第20話 新人衛兵とナンパ男
午後の王都南門には、昼を過ぎても人の流れが絶える気配がなかった。街道を吹き抜けてきた風が石畳の上を薄く撫で、荷馬車が通るたびに舞い上がる乾いた土の匂いへ、馬の汗や革具、それに門前の露店から漂ってくる焼き菓子の甘い香りが混ざっている。
リナは検査台の前に立ち、受け取った身分証を一枚ずつ確認していた。
「はい、問題ありません。どうぞ」
商人へ身分証を返し、荷物をまとめた男が王都の中へ入っていくのを見送ると、リナは次の来訪者へ顔を向けた。
列の先頭にいたのは、一人の若い男だった。二十代前半くらいだろうか。少し長めの栗色の髪を後ろへ流し、旅装ではあるものの、上着も長靴もよく手入れされている。腰には護身用らしい細身の剣を下げ、背中には革張りの楽器ケースを背負っていた。
そして、顔立ちが整っている。
それだけなら、リナも特に気にしなかった。
問題は、その男が列の先頭へ来たときから、ずっとリナを見ていたことだった。
「…………」
リナが見る。男も見る。目が合うと、男は慣れた仕草で柔らかく微笑んだ。
何となく嫌な予感がして、リナは先に視線を受け渡し台へ落とした。
「次の方、どうぞ。身分証をお願いします」
「もちろん。――ただ、その前に一ついいかな?」
「何でしょう」
「王都の南門には、こんな綺麗な花が咲いているんだね」
「……花?」
思わず背後を振り返った。石壁と詰所と、通行人しかいない。
「君のことだよ」
「…………」
リナの動きが止まった。
「リナ、身分証」
隣の検査列からカイルの声が飛んできた。
「わ、分かってます!」
男は楽しそうに笑いながら身分証を差し出した。
「レオ・アルディス。二十一歳。吟遊詩人……ですね」
「そう。名前を呼んでもらえると嬉しいものだね。今度は君の名前も聞きたいな」
「私の名前は検査に関係ありません」
「じゃあ、名前を知らないまま君を想うことにするよ」
「想わなくていいです!」
いきなり調子を崩された。リナは頬に集まり始めた熱を無視し、身分証の肖像と本人の顔を見比べる。
「そんなに見つめられると照れるな」
「本人確認です!」
「残念だ」
「何がですか!」
「少しくらい僕に興味を持ってくれたのかと思った」
「持ってません!」
「即答するところも素敵だね」
「…………」
返す言葉が一瞬見つからなかった。
隣から小さな笑い声が聞こえた。
「……カイルさん」
「仕事しろ」
「してます!」
「なら俺を見るな」
「そっちが笑うからでしょう!」
レオが興味深そうに二人を見る。
「仲がいいんだね」
「普通の同僚です」
「そうか。それを聞いて安心した」
「なんであなたが安心するんですか!」
駄目だ。この男の会話に付き合ってはいけない。
リナはそう判断し、意識して表情を引き締めた。
「入都の目的は?」
「仕事だよ。王都の酒場で演奏を頼まれていてね」
「店の名前は?」
「《踊る鹿亭》。もっとも、さっき一つ目的が増えたけど」
「……増えた?」
「君に会うことかな」
「質問に答えてください!!」
「答えたよ。最初の目的は仕事だ」
にこりと笑われ、リナは唇を引き結んだ。
「滞在予定は?」
「七日ほど」
「滞在先は?」
「同じく《踊る鹿亭》。君が仕事を終えたあと来てくれるなら、二人分の席を取っておこう」
「行きません!」
「即答するところもいいね」
「…………」
黙る。
「黙って困ってる顔も可愛い」
「じゃあどんな顔してればいいんですか!?」
「笑ってくれたら一番嬉しい」
「~~~~っ!」
顔が熱い。完全に遊ばれている。分かっているのに、何を返しても次の言葉が飛んでくる。
「……リナ」
カイルが呼んだ。
「何ですか!」
「名前、知られたぞ」
「…………」
リナはゆっくりカイルを見る。
「カイルさん」
「悪い」
「絶対悪いと思ってませんよね!?」
「リナか。いい名前だ」
「忘れてください!」
「それは難しいお願いだな」
リナは額を押さえたくなるのを堪えた。
嘘をつく鳥も来た。首の外れる騎士も来た。巨大なミノタウロスも、竜人も、菌人種も、ドレスの中に本当の身体を隠したアラクネも来た。
最近では、そういう相手にも以前ほど慌てなくなった。
それなのに、目の前のただの人間の男ほど、どう対処すればいいのか分からない。
