第25話 少し成長した新人衛兵と駆け出し勇者 ― The Rookie Hero
朝の王都南門には、近郊の村から来た農夫の荷車や商人の馬車が次々と到着し、石畳には車輪の軋む音と人々の話し声が絶えず響いていた。夜明けの冷たさを残す風が藁と湿った土の匂いを運ぶ一方、門の向こうからは開店の準備をする商店の物音が聞こえてくる。入都検査はいつもどおり二班に分かれて行われ、隣の班も荷車と旅人の列を順調にさばいていた。
「はい、確認できました。どうぞ。次の方、お願いします」
リナ・フェルドは旅人へ身分証を返すと、次の商人を呼び寄せた。帳面へ必要事項を書き込みながらも、荷物の積み方や列の動き、周囲を不自然に気にする者がいないかへ自然と目を配る。配属されたばかりの頃は目の前の書類を追うだけで精いっぱいだったが、今では質問と確認の順序が身体に馴染み、多少急かされても落ち着いて対応できるようになっていた。
もちろん、判断に迷えば先輩のカイルや班長のオスカーに確認する必要がある。それでも、自分なりに進歩しているという手応えはあった。
「ずいぶん慣れたな」
少し離れた位置で列を見ていたカイルが、相変わらず眠そうな顔で声をかけてきた。リナが「急にどうしたんですか」と尋ねると、彼は最初の頃の必死な顔を思い出したらしく、口元を緩める。
「今なら、ちょこっと中堅ってところか」
「ちょこっとって何ですか。新人じゃないなら、普通に衛兵でいいでしょう?」
「それじゃ面白くない」
「勤務中に面白さを求めないでください!」
からかわれていると分かっていても、リナは少し嬉しかった。返事の代わりに背筋を伸ばし、次の書類を受け取ろうとした、そのときだった。
「どいてくれぇぇぇっ! 遅れる!」
街道の向こうから叫び声が響き、並んでいた人々が一斉に振り返った。土煙を巻き上げながら走ってくるのは、十代半ばほどの若者である。丈夫そうな旅装に胸当てを着け、背中には立派な剣を負っているものの、髪は盛大に跳ね、胸当ての留め具は片方だけ外れ、靴紐までほどけかけていた。
若者は列を見た途端に顔を引きつらせ、その横を一気に駆け抜けようとする。リナは記録台の前へ出て、長棒を水平に構えた。
「止まってください。ここでは走らないでください」
「急いでるんだ! 通してくれ!」
「危険です。まず止まって、事情を話してください」
若者は慌てて足を踏ん張り、リナの手前でようやく止まった。肩で息をしながら門の向こうを見つめるその様子に、近くの荷車の御者まで心配そうな顔を向けている。
「王様に会わなきゃいけないんだ! 俺は今日、正式に旅立つ勇者なんだよ!」
「勇者、ですか?」
「そうだ! だから急がないと!」
驚きはしたが、リナは帳面を閉じなかった。今まで南門には騎士も魔法使いも、もっと奇妙な来訪者も現れている。肩書だけで判断しないことくらいは学んでいた。
「分かりました。では、身分証を見せてください」
「もちろん!」
若者は胸元を探り、腰の小袋へ手を突っ込み、しまいには荷物を下ろして中身をひっくり返し始めた。勢いよく動いていた手が次第に鈍り、最後には空の革袋を握ったまま固まってしまう。
「……ない」
「どこに置いたか覚えていますか?」
「家の机の上だ……」
「では、そのままお通しすることはできません」
「間に合わない! 王様が待ってるんだ!」
若者が大声を上げるたび、周囲の旅人がちらちらと振り返る。リナは声を荒らげず、事情を一つずつ確かめた。
「謁見は何時の予定なんですか?」
「日の出から一刻後」
「それなら、もう時間を過ぎていますね。どうして遅れたんです?」
若者は口を結び、やがて観念したように俯いた。
「……寝坊した」
「……今日、王様に会うのに?」
「明日から旅だと思ったら眠れなくてさ! 勇者だって寝坊するだろ!」
「だからこそ、自分で起きてください。おいくつですか?」
「16だ!」
「……成人してるじゃないですか」
リナが呆れると、若者は「いつもは母ちゃんが起こしてくれるんだ」と口を滑らせた。問い返されると、起こしてもらった気もするが二度寝をしたらしいと白状し、カイルからは「勇者より先に目覚まし係が必要だな」と追い打ちをかけられる。
「とにかく頼む! どうにかならないか!」
「身元の確認ができれば手続きは進められます。でも、ほかの方々も順番を待っていますから――」
