第22話 新人衛兵と空を泳ぐ人面魚
昼を少し過ぎた王都南門には、朝の混雑が一段落したあとの緩やかな時間が流れていた。それでも入都を待つ列がなくなることはなく、旅装の夫婦や荷馬車を引く商人、武器を背負った冒険者たちが石畳の上を少しずつ進み、その向こうでは別の検査班も途切れることなく身分証と荷物を確認している。
秋を感じさせる乾いた風が門を抜けるたび、街道から運ばれてきた土の匂いと馬の汗、それに革製品へ塗られた油の匂いが入り混じった。陽射しそのものはまだ強いものの、日陰へ入れば空気は涼しく、革鎧の下にこもった熱を冷ましてくれる。
「問題ありません。どうぞ」
リナは確認を終えた身分証を旅人へ返し、その背中が王都側へ離れていくのを見届けると、検査台の上を軽く整えてから次の入都者へ顔を向けた。
「次の方、どうぞ――」
呼びかけの途中で声が止まった。
こちらへ歩いてくるのは、一見するとどこにでもいそうな冒険者の男だった。三十歳前後だろうか。日に焼けた顔に短い焦げ茶色の髪を持ち、使い込まれた革鎧の上から灰色の外套を羽織っている。腰には剣が一本、背中には旅用の荷物を背負っており、装備だけを見れば珍しいところは何もない。
問題は、その男の隣を進んでいるものだった。
魚が空を泳いでいた。
水などどこにもない南門の石畳から一メートルほど浮いたところを、全長七十センチほどの大きな魚が、胸びれと尾びれをゆっくり動かしながら悠々と進んでくる。銀灰色の鱗は陽射しを受けて鈍く光り、太い胴体から伸びる尾びれが左右へ滑らかに揺れている。
そこまでなら、空を泳いでいることを除けばまだ魚だった。
しかし、その頭部には壮年男性の顔がついていた。日に焼けたような褐色の肌に太い眉、深く刻まれた眉間の皺があり、頬には古い傷まで一本走っている。固く結ばれた口元と鋭い眼差しには歴戦の傭兵か冒険者を思わせる妙な貫禄があるのに、その顔から下へ視線を移せば、どう見ても魚の身体だった。
リナは呼びかけの姿勢のまま固まり、空中を進む魚へ視線を吸い寄せられた。魚が少し高度を上げれば目も上がり、下がれば無意識に視線まで下がってしまう。
人間の冒険者はそんなリナを気にする様子もなく検査台の前まで来ると、懐から二枚の身分証を取り出した。
「二人分です」
「……二人?」
思わず聞き返したリナへ、隣から低く落ち着いた声が飛んできた。
「俺が見えないのか」
「見えてます! ものすごく見えてます!」
反射的に答えてから勢いよく魚へ顔を向けると、相手は空中で静止したまま、尾びれだけをゆっくりと揺らしている。
「なら問題ない」
「問題というか、そういう意味じゃなくて……!」
言いたいことはいくらでもあったが、まずは仕事である。リナは自分にそう言い聞かせながら二枚の身分証を受け取った。
一枚目は人間の冒険者、ロイド・フェルナー。三十二歳で職業は冒険者。身分証の肖像と本人の特徴も一致しており、特に問題は見当たらない。
そして二枚目へ目を移したところで、リナの視線が再び止まった。
「ガイル・ヴァーン……種族、人面魚族。職業、冒険者……」
「俺だ」
身分証には、目の前に浮いているのと同じ渋い顔をした魚が写っていた。リナは肖像と本人を何度も見比べ、太い眉や頬の傷まで一致していることを確認する。
「……一致してます」
「ならそれでいい」
「はい……」
間違いなく本人だった。それどころか頬の傷という分かりやすい特徴まであるため、人間より本人確認がしやすいかもしれない。
身分証を返したリナだったが、どうしても視線はガイルの魚体と、その下に何もない空間を往復してしまう。
「さっきから俺の腹ばかり見ているな」
「その……どうして浮いてるんですか?」
「泳いでいる」
「それは見れば分かります! 空を泳いでる理由を聞いてるんです!」
「人面魚族は空を泳ぐ」
「だから、どうやって!?」
思ったより強い声が出てしまったリナを、ガイルはしばらく無言で見つめてから、わずかに眉間の皺を深くした。
「嬢ちゃん。お前は歩くとき、右脚を出して重心を移して、それから左脚を出すと一歩ごとに考えているのか?」
「え? ……考えませんけど」
「俺も同じだ。泳ぐときに、どうやって泳いでいるかなど考えん」
妙に説得力のある答えに、リナは思わず納得しかけた。
「なるほど……」
「納得するのか?」
ロイドが横から笑いながら口を挟んだ。
「ガイルが格好つけてるだけだぞ。人面魚族は生まれつき無属性の念動力を使えるんだ。それで自分の身体を浮かせてる」
「ロイド」
ガイルの低い声が響いたが、ロイドは気にした様子もない。
「何だ?」
