第23話 新人衛兵と挙動不審な夫
王都南門には、今日も朝から多くの人々が行き交っていた。地方から荷物を運んできた商人、仕事を求めてやってきた職人、依頼を終えて戻ってきた冒険者など、門を通る人々の事情はさまざまだが、衛兵たちの仕事は変わらない。身分証を確認し、必要に応じて荷物を調べ、不審な点がなければ通行を許可する。それを一人ずつ、間違いなく繰り返していく。
昼を少し過ぎた頃、リナ・フェルドは検査台に置かれた木箱の中身を確認し、持ち主の商人へ返していた。
「はい、問題ありません。お疲れさまでした」
「ありがとうよ、衛兵さん」
商人を見送ったリナが次の通行人を呼ぼうとしたとき、少し離れた場所にいる一人の男が目に留まった。
三十代後半ほどの、ごく普通の身なりをした男性だった。旅用の上着を着込み、背中には大きな荷袋を背負っている。見たところ行商人か旅人のようだが、その行動がどうにもおかしい。
男は南門へ向かって数歩進んでは立ち止まり、王都の方角を見つめている。かと思えば突然後ろを振り返り、誰かに追われているかのように周囲を確認していた。
さらに、何かを決意したように拳を握って歩き出したかと思うと、また足を止めて深いため息をつく。
「……カイルさん」
「ん?」
「あそこにいる人、さっきから様子がおかしくありませんか?」
隣の検査台で書類を整理していたカイル・ローデンが顔を上げ、リナの視線を追った。
「どれどれ……ああ、あいつか」
「門に近づこうとしているのに、何度も引き返そうとしているんです。誰かを警戒しているようにも見えますし……」
「確かに落ち着きがないな。呼んでみるか」
リナが声をかけると、男は肩を大きく跳ねさせた。
「そちらの方! 入都されるのでしたら、こちらで検査をお願いします!」
「は、はいっ! ただいま!」
まるで上官に呼びつけられた新兵のような返事をした男は、慌てて検査台へ駆け寄ってきた。しかし、その途中でも二度ほど王都側を振り返っており、リナの警戒心は少しずつ高まっていった。
「こんにちは。まずは身分証をお願いします」
「み、身分証ですね! もちろん持っていますとも!」
男は上着の内側へ手を突っ込んだが、なかなか目的のものが見つからないらしい。右の懐を探り、左の懐を探り、腰の小袋までひっくり返しかけたところで、ようやく革製の身分証入れを取り出した。
「こ、こちらです!」
「ありがとうございます。そんなに慌てなくても大丈夫ですよ」
「そ、そうですよね。まだ何も起きていませんからね!」
「……まだ?」
リナが顔を上げると、男はしまったという表情で口を閉じた。
身分証には、マルク・ヘイデン、三十八歳、王都在住の行商人と記されている。記載内容に不自然な点はなく、本人の特徴とも一致していた。
「マルクさんですね。地方からお戻りですか?」
「ええ! 仕入れのために西の町まで行っておりまして!」
「そうでしたか。お仕事、お疲れさまです」
「ありがとうございます! いやあ、本当に疲れました! もう何もかも終わったような気分で……」
「……終わった?」
「い、いえ! 仕事が終わったという意味です!」
男は額の汗を拭いながら、無理やり笑顔を作った。
リナは身分証を返し、荷物の確認に移ることにした。
「では、荷袋の中身を確認させていただきます」
「は、はい! どうぞ、何でも調べてください!」
マルクは勢いよく荷袋を検査台へ置いたが、その直後、何かを思い出したように顔を青くした。
「……あっ」
「どうかしましたか?」
「い、いえ。何でもありません」
袋の中には仕入れた布地の見本や帳簿、地方の保存食などが丁寧に詰められていた。商売道具として不自然なものは見当たらず、リナがさらに確認を進めると、底の方から綺麗な包みがいくつか出てきた。
「こちらは何ですか?」
「そ、それは妻への土産です!」
マルクは待っていましたとばかりに包みを開き、細工の施された髪飾りを取り出した。小さな青い石がはめ込まれた品で、派手ではないものの、なかなか上品な作りをしている。
「わあ、綺麗ですね!」