「待ちなさぁぁい!」
そのとき、街道の向こうから女性の声が飛んできた。小型馬車が門前の安全な場所で止まり、御者台の隣から大きな鞄を抱えた女性が飛び降りる。若者と同じ茶色の髪をしたその女性は、息子の前まで来ると、ためらいなく頭を小突いた。
「この馬鹿! 何回起こしたと思ってるの!」
「痛っ! 母ちゃん、人前で叩くなよ!」
「5回よ! 最後には布団まで剥いだのに、また寝たでしょう!」
「……5回ですか」
リナが思わず聞き返すと、母親は大きく頷いた。若者は耳まで赤くなり、周囲からは堪えきれない笑い声が漏れた。
「それから、机に置きっぱなしだった身分証! 大切な日に忘れてどうするの!」
女性が差し出した身分証を、リナは本人の前で受け取って確認した。王国の正式な印章、16歳という年齢、近郊の町の住所。そして職業欄には、確かに『勇者』と記されている。
「……本当に勇者なんですね」
「だから言っただろ!」
「確認できました。ただし、入都検査は順番です。列の最後尾へ並んでください」
「えっ。俺、勇者なんだけど?」
「承知しています。王様への謁見があることも、遅刻していることも」
「だったら!」
「だからといって、先に来た人を飛ばす理由にはなりません。もし王城から正式な迎えや特別な通行の指示があれば別ですが、今はありませんよね?」
「……ない」
「それなら、皆さんと同じ手順です」
若者は助けを求めるようにカイルを見たが、返ってきたのは気の抜けた「寝坊したなら仕方ないな」の一言だった。隣の班で検査を待っている旅人たちも、誰かが割り込めると思えば不公平に感じるだろう。しばらく唸っていた若者は、やがて諦めて肩を落とした。
「……分かった。並ぶよ」
「それでいいんです。あと、靴紐は結び直してください。転びますよ」
「えっ? うわ、本当だ」
しゃがんだ息子へ、母親がすかさず声を飛ばした。
「それより待ちなさい! まだ渡すものがあるの!」
鞄から出てきたのは弁当、財布、地図、回復薬、着替えに水筒。さらに火打ち道具、携帯食、替えの靴下、小さな裁縫道具まで次々と積み上がり、足元にはあっという間に旅支度の小山ができた。
「……これ、全部忘れていたんですか?」
「全部です」と母親は即答した。
リナは若者の背にある剣へ視線を向ける。「まさか、持ってきたのはその剣だけ……?」
「聖剣だ!」
「そういう問題じゃありません!」
「まだあるわよ!」
「まだ!?」
母親が御者を呼ぶと、二人がかりで馬車から大きな盾を下ろしてきた。勇者は「あ」と小さく声を漏らし、リナは思わず額を押さえる。
「盾まで忘れてたんですか?」
「……うん。でも聖剣は忘れてない!」
「自慢するところじゃありません!」
周囲の人々が笑うなか、若者は母親に渡された荷物をどうにかまとめ、盾を背負い直した。今度こそ列へ向かうかと思えば、母親は息子の胸当ての留め具まで直し始める。
「仲間の人たちに迷惑をかけないこと。ご飯はちゃんと食べること。それから夜更かししないこと!」
「分かったって! 俺、もう16だぞ!」
「16だから何よ。今朝も5回起こされたでしょう!」
勇者は反論できず、赤い顔のまま荷物を抱えて最後尾へ向かった。リナはその背中を見送り、少しだけ心配になった。王国公認の勇者というのは、強ければ務まるものなのだろうか。
それからしばらく、リナは普段どおり検査を続けた。商人の積み荷を確かめ、旅人に滞在先を尋ね、ときには隣の班と列の進み具合を見ながら通行を整理する。勇者が何度もこちらへ期待に満ちた視線を向けてきたが、特別扱いはしなかった。
やがて順番が巡ってくると、若者は山ほどの荷物を抱えて記録台の前へ戻ってきた。
「やっと俺の番だ!」
「お待たせしました。では改めて、入都目的と持ち物を確認しますね」
「国王陛下への謁見! その後は仲間と旅立つ! 危ない物は聖剣だけだ!」
「武器として申告していただければ大丈夫です。王都内では正当な理由なく抜かないでくださいね」
「勇者の聖剣でも?」
「勇者の聖剣でもです」
「……はい」
身分証と荷物の確認を終え、リナは帳面へ最後の印を付けた。忘れ物だらけではあったものの、禁止品はなく、本人確認にも問題はない。
「通行を許可します。どうぞ」
「よしっ!」
若者が弾かれたように顔を上げると、門の外で待っていた母親へ振り返った。さっきまで散々叱られていたのが嘘のように、その声だけはまっすぐだった。
