第21話 新人衛兵と人形
朝から薄く広がっていた雲が昼前にはすっかり消え、王都南門の石壁には明るい陽射しが降り注いでいた。街道から吹き込む風はまだ少し冷たかったが、日向に立っていると革鎧の内側へじんわりと熱がこもり、リナは時折肩を動かして首元へ風を入れながら、途切れることなく続く入都者の確認を進めていた。
南門の前には今日も荷馬車や旅人が列を作り、車輪が石畳を擦る音や馬の蹄の響き、商人たちの話し声が絶えず重なっている。風向きが変わるたび、乾いた土埃と馬の匂いに混じって、門前の屋台で焼かれているパンの香ばしい匂いまで漂ってきた。
「はい、問題ありません。どうぞ」
身分証を返したリナが商人を送り出すと、少し空いた場所へ次の二人が進んできた。
若い母親と、小さな女の子だった。
母親は大きめの旅行鞄を肩に掛け、反対の手で娘と手をつないでいる。女の子は六歳くらいだろうか。柔らかそうな茶色の髪を左右で結び、淡い黄色の服の胸元へ、一体の布人形を大切そうに抱えていた。
人形は新品ではない。淡い青色の服はところどころ色褪せ、丸い布製の顔には黒い糸で目と口が縫いつけられている。茶色い毛糸で作られた髪も少しほつれ、片腕の付け根には丁寧に縫い直した跡があった。
けれど、汚れているという感じはしなかった。何度も洗われ、破れるたびに直され、それでもずっと大切にされてきたのだろう。
女の子はその人形を両腕でぎゅっと抱えている。
リナは自然と頬を緩めた。
「こんにちは」
「こんにちは!」
女の子が元気よく答えた。
「ちゃんと挨拶できて偉いね」
「当然ダ。六歳ニモナッテ挨拶モデキナイヨウデハ困ル」
「もう、ミリー!」
女の子が胸の人形へ少しだけ顔を向けた。
リナは気にせず母親から身分証を受け取った。
「お二人で王都へ?」
「はい。実家へ帰るところなんです」
「分かりました。少し確認しますね」
母親と娘、それぞれの身分証へ目を通す。母親の名前、女の子の名前、居住地。特に不審な点はない。
確認している間にも、女の子は興味津々といった様子でリナの革鎧や腰の短剣、それから手元に立てかけてある長棒を見つめていた。
「お姉ちゃん、衛兵さん?」
「そうだよ」
「強い?」
「え?」
思わぬ質問に、リナは身分証から顔を上げた。
「うーん……ちゃんと訓練はしてるから、それなりには強いかな」
「曖昧ナ返答ダナ」
「でも棒、長いよ!」
「長サト強サハ比例シナイ」
「…………」
リナは少し首を傾げた。
随分しっかりした子だ。というより、声色を変えるのが上手い。女の子自身の高く明るい声とは別に、妙に平坦で少しかすれた声まで使い分けている。
「お人形、かわいいね」
「ミリーっていうの!」
「ミリーちゃんか。ずっと一緒なの?」
「うん! 赤ちゃんのときから!」
「正確ニハ生後三カ月カラダ」
「へえ、そんな小さい頃からなんだ」
「うん!」
リナは笑顔で頷いた。
少し離れたところで別の入都者を確認していたカイルが、ふとこちらへ顔を向けた。女の子を見る。人形を見る。そしてリナを見る。
「…………」
何か言いたそうな顔をしたものの、すぐに自分の仕事へ戻った。
リナは気づかなかった。
「王都には遊びに来たの?」
「おばあちゃんのお家に行くの!」
「遊ビニ行クノデハナイ。泊マリニ行クノダ」
「そっか。お泊まりなんだね」
「うん! 三日泊まる!」
「四日ダ」
「三日だもん!」
「今日ヲ含メレバ四日ダ」
「でも、お母さん三回寝るって言ったよ?」
「宿泊日数ト滞在日数ハ異ナル」
「…………」
リナは思わず感心した。
「難しいこと知ってるねえ」
母親が口元を手で覆った。なぜか笑いを堪えているように見えた。
「お母さん?」
「い、いえ。何でもありません」
「?」
妙な親子だ。だが、変わった親子くらいなら南門にはいくらでも来る。
「おばあちゃんは王都のどの辺りに住んでるの?」
「パン屋さんの近く!」
「パン屋ハ王都ニ何軒アルト思ッテイル」
「……確かに、それじゃ分からないね」
「ミリーは細かいの」
「しっかりしてるんだね」