「……荷物を確認します」
「どうぞ。僕の秘密まで知りたければ、それも構わないよ」
「荷物だけです!」
楽器ケースの中には、磨き込まれた弦楽器が収まっていた。木肌には使い込まれた細かな傷があり、弦へ軽く触れると低く柔らかな音が震えた。
「綺麗な楽器ですね」
思わず口にすると、レオが微笑む。
「ありがとう。でも、今は楽器より君の方が――」
「言わなくていいです!」
「まだ何も言ってないよ?」
「分かります!」
「僕のことを理解してくれて嬉しいな」
「そういう意味じゃありません!」
隣からカイルが咳払いする音が聞こえた。絶対に笑っている。
リナは無視し、旅鞄を開かせた。着替え、楽譜、筆記具、予備の弦、楽器用の手入れ油、石鹸、乾燥肉。旅慣れた吟遊詩人らしい、ごく普通の荷物ばかりだった。
「危険物はありますか?」
「あるよ」
レオが即答した。
リナの表情が変わる。
「どこです?」
レオは静かに自分の胸へ手を当てた。
「君に射抜かれた、この心かな」
「…………」
リナは無言で次の荷物を取り出した。
「無視は寂しいな」
「危険物じゃないので無視しました」
「なかなか手厳しい」
「普通です!」
「でも、少し頬が赤い」
「暑いんです!」
「今日は涼しいよ」
「革鎧着てるんです!」
「なるほど。それなら納得しておこう」
意外にもそこで引いたため、リナは少しだけ肩の力を抜いた。
口は軽いが、荷物検査にはきちんと協力している。身分証にも不審な点はなく、腰の細身の剣も旅人の護身用として認められる範囲だった。
「剣も問題ありません。あとは――」
リナが確認を続けていると、レオの視線が手元の長棒へ向いた。
「君はそれを使うんだね」
「はい。得意武器です」
「なるほど。見た目よりずっと武闘派なんだ」
「衛兵ですから」
「真面目で、可愛くて、強い。ますます魅力的だ」
「一個ずつ増やさないでください!」
「事実を並べただけだよ」
「褒めなくていいです!」
「褒めてるんじゃない。思ったことを言ってるだけだ」
「…………」
また返せない。
「もしかして、照れてる?」
「照れてません!」
「じゃあ、その赤い頬は夕陽かな」
「まだ昼です!」
「なら僕のせいだ」
「なんでそうなるんですか!!」
カイルがとうとう背中を向けた。肩が揺れている。
「カイルさん!!」
「悪い。続けてくれ」
「後で覚えててくださいね!」
リナは大きく息を吸い、気持ちを切り替えた。
仕事だ。これは仕事だ。相手が何を言おうと、必要な確認を済ませればいい。
「……確認できました。荷物にも問題ありません」
「それはよかった」
「身分証をお返しします」
リナが差し出した身分証を受け取ったレオは、そのまま帰る――と思った。
だが、彼は検査台の横から一歩近づいてきた。
「……近いです」
「そうかな?」
「近いです」
リナが眉を寄せても、レオは悪戯っぽい笑みを崩さなかった。
「そんなに怖い顔をしないでくれ」
「仕事中なんです!」
「分かってるよ。ただ――」
レオが手を伸ばした。
指先が、リナの顎へそっと触れた。
「…………え?」
突然の接触に、それまで何とか動いていたリナの思考が一瞬で止まった。
顎に触れた指先の温度。すぐ近くにある整った顔。こちらをまっすぐ見つめる目。
レオが、ほんの少しだけ顔を近づける。
「こうして見ると、本当に――」
「――っ!」
考えるより先に身体が動いた。
リナは顎へ添えられた手首を掴み、半歩外へ身体をずらしながら腕を捻った。相手の重心が浮いたところへ足を掛け、その勢いを利用して一気に崩す。
「うわっ!?」
どさり、とレオの背中が石畳へ落ちた。
その腕を取ったまま、リナは膝をついて身体を押さえ込む。
「…………」
「…………」
数秒遅れて、リナ自身が何をしたのか理解した。
「……あ」
レオは石畳の冷たさに顔をしかめながら、それでも首だけを少し動かしてリナを見た。
「そんな君も……素敵だな」
「まだ言うんですか!?」
「イテテテテ! 腕! 腕はもう少し優しく!」
「だったら余計なこと言わないでください!」
「リナ」
カイルの落ち着いた声がした。
「何ですか!」
「そろそろ離してやれ。逃げる気はなさそうだ」
「……はい」
