりだわ」
「……私のこと、話してるんですか?」
「ときどきね。真面目すぎて放っておけない新人がいるって」
「おい、エレナ。そこまで言わなくていいだろ」
カイルは面倒くさそうに頭をかいたが、耳の辺りがわずかに赤い。リナはその珍しい反応を見逃さなかったものの、からかい返す勇気はなく、代わりに小さく笑った。
三人はそのまま市場を歩くことになった。エレナは夕食用の野菜や子供たちのおやつを選び、カイルは品物を受け取って籠に収めていく。値段を確かめる妻の横で、重そうな袋をさりげなく持ち替える姿は、南門で椅子を探してばかりいる先輩とは別人のようだった。
「カイルさんって、ちゃんと買い物のお手伝いをするんですね」
「何だよ、その言い方。俺だって家のことくらいやるぞ」
「そうなの? 休みの日は寝台からなかなか起きないのに」
エレナが涼しい顔で付け加えると、リナは思わず吹き出した。
「やっぱり家でも眠そうなんですね!」
「お前ら、初対面なのに息が合いすぎじゃないか?」
「だって、職場でもいつも眠そうですから」
「眠そうなだけで、ちゃんと働いてるだろ」
「それは、もちろんです!」
リナが即答すると、エレナは満足そうに頷いた。
「よかった。家で仕事の話をあまりしないから、どんな様子なのか気になっていたのよ」
「カイルさんはすごいんですよ。私が見落としそうなことにもすぐ気づきますし、困ったときはいつも助けてくれます」
「へえ。そんなふうに言ってもらえるなんて、あなたも幸せね」
「……本人の前で言わなくてもいいだろ」
カイルは顔を背けて籠の中身を整えた。その仕草がいつもより照れくさそうに見えて、リナは少し得意な気分になった。
市場の中央にある噴水広場まで来ると、エレナが子供たちのために焼き菓子を選びたいと言い、二人を日陰の長椅子で待たせた。リナは袋から先ほど買った菓子を取り出し、まだ残っていた一つを見つめる。
「カイルさん、これ食べます?」
「いや、お前が買ったんだろ。食べとけ」
「二つ買ったんです。おいしかったから、誰かに食べてもらいたくて」
「じゃあ、ありがたく一つもらうか」
カイルは受け取った菓子をひと口かじり、噴水の水音を聞きながら目を細めた。
「悪くないな。うちの子供たちも好きそうだ」
「お子さん、二人でしたよね」
「ああ。上の子は最近やたら質問が多くてな。下の子は何でも真似したがる。朝から晩まで賑やかなもんだ」
普段のカイルは、自分の昔話を振られても適当にかわしてしまうことが多い。それなのに子供たちの話になると、言葉が少し増えるのが不思議だった。
「……カイルさんって、お父さんなんですね」
「今さら何を言ってるんだ。前からそうだぞ」
「知ってましたけど、何だか実感がなくて」
「お前の中の俺は、どんな人間なんだよ」
「眠そうで、面倒くさがりで、でも頼りになる先輩です」
「前半が余計だな」
カイルは苦笑しながら残りの菓子を食べた。リナはその横顔を見て、少しだけ不思議な気持ちになる。南門では、いつも自分が教わる側だった。けれど今ここにいるカイルには、衛兵としての顔だけでなく、夫として、父親としての毎日がある。
やがてエレナが菓子の包みを抱えて戻ってきた。カイルは立ち上がって荷物を受け取り、妻が歩きやすいよう人通りの少ない側へ自然に位置を変えた。リナはその何気ない気遣いに気づき、思わず笑みを浮かべる。
「何だ、また笑ってるな」
「いえ。カイルさん、奥様には優しいんだなって」
「職場でも優しいだろ?」
「……そうですね」
「今、少し考えたな?」
「そんなことありません!」
エレナが二人のやり取りを聞いて楽しそうに笑う。その笑顔には気取ったところがなく、リナもすぐに打ち解けてしまった。
「リナちゃん、よかったら今度うちへ夕食を食べにいらっしゃい。主人がお世話になっているお礼もしたいし」