「細カイノデハナイ。オ前ガ大雑把ナノダ」
「もう!」
女の子が人形の頭をぽんぽんと叩いた。
リナは微笑ましくそれを眺める。どうやらこの子は、人形のミリーと会話する遊びが好きらしい。それにしても上手い。声を切り替えるたびに口元がほとんど動いていないように見える。
「おばあちゃんのお家で何するの?」
「お菓子食べる!」
「昨日モ五個食ベタ」
「三個だもん!」
「五個ダ」
「三個!」
「五個」
「三個!」
「五個ダ」
「……食べすぎたら、お腹痛くなっちゃうよ?」
リナが苦笑しながら間に入ると、女の子が勝ち誇ったような顔で人形を見る。
「ほら、ミリー! お姉ちゃんも三個ならいいって!」
「一言モ言ッテイナイ」
「そういう意味じゃないよ!?」
思わずリナまで突っ込む。
女の子が楽しそうに笑った。母親もとうとう肩を震わせ始めた。
「……お母さん、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫です。すみません」
「?」
今度はカイルがこちらを見ていた。
目が合う。
「何ですか?」
「いや」
「何です?」
「別に」
そう言いながら、カイルの口元がわずかに上がっている。
「……何か知ってます?」
「さあな」
「怪しい」
「仕事しろ」
「してます!」
「衛兵同士ノ私語ガ多イ門ダナ」
「すみません……」
反射的に謝ったあと、リナは少しだけ眉を寄せた。今のは妙に的確だった。
「ミリーちゃん、厳しいね」
「この子、いつもこうなの」
「口ウルサイ衛兵ヨリハマシダ」
「……本当に厳しいね」
リナは苦笑しながら身分証を母親へ返した。
「身分証は問題ありません。次にお荷物を確認しますね」
「はい。お願いします」
母親が旅行鞄を検査台へ載せる。
中に入っていたのは、親子二人分の着替え、洗面用具、小さな包みの土産物、乾燥果物、それから女の子用らしい絵本が二冊。衣服からは石鹸の淡い香りが漂い、きちんと畳まれた布地に指を滑らせると、何度も洗われた柔らかな感触が指先へ伝わってきた。
「これは?」
「母へのお土産です」
包みを開けてもらうと、中から出てきたのは焼き菓子だった。
「おいしそう!」
女の子が身を乗り出す。
「オ前ノ物デハナイ」
「一個くらいいいもん!」
「祖母ヘノ土産ダ」
「おばあちゃん、くれるもん!」
「ソレハ土産ヲ渡シタ後ノ話ダ」
「…………」
リナは検査を続けながら、つい笑ってしまった。
「ミリーちゃんには勝てないね」
「いつもこうなの!」
「教育係トシテ当然ダ」
「教育係なんだ?」
「そうだよ!」
「自称ダ」
「ミリーが言ったんでしょ!」
「昔ノ話ダ」
「どっちなの?」
リナが笑う。
親子の荷物に問題はなかった。あとは女の子が抱えている人形くらいだ。
普通の布人形に見えるが、門の検査では「子供の物だから」という理由だけで確認を省くわけにはいかない。内部に物を隠せる大きさも十分にある。
リナは女の子の前へしゃがみ込んだ。
「じゃあ最後に、そのお人形もちょっと見せてもらっていい?」
「うん!」
女の子は素直にミリーを差し出そうとした。
「断ル」
「大丈夫。すぐ終わるからね」
「断ルト言ッテイル」
「怖くないよ。服の下とか、変な物が入ってないか確認するだけだから」
「怖ガッテイルノデハナイ」
「すぐ返すから」
「人ノ話ヲ聞ケ」
「…………」
そこで、リナの手が止まった。
何かがおかしい。
目の前の女の子は、両手でミリーを差し出している。
口は閉じている。
しっかり閉じている。
「…………」
リナは女の子を見る。
女の子が首を傾げる。
「どうしたの?」
「…………」
リナの視線がゆっくり下がった。
布人形。
丸い顔。
黒い糸で縫われた目。
黒い糸で縫われた口。
もちろん動いていない。
「…………」
「何ヲ見テイル」
声は、間違いなく人形から聞こえた。
「…………」
リナの目が大きく見開かれる。
人形を見る。女の子を見る。もう一度、人形を見る。
「……え?」
「気付クノガ遅イ」
「しゃべってるぅぅぅ!?」
リナの声が南門へ響き渡った。