「でしょう!? 妻に似合うと思って買ったんです!」
「きっと喜ばれると思いますよ」
「そ、そうでしょうか! これで少しは機嫌を直してくれるでしょうか!」
「……機嫌?」
「あっ」
マルクは慌てて髪飾りを包み直した。
リナは首を傾げた。先ほどから、この男は何かを隠しているように見える。とはいえ、荷物にも身分証にも問題はなく、犯罪に関係するようなものも見当たらない。
そのとき、隣で様子を見ていたカイルが口を開いた。
「なあ、あんた。もしかして、帰る予定が遅れたのか?」
マルクの肩がびくりと震えた。
「な、なぜそれを!?」
「いや、何となくな。王都に帰ってきたっていうのに、ちっとも嬉しそうじゃないからさ」
カイルは検査台に肘をつき、気楽な調子で続けた。
「何日遅れた?」
「……三日です」
「奥さんには知らせたのか?」
「……知らせられませんでした」
「なるほど」
カイルは深く頷いた。
「そりゃ大変だ」
「や、やっぱりそう思いますか!?」
マルクが検査台へ身を乗り出す。
「聞いてください! 帰り道で大雨が降りましてね、川の橋が通れなくなったんです! それで別の道を通ったら馬車が故障して、ようやくここまで帰ってこられたんですよ!」
「それは災難でしたね」
リナが同情すると、マルクは力強く頷いた。
「そうなんです! 私だって好きで遅れたわけじゃありません! でも、妻は三日前に帰ると思って待っているわけでして……!」
「でしたら、事情を説明すればいいじゃないですか」
「それが簡単にできれば、こんなに悩んでいません!」
マルクは両手で頭を抱えた。
「うちの妻は普段、本当に優しいんです。料理も上手で、子供たちの面倒もよく見てくれて、私が仕事で疲れて帰るといつも笑顔で迎えてくれるんですよ」
「素敵な奥様じゃないですか」
「ええ! 最高の妻です! ですが……」
マルクは声を潜め、恐ろしい秘密を打ち明けるように身を寄せた。
「本気で怒ったときだけは、別なんです」
「怒るとどうなるんですか?」
「……笑うんです」
「笑う?」
「ええ。それはもう、恐ろしいほど優しく微笑むんです」
リナはますます分からなくなった。
「でも、笑顔なんですよね? それなら怒っていないんじゃ……」
「違うんです! あの笑顔のときが一番怖いんです!」
マルクは拳を握り締め、必死の形相で訴えた。
しかし、その視線がふとリナの肩越しへ向いた瞬間、彼の表情が凍りついた。
先ほどまで熱心に動かしていた両手が止まり、口は半開きになったまま閉じられない。額には大粒の汗が浮かび、顔からみるみる血の気が引いていく。
「……マルクさん?」
「…………」
「どうしたんですか?」
返事の代わりに、マルクは突然リナの背後へ回り込んだ。
「えっ!? ちょ、ちょっと!」
「お、お願いします! 少しだけ! 少しだけこのままで!」
身長で大きく上回る男が、十七歳の少女の背中に身を隠そうと必死になっている。リナが右へ動けば右へ、左へ動けば左へとついてくるため、とうとう彼女は検査台の前で身動きが取れなくなってしまった。
「マルクさん! 何から隠れているんですか!」
「う、後ろ……!」
「後ろ?」
マルクが震える指で示した方角へ、リナは振り返った。
門の王都側に、一人の女性が立っていた。
三十代半ばほどの、落ち着いた雰囲気の女性だった。髪はきちんとまとめられ、清潔な服を身につけており、片手には買い物籠を提げている。顔立ちは優しげで、口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
ただし、両足を肩幅に開いて堂々と仁王立ちしているうえ、笑っているはずの目には説明のつかない迫力があった。
周囲の通行人たちが、誰に言われるでもなく女性を避けて歩いている。
「…………」
リナは思わず背筋を伸ばした。
女性はにっこりと微笑む。
「あら、あなた。お帰りなさい」
「ひっ……!」
背後でマルクが小さな悲鳴を上げた。
「三日も帰ってこないから、ずいぶん心配したのよ?」
「す、すまん! その、橋が……!」