「説明が早すぎる」
「衛兵さんが困ってるだろ」
ガイルは不満そうに黙り込み、リナはようやく仕組みを理解して肩の力を抜いた。
「念動力なんですね。だったら最初からそう言ってくださいよ!」
「自分が歩ける理由を聞かれて、筋肉と骨の説明から始める奴はいない。それと同じだ」
「それと同じなんですか?」
「俺にとってはな」
やはり妙に格好いい言い方をする人面魚だった。
しかし、まだ検査は始まったばかりである。リナは気持ちを切り替え、手元の記録へ視線を戻した。
「では、入都目的をお願いします」
「依頼だ。王都近郊で仕事を受ける予定でな」
「冒険者組合からですか?」
「ああ」
「まだ依頼自体は決まってないよ。組合で探すつもりなんだ。護衛か討伐か、その辺かな」
ロイドの補足を聞きながら記録し、滞在予定が十日ほどで、宿泊先が《銀麦亭》だと確認したところで、リナの手がまた止まった。
「……宿屋に泊まれるんですか?」
ガイルの目が細くなった。
「どういう意味だ」
「あっ、違います! 人面魚族だから泊めてもらえないって意味じゃなくて、その……寝るときどうするのかなって」
「寝る」
「だから、どうやって……」
「浮いたまま壁際で寝る。寝た程度で念動力は切れん」
「へえ……便利ですね」
「お前、さっきから俺の生活に興味を持ちすぎじゃないか」
「だって気になりますよ!」
つい本音が出ると、ロイドが横で吹き出し、ガイルは面倒そうに深いため息をついた。
「では、お荷物を確認します」
「好きにしろ」
まずロイドの背負い袋を確認すると、中身は着替えや毛布、火口箱、保存食、ロープ、簡単な調理器具など、旅慣れた冒険者らしいものばかりだった。腰の剣についても登録内容と一致しており、携行に問題はない。
続いてガイルへ目を向けると、魚体の横に小さな革鞄が浮いていることに気づいた。
「……これもガイルさんの?」
「俺のだ」
ガイルが答えた途端、革鞄は見えない手に運ばれているかのように滑らかに検査台へ降り、誰も触れていない留め具がひとりでに外れた。
「おお……」
リナが思わず身を乗り出すと、ガイルの眉がわずかに動く。
「嬢ちゃん、見世物じゃない」
「すみません。でも本当に手みたいに使えるんですね」
鞄の中には折り畳んだ地図、小さな薬瓶、包帯、保存食、硬貨の入った革袋などが整然と収められていた。その奥から鞘に収まった一本の小型ナイフを取り出したリナは、鞘や柄、刃渡りを確認する。
「小型ナイフですね。冒険者の携行品として問題ない大きさですけど……」
そこまで言って、ふと手が止まった。
ナイフを見たあと、ガイルの魚体へ視線を移す。左右にあるのは胸びれであり、当然ながら指はない。尾びれにも物を握れるような形はなく、リナはもう一度手元のナイフを見つめた。
「今度は何だ」
「これ、どうやって使うんです?」
「ナイフの使い方も知らんのか」
「そうじゃありません! どうやって持つんですか!?」
思わずガイルの身体を指差すと、ロイドが横を向いて笑いを堪え始めた。
「何がおかしい」
「いや。いつか聞かれると思ってた」
「余計なことを言うな」
ガイルはそう言ってから、リナが持っているナイフへ鋭い視線を向けた。
「嬢ちゃん、手を離せ」
「え?」
「いいから離せ」
言われるまま恐る恐る手を開くと、落ちるはずだったナイフが空中でぴたりと静止した。
「わっ……!」
ナイフはそのままガイルの前まで滑るように移動すると、誰も触れていないにもかかわらず鞘から静かに抜けた。磨かれた刃が陽光を反射しながら縦、横と向きを変え、くるりと回転したかと思えば、今度はガイルの魚体を中心に滑らかな円を描いていく。
動きにはほとんど揺らぎがなく、まるで見えない手が柄をしっかり握っているようだった。
「こう使う」
リナは驚きながらも、その正確な動きに目を奪われた。
「……便利ですね。手がなくても物を持てるし、鞄も開けられるし、こんなに細かくナイフまで動かせるんですよね?」
「手がないから使うんだ」
ガイルの声は淡々としており、宙を動いていたナイフがその顔の横で静かに止まった。
「俺には剣を握る手も、地面を蹴る脚もない。だから、自分にあるものを使う。それだけだ」
リナは先ほどまでとは違う目でガイルを見た。空を泳ぐことも念動力で道具を扱うことも、この男にとっては奇妙な芸ではなく、人間が手で剣を握り、脚で地面を蹴るのと同じ、生きるために身につけてきた技術なのだろう。宙に浮かぶナイフの正確な動きを見れば、相当な訓練を積んでいることも分かる。
「かなり練習したんですね」
「長く生き残りたければ、自分の身体の使い方くらい覚える」