隣の列の旅人が一斉に振り返り、馬まで驚いたように耳を動かした。
「え!? ちょっと待って! ミリーちゃんがしゃべってる!?」
「うん?」
「『うん?』じゃなくて! しゃべるの!?」
「しゃべるよ?」
「さっきから!?」
「うん!」
当たり前のことを聞かれたような顔で女の子が頷く。
リナは口を半開きにしたまま、腕の中へ抱かれたミリーを指差した。
「じゃ、じゃあ、お菓子五個って言ったのも!?」
「ワタシダ」
「パン屋が何軒あると思ってるって言ったのも!?」
「ワタシダ」
「泊まる日数を訂正したのも!?」
「ワタシダ」
「私語が多いって言ったのも!?」
「ソレモワタシダ」
「ずっとあなたがツッコんでたの!?」
「ソウダ」
「なんで気づかなかったの、私!?」
「ソレハコチラガ聞キタイ」
「うるさい!」
人形に怒鳴ってから、リナははっとした。
「私、人形と喧嘩してる……」
「今更ダナ」
「誰のせいですか!!」
とうとうカイルが吹き出した。
「カイルさん!」
「いや、悪い。途中で気づくだろうと思ってたんだが」
「気づいてたんですか!?」
「最初の方でな」
「なんで教えてくれなかったんです!」
「途中から面白くなって」
「カイルさん!!」
「同僚ニモ見捨テラレタカ」
「あなたは黙ってて!!」
「断ル」
「なんなの、この人形!」
女の子がけらけら笑っている。母親も口元を押さえながら何度も頭を下げた。
「すみません。私たちは慣れているので、てっきり気づいていらっしゃるものだと……」
「全然気づいてませんでした!」
「見レバ分カルダロウ」
「見ても普通の人形でしょう!?」
「節穴ダナ」
「目はちゃんと見えてます!」
リナはそこまで言ってから、一度大きく息を吸った。
落ち着こう。相手がしゃべろうが何だろうが、今は検査中だ。
「……カイルさん」
「なんだ」
「これ、何なんですか?」
「魔導人形だな。珍しいけど、たまにある」
「知ってるんですか?」
「冒険者やってた頃に何度か見た」
「またそれですか……」
リナは改めてミリーを見る。布人形も見返している――ような気がする。縫い付けられた目は動いていないのに、先ほどまでとはまるで違って見えるから不思議だった。
「……ミリーさん」
「何ダ」
「検査します」
「断ル」
「駄目です」
「横暴ダ」
「門の検査です!」
「ワタシハ荷物デハナイ」
「でも持ち込まれる物ですよね!?」
「ワタシハ家族ダ」
そこで女の子が大きく頷いた。
「ミリーは家族だよ!」
「……そう言われると困るなあ」
リナは眉尻を下げた。だが検査をしないわけにはいかない。
「ごめんね。でも王都に入る物は確認しないといけないの。すぐ終わらせるから」
「…………」
ミリーが黙った。
「……駄目?」
「仕事ナラ仕方ナイ」
「分かってくれた?」
「ダガ、優シク扱エ」
「分かりました」
「乱暴ニスルナ」
「しません」
「服モ必要以上ニ捲ルナ」
「検査に必要なところだけです!」
「信用シテオコウ」
「なんで私が信用される側なんですか……」
女の子からミリーを受け取る。
見た目より少し重かった。布地は長年使われて柔らかくなっており、掌に乗せると、ところどころにある縫い目の小さな盛り上がりまで指先へ感じられる。女の子が毎日のように抱いているためか、布には石鹸と家の匂いが混じったような、ごく淡い香りが残っていた。
「……本当に普通の人形みたい」
「失礼ダナ」
「だって人形でしょう?」
「魔導人形ダ」
「そこ重要なんだ……」
服の内側、縫い目、背中、手足を慎重に確認していく。
「ちょっと腕を触るね」
「クスグッタイ」
「くすぐったいの!?」
「当然ダ」
「何が当然なの!?」
「ミリー、脇くすぐると笑うよ!」
「余計ナ情報ヲ教エルナ」
「笑うの!?」
「検査ニ集中シロ」
「人形に注意された……」
背中側には、小さな魔石らしい硬い感触があった。
「これが動力?」
「そうです」
母親が説明する。
「私の母が、この子が生まれたときに贈ってくれたんです。古い型の魔導人形らしくて、簡単な会話と記憶、それから危険を知らせる機能があるそうです」