「ええ。事情は後でゆっくり聞かせてもらうわ」
女性はそこで少し首を傾げ、リナの背後に隠れている夫を見つめた。
「あらあら。私の顔を見た途端、そんな若い女の子の後ろに隠れるなんて」
にっこり。
「もしかして、私より若い子の方がいいのかしら?」
「違うぅぅぅ!!」
マルクの叫び声が南門に響き渡った。
「こ、この子は衛兵さんだ! 入都の検査をしてもらっていただけで、何もやましいことはない!」
「そ、そうです! 私はただ仕事をしていただけです!」
思わぬ疑いをかけられたリナも、慌てて両手を振った。
女性は二人を交互に見つめ、相変わらず穏やかに微笑んでいる。
「そうなの? それなら、あなた。こちらへいらっしゃい」
「…………」
マルクはリナの背後から顔を半分だけ覗かせ、必死に首を横へ振った。
「……無理だ」
「あら、どうして?」
「お、怒ってるだろ……?」
「いいえ。全然怒ってないわよ?」
「絶対に嘘だぁぁ!」
マルクが叫んだ、その直後だった。
女性の姿が消えた。
「……え?」
リナは思わず瞬きをした。
ほんの一瞬前まで門の向こうに立っていたはずの女性が、視界から忽然と消えていたのである。慌てて周囲を見回したものの、その姿はどこにも見当たらない。
次の瞬間。
ぽん、ぽん。
マルクの肩が、背後から優しく叩かれた。
「あなた?」
「…………」
マルクの身体が石のように固まった。
ゆっくりと振り返った先には、先ほどとまったく変わらない笑顔を浮かべた妻が立っていた。
「捕まえた」
「ひぃぃぃぃっ!!」
マルクは悲鳴を上げて膝から崩れそうになったが、女性が片手で肩を支えると、その場から一歩も動けなくなった。
リナは目を丸くした。
「い、今、どうやって後ろに……!?」
「あら、少し回り込んだだけですよ?」
「少し!?」
女性が動き出した瞬間すら見えなかった。リナは棒術道場で長年修練を積み、衛兵になってからも訓練を続けているが、これほど素早い動きを目にしたことはほとんどない。
隣ではカイルが感心したように口笛を吹いた。
「へえ……大した腕だな。足運びも気配の消し方も、ただ者じゃない」
「あら、ありがとうございます。昔、少し冒険者をしていたものですから」
「少しって動きじゃないだろ。斥候か?」
「ええ。よくお分かりですね」
女性は嬉しそうに笑った。
「主人とも、商隊の護衛をしていた頃に知り合ったんですよ」
「なるほどな。道理で」
カイルは納得したように頷いたが、リナにはまだ理解できないことがあった。
「でも、どうしてマルクさんはそんなに怖がっているんでしょう? 奥様はとても優しそうなのに……」
「それはね、衛兵さん」
女性がにっこりと微笑んだ。
「この人、昔から私に隠し事をすると、すぐ顔に出るんです」
「隠し事?」
「ええ。悪いことをしているわけじゃないのに、勝手に慌てて、勝手に逃げようとするんですよ」
女性は夫の肩から手を離すと、今度は正面へ回って顔を覗き込んだ。
「ねえ、あなた?」
「は、はいっ!」
「私、そんなに怖いかしら?」
「い、いや、その……!」
「正直に言っていいのよ?」
「…………怖いです」
マルクが消え入りそうな声で答えると、女性は一瞬きょとんとした後、思わず吹き出した。
「もう! そんなに怖がらなくてもいいでしょう!」
その笑い方は先ほどまでの迫力ある微笑みとは違い、心からおかしそうに笑っているように見えた。
しかし、笑いが収まると、女性は夫の胸元へそっと手を伸ばした。
「……本当に、心配したのよ」
それまで明るかった声が、少しだけ震えた。
「帰ってくるはずの日に帰ってこなくて、次の日も、その次の日も何の知らせもないんだもの。途中で事故に遭ったんじゃないかって、何度も考えたわ」
「……すまなかった」
「昨日なんて、子供たちまで『お父さんはまだ?』って聞くのよ。今日も帰ってこなかったら、昔の仲間に頼んで捜しに行こうと思っていたの」
マルクは妻の顔を見つめた。
先ほどまであれほど恐れていた男が、今度は申し訳なさそうに肩を落とし、妻の手を両手で包み込んだ。