「……格好いいですね」
「そうか」
表情こそ変わらなかったが、ガイルの尾びれがほんの少しだけ上向きになった。
その横でロイドが何気なく口を開いた。
「こいつ、そのナイフで昨日リンゴの皮剥いてたけどな。しかも一度も切らずに最後まで一本につなげてたぞ」
ガイルの尾びれがぴたりと止まった。
「ロイド」
「何だ?」
「今夜の見張りはお前一人でやれ」
「褒めてるじゃないか」
「黙れ」
リナは笑いを堪えながらナイフを鞘へ戻した。
「リンゴの皮を剥けるくらい細かく動かせるなら、本当に便利ですね」
「嬢ちゃんまで乗るな」
「褒めてますよ?」
「……もういい」
さらに荷物を確認していると、小さな紙包みが見つかった。中身を確かめるため開いてみると、乾燥させた小魚が何匹か入っている。
リナは紙包みを見下ろしたあと、ゆっくりとガイルへ視線を上げた。
「何だ」
「これ……食べるんですか?」
「好物だ」
「その……」
「言いたいことがあるなら言え」
干し魚とガイルを交互に見ていたことで察したのだろう。ガイルの眉間へ、また深い皺が刻まれた。
「嬢ちゃん、俺は人面魚族だ。そいつはただの魚だ。人間と猿を同じものとして扱うのか?」
「あっ……そう言われると全然違いますね。すみません」
「分かればいい」
「でも、種族に魚って――」
「それ以上言うな」
「はい」
リナが即座に口を閉じる横で、ロイドがまた肩を震わせていた。
すべての荷物を確認し終えたリナは記録を閉じ、二人へ身分証を返した。
「問題ありません。入都を許可します」
「ご苦労」
「ありがとうございます」
ロイドが自分の身分証を受け取る一方、ガイルの身分証はリナの手からふわりと浮き上がり、そのまま革鞄の中へ収まった。留め具までひとりでに閉まり、鞄は再びガイルの魚体の横へ浮かび上がる。
「……やっぱり便利ですね」
「三度目だぞ」
「だって便利なんですもん」
呆れたようにガイルが向きを変え、ロイドとともに王都側へ進み始める。地面を歩く人間の横を人面魚が悠々と空中で泳いでいく光景を眺めているうちに、リナの頭には新たな疑問が浮かんできた。
「あの!」
ガイルが空中で止まり、ゆっくり振り返った。
「何だ」
「扉ってどうやって開けるんです?」
しばらく沈黙が続いたあと、ロイドが堪えきれずに腹を抱えて笑い始めた。
「嬢ちゃん」
「はい」
「俺の生活がそんなに気になるのか」
「気になりますよ!!」
ガイルが深々と息を吐いた直後、ロイドの背負い袋の留め具が突然ひとりでに外れ、中から丸めた毛布が石畳へ転がり落ちた。
「おい、ガイル!」
「念動力だ。扉も同じように開ける」
「説明のために俺の荷物を落とす必要ないだろ!」
「口で説明するより早い」
「だったら拾えよ!」
「自分で拾え」
二人の言い合う声が少しずつ王都の雑踏へ遠ざかっていく。
リナはその後ろ姿をしばらく見送っていた。最初に見たときには、水のない空中を人間の顔をした魚が泳いでいるという光景そのものが理解できなかったのに、今では地面を歩くロイドの隣を銀灰色の魚体が悠々と進んでいる姿が、不思議と少しだけ普通に見える。
「……格好よかったな」
思わず漏らした声に反応するように、隣からカイルの声が飛んできた。
「リナ、次が待ってるぞ」
「あっ! す、すみません! お待たせしました!」
慌てて仕事へ戻りながらも、リナはもう一度だけ王都側へ視線を向けた。しかし、ガイルとロイドの姿はすでに人混みの向こうへ消えていた。
【リナの日記】
今日、人面魚の冒険者が来た。
水もないのに普通に空を泳いでいたので、最初は本当に意味が分からなかったけれど、人面魚族は生まれつき無属性の念動力を使えて、それで自分の身体を浮かせているらしい。
念動力は自分を浮かせるだけじゃなく、物を持ったり、鞄を開けたり、ナイフを使ったりすることもできる。
しかもリンゴの皮まで綺麗に剥ける。
便利。
本人には三回も言うなと言われたけれど、やっぱり便利だと思う。
ナイフをどうやって使うのかは本当に気になったので、聞いたことは後悔していない。手も脚もないから、自分にあるものを使うとガイルさんは言っていた。
ちょっと格好よかった。
見た目は魚だけど。
いや、人面魚族。
魚扱いすると怒られる。
干し魚を食べていたことには最初びっくりしたけれど、考えてみたら別におかしくなかった。南門にいると、自分が知らない「普通」がたくさんあることを知る。
勉強になる。
次に人面魚族が来たら、生活について質問しすぎないようにしようと思う。
でも、お風呂はどうするんだろう。