「危険を?」
「はい。この子が一人で危ない場所へ行こうとしたり、知らない人について行こうとすると、大声で知らせてくれるんです」
「ナルベク一人ニスルナト言ッテイルノニ、コノ子ハスグ走ッテイク」
「だって遊びたいもん!」
「去年ハ市場デ三回迷子ニナッタ」
「二回!」
「三回ダ」
「二回!」
「最後ノ一回ハ本人ガ迷子ダト気付イテイナカッタダケダ」
「…………」
リナは思わず笑った。
「ちゃんと守ってるんだね」
「当然ダ」
それまで散々リナへ文句を言っていた声が、その一言だけ少し誇らしげに聞こえた。
「どのくらい一緒にいるの?」
「六年ト三カ月ト十一日ダ」
「そこまで覚えてるの?」
「大切ナ記録ダ」
女の子が嬉しそうに笑い、検査を終えて返されたミリーを胸へぎゅっと抱きしめた。
「ミリー、大好き!」
「苦シイ」
「ごめん!」
「……ダガ、許ス」
リナの頬が自然と緩んだ。
最初はただ驚いただけだった。口は悪い。細かい。いちいち余計なことを言う。けれど、色褪せた服や何度も縫い直された腕を見れば、この人形がどれだけ女の子と長い時間を過ごしてきたのかは分かる。
「いい相棒だね」
「うん!」
「当然ダ」
「そこは否定しないんだ」
「事実ダカラナ」
「ふふっ」
リナが笑う。
すると、ミリーがしばらく黙った。
「?」
「……笑ウト少シハ可愛イナ」
「一言余計!!」
カイルがまた笑った。
「何で最後に余計なもの足すんですか、この人形!」
「正直ナ感想ダ」
「正直なら何でも言っていいわけじゃありません!」
「面倒ナ衛兵ダナ」
「誰のせいですか!!」
女の子が腹を抱えて笑い始め、母親もとうとう堪えきれずに笑っている。
リナは赤くなった顔を手で扇ぎながら、最後の確認を終えた。
「……問題ありません。入都を許可します」
「ありがとうございます」
「ありがとう、お姉ちゃん!」
「うん。おばあちゃんのお家まで気をつけてね」
「うん!」
「道ニ迷ウノハ母ノ方ダガナ」
「ミリー!」
「事実ダ」
親子が歩き出す。女の子は片手で母親と手をつなぎ、もう片方の腕でミリーを大切そうに抱えていた。
「衛兵のお姉ちゃん、ばいばーい!」
「ばいばい!」
リナも笑顔で手を振る。
すると、女の子の腕の中から平坦な声が飛んできた。
「世話ニナッタ」
「ミリーも元気でね!」
「最初ハ頼リナイ衛兵カト思ッタガ、悪クナカッタ」
「聞こえてるからね!?」
「耳ハ良イラシイ」
「普通に聞こえる距離でしょう!!」
女の子の楽しそうな笑い声が、母親と一緒に王都の人混みへ遠ざかっていく。
リナはその後ろ姿を見送りながら、ふう、と息を吐いた。
「……しゃべる人形なんているんですね」
「いるぞ」
「知ってるなら最初に教えてくださいよ」
「いや、普通は気づく」
「気づきませんでした!」
「人形と十回以上会話してたぞ」
「女の子が声を変えてると思ったんです!」
「口、動いてなかっただろ」
「そこまで見てませんよ!」
「衛兵としてどうなんだ、それ」
「うっ」
痛いところを突かれた。
リナは唇を尖らせながら、次の入都者へ向き直る。
南門には、本当にいろいろな者がやって来る。人間も、獣人も、エルフも、デュラハンも、アラクネも、そしてどうやら人形まで。
しかも人形だからといって、静かにしているとは限らないらしい。
【リナの日記】
今日、人形と会話した。
正確には、
人形と会話していることに気づかないまま、
ずっと人形と会話していた。
女の子が声を変えているんだと思っていた。
違った。
全部ミリーだった。
お菓子五個も。
パン屋が何軒あると思ってるも。
私語が多いも。
全部ミリー。
検査するまで気づかなかった。
カイルさんは途中で気づいていた。
教えてくれなかった。
絶対に許さない。
でも、ミリーはいい人形だった。
口は悪い。
ものすごく悪い。
でも、六年以上ずっとあの子を守っている。
大切な相棒なんだと思う。
あと、
「笑うと少しは可愛い」
と言われた。
少しは、が余計。
人形にまで言葉で負けた気がする。