「えっ、そんな! お世話になっているのは私の方ですから!」
「遠慮しなくていいのよ。子供たちも喜ぶと思うわ」
「じゃあ、勤務の都合が合うときに、ぜひ……!」
「決まりね。あなた、ちゃんと予定を聞いておいてね」
「ああ、分かったよ」
カイルが素直に頷いたので、リナは少し驚いた。仕事中なら、面倒だと言いながら一言くらい冗談を挟みそうなのに、妻の頼みには当たり前のように応じている。
三人が広場を抜けようとしたとき、近くで小さな悲鳴が上がった。見ると、幼い男の子が手に持っていた木の玩具を落とし、転がった玩具が荷車の車輪へ向かっている。リナは考えるより先に駆け出しかけたが、その前にカイルが一歩踏み出し、車輪の手前で玩具を拾い上げた。
「ほら、気をつけろよ」
「あ、ありがとう、おじさん!」
「……おじさん、か」
男の子が母親のもとへ走っていくと、カイルは少し複雑そうに呟いた。リナが笑いを堪えていると、エレナは夫の腕を軽く叩く。
「子供から見れば、立派なおじさんでしょう?」
「お前まで言うか」
「でも、さすがですね。私、動く前にカイルさんが拾ってました」
「仕事柄、危なっかしいものには目が行くんだよ。お前もすぐ走り出そうとしてただろ」
「……見てたんですか?」
「見てるさ。休みでもな」
カイルはそう言って肩をすくめた。リナは朝から何度も周囲を見回していた自分を思い出し、少しだけ安心した。仕事の癖が抜けないのは、自分だけではないらしい。
通りが分かれる場所で、リナは二人と別れることにした。エレナはまた会えるのを楽しみにしていると微笑み、カイルはいつもの調子で片手を上げた。
「じゃあな、リナ。休みの日くらい、ちゃんと休めよ」
「カイルさんこそ、ちゃんと休んでくださいね!」
「俺は休むのが得意なんだよ」
「それは知ってます!」
カイルが苦笑し、エレナが声を立てて笑う。二人が並んで歩いていく背中を見送りながら、リナは胸の内に温かなものが残っているのを感じた。
夕方、宿舎へ戻る道すがら、リナは小さな花屋の前で足を止めた。窓辺には色とりどりの花が並び、店の奥からは夕食の支度をする匂いが漂ってくる。南門を通る人々にも、それぞれ帰る家があり、待っている人がいる。今日見たカイルの姿を思い出すと、いつもの検査台の向こうに広がる暮らしが、少し近く感じられた。
宿舎に着く頃には空が茜色に染まっていた。部屋へ戻ったリナは買った小物を机に並べ、明日の勤務表を確かめる。次にカイルと同じ班になる日を見つけ、思わず口元が緩んだ。
「……明日は、ちょっとだけからかってみようかな」
そう呟いてから、きっと言い返されるに違いないと思い直す。それでも今日の先輩の姿を思い出すたび、リナは何となく嬉しくなるのだった。
【リナの日記】
今日はお休みだったので、王都の市場へ買い物に出かけた。制服を着ていないのに、つい通りの様子や人の荷物を確認してしまった。休みの日くらい普通に歩こうと思う。
市場でカイルさんと奥様に会った。奥様のエレナさんはとても優しくて、話しやすい人だった。カイルさんは買い物籠を持ったり、荷物を受け取ったりしていて、ちゃんと旦那さんをしていた。ちょっと意外だった。
それから、カイルさんが家で私の話をしていると知って驚いた。真面目に働いていると思ってもらえているらしく、少し嬉しかった。いつもからかわれてばかりだから、なおさらだ。
子供たちの話をしているときのカイルさんは、普段より楽しそうだった。今度、夕食にも呼んでくださるそうなので、何か手土産を持っていこうと思う。
ただ、奥様によると、カイルさんは休日になるとなかなか寝台から起きないらしい。
仕事中も眠そうで、家でも寝ているなんて。
……あの人は、いつ目が覚めているんだろう。