リナが手を離すと、レオはゆっくり起き上がり、捻られていた肩をさすった。
「いやあ……驚いた」
「勝手に触るからです!」
「それについては僕が悪かった。すまない」
今度はふざけず、レオはきちんと頭を下げた。
「言葉でからかうくらいならともかく、嫌がっている相手に勝手に触れるべきじゃなかった」
素直に謝られると、怒り続けるのも難しい。
「……分かってくれればいいです」
「ありがとう。でも、なるほど。見た目よりずっと強いんだね」
「衛兵ですから!」
「そこも魅力的だ」
「反省どこ行ったんですか!!」
「反省と感想は両立するよ」
「しなくていいです!」
カイルが小さく吹き出した。
「元気そうだな」
「口だけはね。……イテテ」
「そこに感心しないでください!」
それからのレオは、さすがに学習したらしい。リナとの間にきっちり一歩分以上の距離を取り、もう手を伸ばそうとはしなかった。
ただし、口は止まらなかった。
「それでは改めて。問題ありません。入都を許可します」
「ありがとう、リナ」
「気安く名前で呼ばないでください」
「衛兵さん」
「……はい」
「さっきは本当にすまなかった」
「次からは、嫌がっている女性に勝手に触らないでください」
「肝に銘じるよ」
「本当にお願いします」
「身をもって学んだからね。まだ肩が痛い」
「……それはすみません」
「でも君に投げられたなら、悪くない思い出に――」
「もう一回やります?」
「やめておこう」
即答だった。
レオは荷物を背負い直すと、今度こそ王都へ向かって歩き出した。
三歩。四歩。五歩。
そして振り返る。
「…………」
リナが警戒した目を向ける。
「何ですか」
「そんなに警戒しなくても、もう近づかないよ」
「なら何です?」
「最後に一つだけ」
「……どうぞ」
レオは十分な距離を保ったまま、柔らかく笑った。
「今日会った女性の中で、君が一番素敵だったよ」
「…………」
また来た。
けれど、ここまで散々やられたのだ。リナも負けてばかりではいられない。
「……まだ昼です」
「ん?」
「今日これから、もっと素敵な女性に会うかもしれませんよ」
言えた。
リナは内心で小さく拳を握った。
レオが目を丸くする。
初めて、ほんの一瞬だけ、あの男から言葉を奪った。
「…………」
勝った。
そう思った直後、レオが嬉しそうに笑った。
「なるほど。じゃあ明日、また君が一番か確認しに来よう」
「来なくていいです!!」
レオは笑いながら手を振り、人混みの向こうへ消えていった。
「…………」
リナは長棒を握ったまま、その背中を見送った。
隣からカイルが言う。
「惜しかったな」
「何がですか」
「一瞬勝ったと思ったんだが」
「私も思いました!」
「言葉では最後まで勝てなかったな」
「一回倒しました!」
「それは会話じゃない」
「…………」
リナが睨むと、カイルはとうとう堪えきれずに笑い出した。
「しかし、お前も成長したな」
「……今の流れで言われても嬉しくないんですけど」
「ゴブリンだろうがデュラハンだろうがミノタウロスだろうが、最近はずいぶん落ち着いて対応できるようになった」
「それは……まあ」
「で、普通の男に口説かれると駄目、と」
「…………」
「弱点が分かったな」
「分からなくていいです!!」
リナの声が南門へ響き、次の来訪者が何事かと目を丸くした。
人外の来訪者にも、妙な荷物にも、少しずつ慣れてきた。
けれど衛兵の仕事には、どうやらまだ知らない種類の難敵がいるらしい。
ただし、ナンパへの対処が衛兵の必修科目なのかどうかだけは、リナにも分からなかった。
【リナの日記】
今日、吟遊詩人が来た。
キザだった。
ものすごくキザだった。
何を言っても口説き文句で返された。
怒っても褒められた。
睨んでも褒められた。
黙っても褒められた。
じゃあどうすればいいんですか。
途中で顎を触られた。
近かった。
ものすごく近かった。
なので倒した。
身体が勝手に動いた。
衛兵の訓練ってすごい。
でも倒したあとまで「素敵だ」と言われた。
意味が分からない。
痛いなら黙ってればいいのに。
最後も負けた。
悔しい。
カイルさんには弱点が分かったと言われた。
分からなくていいです。
あと、明日は来なくていいです。
本当に。