「本当に悪かった。橋が通れなくなって、連絡を頼める相手も見つからなかったんだ。何とか早く帰ろうと思ったんだが……」
「ええ。分かってるわ」
「心配をかけたな」
「……無事なら、それでいいのよ」
女性はそう言うと、夫の胸に額を寄せた。マルクもそっと妻の背中へ腕を回し、しばらく二人は何も言わずに立っていた。
その様子を見ていたリナは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
あれほど怯えていたマルクも、ようやく安心したように笑っている。
「……よかったですね、カイルさん」
「ああ。無事に帰ってこられて何よりだ」
カイルも珍しく穏やかな声で答えた。
ところが、その直後だった。
女性がゆっくりと夫から身体を離し、再びにっこりと微笑んだ。
「ところで、あなた?」
「……はい」
「さっき、私の笑顔が一番怖いって言っていたわね?」
「…………」
「それに、若い衛兵さんの後ろに隠れていたことについても、ちょっとお話を聞きたいわ」
マルクの顔が再び真っ白になった。
「そ、それは……!」
「大丈夫。家に帰ってから、ゆっくり聞かせてもらうだけよ?」
女性は夫の手をしっかり握った。
「さあ、帰りましょう。子供たちも待っているわ」
「……はい」
マルクは抵抗することなく歩き出したが、その足取りは先ほどよりも明らかに重かった。
数歩進んだところで、女性が思い出したように振り返る。
「あ、衛兵さん。主人がお騒がせして申し訳ありませんでした」
「い、いえ! 何も問題ありません!」
「ありがとうございました。これからもお仕事、頑張ってくださいね」
女性は優雅に頭を下げると、夫の手を引いて王都の通りへ消えていった。
リナはしばらく二人の背中を見送っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……カイルさん」
「何だ?」
「あの奥様、本当に凄い人ですね」
「ああ。あの動きなら、冒険者としても相当な腕だったはずだ」
「でも、旦那さんのことを本当に大切に思っているんですね」
「そうだな」
カイルは頷き、少しだけ口元を緩めた。
「もっとも、あの旦那が今夜無事に眠れるかどうかは別問題だが」
「……やっぱり怒られるんでしょうか?」
「さあな。ただ、あの奥さんから逃げ切るのは無理だろうな」
リナは先ほどの女性の動きを思い出した。
目の前から消え、気づいたときには背後に立っていた、あの信じられない速さ。
もし自分があの女性から逃げようとしたら、果たして何歩進めるだろうか。
考えたところで、リナは首を横に振った。
「……そもそも、逃げなければいいんですよね」
「その通りだ」
カイルは笑いながら、次の通行人へ手を振った。
「よし、リナ。次の検査だ」
「はい!」
リナは気持ちを切り替え、検査台の前へ戻った。
王都南門では、今日もさまざまな人々が行き交っている。
ただ一つ、今日の勤務で学んだことがあるとすれば。
笑顔だからといって、必ずしも安心できるとは限らないということだった。
【リナの日記】
今日は、王都に帰ってきたのに、なぜか帰りたがらない男の人が来た。最初は何か悪いことをしているのかと思ったけれど、理由は奥さんに怒られるのが怖かったからだった。
奥さんは元冒険者で、ものすごく強い人だった。目の前にいたはずなのに、次の瞬間には旦那さんの後ろに立っていた。あんな動きは初めて見たので、正直ちょっと憧れた。
でも、旦那さんが私の後ろに隠れたせいで、奥さんに変な誤解をされそうになった。私は仕事をしていただけなのに、どうしてあんなことになったんだろう。
奥さんは三日間ずっと旦那さんを心配していたらしい。二人が抱き合っている姿を見たときは、本当に仲の良い夫婦なんだと思った。
ただ、その後の笑顔は少し怖かった。
将来もし結婚することがあったら、帰る約束はきちんと守ろうと思う。
それと、どんなに怖くても、年下の女の子を盾にする大人にはならないでほしい。
今日の教訓。
奥さんからは逃げられない。特に、元凄腕冒険者の場合は。