「母ちゃん、行ってくる!」
母親は一瞬だけ口を開きかけ、息子の背負う聖剣と大きな荷物を見つめた。やがて眉尻を下げて笑い、先ほどよりずっと静かな声で答える。
「……行ってらっしゃい。無事に帰ってくるのよ」
「もちろん!」
勇者は大きく手を振り、王都の大通りへ走り出した。母親はその姿が遠ざかるまで見送っている。リナもふと、彼が旅先で多くの困難に出会うのだろうと思った。寝坊をし、身分証も盾も忘れた少年ではあるが、それでも王国が正式に送り出す勇者なのだ。
「……頑張ってほしいですね」
「ああ。まずは寝坊しないところからな」
カイルの言葉にリナが苦笑した、その直後だった。
「衛兵さーん!」
王都へ消えたはずの勇者が、息を切らして戻ってきた。リナは今度こそ何か落としたのかと思い、記録台の下まで確かめる。
「どうしました? 忘れ物ですか?」
「違う! 一つ聞きたい! 王城ってどっちだ!?」
リナは無言で門の奥を指差した。王都の建物の上には、高い塔を持つ王城が朝日に照らされ、遠くからでもはっきり見えている。
勇者はその城とリナを交互に見比べ、気まずそうに頬を掻いた。
「……あれか」
「……はい、あれです。大通りを進めば案内もあります。走って転ばないでくださいね」
「ありがとう!」
勇者はまた駆け出していき、今度は門から十分に離れたところで靴紐を結び直していた。見送りながら、リナは小さく息を吐いた。
「……あの人、本当に大丈夫でしょうか」
「戦えば強いんだろ。目的地に着ければな」
「そこが一番心配なんですけど」
カイルはひとしきり笑ったあと、珍しく真面目な顔でリナを見た。
「それにしても、お前も成長したな。勇者が相手でも、ちゃんと順番を守らせた」
「勇者でも規則は同じです。特別な許可がないなら、先に並んでいる人を飛ばせませんから」
そう答えたリナは、朝の検査を始めたばかりの頃なら『勇者』という肩書に少し慌てていたかもしれないと思った。今回も驚きはしたけれど、最後まで仕事の手順を見失わずに済んだ。
「なるほど。ちょこっと中堅らしくなったな」
「またそれですか。……でも、まあ、ちょこっとくらいなら」
「自分で認めるのか?」
「カイルさんが言い始めたんでしょう!」
いつもの言い合いをしながら、リナは次の旅人を呼び寄せた。王都南門の列はまだ続いている。少し成長した新人衛兵には、今日も休む暇などなさそうだった。
【リナの日記】
今日は本物の勇者が来た。16歳で、王様に会ってから仲間と旅に出るらしい。
……寝坊してた。
しかも身分証を家に忘れていた。お母さんが届けてくれたから確認できたけど、あれだけ「本物だ!」って叫ばれても、証明できなければ通すわけにはいかない。
だから列に並んでもらった。
勇者だって言われた。知ってます。王様が待ってるって言われた。それも聞きました。世界を救いに行くんだって言われた。もちろん大切なことです。
でも列は列です。寝坊したのは私のせいじゃありません!
それにしても、忘れ物が多すぎた。お弁当、財布、地図、回復薬、着替え、水筒、火打ち道具、携帯食、靴下、裁縫道具……最後には盾まで出てきた。
ほとんど全部じゃないですか!
持ってきたのは聖剣だけ。本人は誇らしげだったけど、勇者って聖剣一本で旅に出られるものなの? 絶対違うと思う。
ようやく入都したあとも戻ってきたから、また何か忘れたのかと思ったら、今度は王城の場所を聞かれた。
見えてます! ものすごく見えてます!
ちょっと、いや、かなり心配になった。
それでも最後にお母さんへ「行ってくる」と言ったときは、少しだけ勇者らしかった。無事に帰ってきてくれるといいな。
それからカイルさんに「ちょこっと中堅」って言われた。ちょこっとって何ですか。でも今日は、勇者が相手でも落ち着いて検査できた。昔の私なら慌てていたかもしれないから、少しは成長したのかな。
だったら嬉しい。本当にちょっとだけ。
【今日の教訓】
肩書がどれほど立派でも、入都の規則はみんな同じ。慌てている人ほど、こちらは落ち着いて確認すること。
それから大事な日に寝坊しないこと。身分証と旅の荷物は前の日に準備すること。
……勇者の人に言いたいことが増えてしまった。
でも、私もいつか「ちょこっと」の取れた衛兵になれるように、明日も頑張ろう。




