第19話 新人衛兵と挙動不審な男
昼を少し過ぎた王都南門には、朝の混雑が一段落した後にもかかわらず、途切れることなく人の列が続いていた。
秋の気配を含み始めた風が街道から乾いた土の匂いを運び、荷馬車の車輪が石畳を軋ませる音に、商人たちの声や馬の鼻息が重なっている。頭上には薄い雲が流れていたものの陽射しはまだ暖かく、革鎧を着たまま立ち続けているリナの背中には、じんわりと汗が滲んでいた。
「はい、問題ありません。どうぞ」
農夫から身分証を返して荷車を通すと、リナは次の来訪者を呼ぶために顔を上げた。
「次の方、どうぞ」
「は、はい!」
妙に大きな返事が返ってきた。
列の先頭にいたのは、二十代半ばほどに見える人間の男だった。
少しくたびれた茶色の上着に丈夫そうなズボン、履き込まれた革靴。背中には旅用の鞄を背負い、腰には鞘に収まった小さな短剣が一本ある。髪も目も茶色で、体格も中肉中背。角もなければ尻尾もなく、首が外れそうにも見えず、服の下に蜘蛛の身体を隠しているようにも見えない。
どこからどう見ても、ごく普通の人間だった。
ただし。
ものすごく怪しかった。
男はリナに呼ばれた瞬間、肩をびくりと跳ねさせると、背負っていた鞄の肩紐を両手で握り締めた。そのまま検査台へ近づいてくるのだが、なぜかリナの顔だけは絶対に見ようとしない。右を見て、左を見て、門柱を見て、足元の石畳を見ている。
そのくせ、時折ちらりとリナを確認する。
目が合いそうになる。
逸らす。
また見る。
逸らす。
リナは黙ったまま、その様子を目で追った。
「……身分証をお願いします」
「はい!」
男は懐へ勢いよく手を入れた。
リナの右手が反射的に腰の短剣へ近づく。
「あっ、違います! 身分証です! 身分証!」
「……はい」
取り出されたのは、確かに身分証だった。
リナはそれを受け取り、記載された名前と年齢、出身地を確認してから、本人確認のために顔写真へ目を移した。
茶色い髪。
やや垂れた目。
細めの鼻。
顎の近くに小さなほくろ。
リナは身分証から顔を上げた。
男は門柱を見ていた。
「…………」
リナは顔写真を見る。
男を見る。
門柱を見ている。
少し右へ身体をずらして、正面から顔を確認しようとする。
男の顔も左へ動いた。
「…………」
リナが左へ動く。
男が右へ動く。
「……あの」
「はい!」
「本人確認ができないので、こっちを向いてもらえます?」
「あっ……す、すみません!」
男が慌てて正面を向いた。
ようやく顔写真と本人の顔を並べて確認できる。
髪型も同じ。目元も同じ。ほくろの位置も一致している。
リナは念のため目を見る。
男と目が合った。
「…………」
「…………」
男の身体がぴたりと止まった。
瞬きすらしない。
肩が強張り、口元が引き結ばれ、まるで身体の動かし方を忘れてしまったかのように固まっている。
そして次の瞬間、勢いよく横を向いた。
リナの眉がぴくりと動いた。
「……私、メデューサですか?」
「えっ?」
「さっきから目が合うたびに固まってますけど。石になるんですか?」
「ち、違います!」
隣で別の荷物を確認していたカイルが、眠たげな目だけをこちらへ向けた。
「いや、ある意味もう石になってるな」
「カイルさん」
「見ろ。肩なんか完全に固まってるぞ」
言われてリナが見ると、確かに男の肩には妙な力が入ったままだった。
「……本当に固まってるじゃないですか」
「す、すみません……!」
「謝るところなんですか、これ……?」
男は答えず、また足元へ視線を落とした。
リナの中で、さっきまで半分冗談だった警戒心が少しだけ重くなる。
身分証は、見た限りではおかしくない。顔も一致している。
だが、挙動があまりにも不自然だった。
「王都へ来た目的を聞いてもいいですか?」
「か、観光です!」
返事が早い。
早すぎる。
「観光?」
「はい!」
「お一人で?」
「はい!」
「どちらから来られました?」
「東から――」
男が止まった。
「…………」
リナの目が細くなる。
「東?」
「に、西です!」
「…………」
「西です!」
「今、東って言いましたよね?」
「言ってません!」
「言いました」
「…………」
男の額から汗が一筋流れた。
「……言いました」
リナは黙って男を見る。
男はリナを見ない。
横で聞いていたカイルが小さく息を吐いた。
「リナ」
「はい」
「そいつ、尋問したら聞いてないことまで全部喋るタイプだぞ」
「まだ尋問してません」
「そ、そうなんですか!?」
「あなたが驚くところじゃないです」
リナは身分証を検査台へ置き、男の旅鞄へ視線を移した。
「荷物を確認させてください」
「…………はい」
今度の返事は、明らかに小さかった。
怪しい。
リナはそう判断し、男にも見えるようにゆっくりと鞄を開いた。
中から最初に出てきたのは、着替えだった。
シャツが二枚。
下着。
布に包まれた石鹸。
木製の櫛。
小さな水筒。
干し肉。
硬そうなパン。
予備の靴下。
どれも旅人なら珍しくもない物ばかりで、触れて確かめても妙な感触はない。鞄の底にも不自然な二重底は見当たらず、鼻を近づけても石鹸と革、それに干し肉の塩気を含んだ匂いがする程度だった。
「…………」
「…………」
リナが調べる。
男が見ている。
リナが男を見る。
男が目を逸らす。
「……何か入ってます?」
「な、何がですか?」
「それを聞いてるんですけど」
「何もありません!」
「じゃあ、そんなに緊張しなくてもいいでしょう」
「はい!」
まったく緊張が解けていない。
リナは鞄の奥へ手を入れた。
指先に柔らかな感触が触れる。
「これは……」
取り出したのは、小さな花束だった。
旅の途中で傷まないよう、茎の部分には湿らせた布が巻かれている。白と薄桃色の小さな花がまとめられており、少し萎れかけてはいるものの、ほのかな甘い香りがした。
男の顔が赤くなる。
「花ですね」
「はい……」
「これは問題ありません」
「はい……」
リナは花束を傷つけないよう検査台の端へ置き、さらに鞄を調べた。
今度は小さな布包みが出てきた。
開く。
中に入っていたのは、細かな花模様が彫られた女性用の髪飾りだった。
「…………」
「…………」
男の顔がさらに赤くなった。
「これもあなたの物ですか?」
「はい!」
「女性用に見えますけど」
「盗んでません!」
「まだ何も言ってません」
「すみません!」
「なんで謝るんですか」
カイルが小さく笑った。
「やっぱり勝手に喋るな」
「笑ってないで手伝ってください」
「そっちはお前の担当だ」
リナは髪飾りを布へ戻し、検査を続ける。
すると鞄の底近くから、硬い小さな物が指先に触れた。
取り出す。
手のひらに収まるほどの、小さな木箱だった。
その瞬間だった。
男の喉が、ごくりと鳴った。
リナはその音を聞き逃さなかった。
「…………」
「…………」
「これは?」
「…………」
「開けますね」
「は、はい……」
蓋を開ける。
中には、銀色の指輪が一つ収まっていた。
派手な宝石が付いたものではない。だが、表面には細かな蔓草の意匠が彫られ、丁寧に磨かれている。安物には見えなかった。
リナは指輪を見る。
男を見る。
男は石畳を見る。
「これ、どこで買いました?」
「村の宝飾店です!」
男が勢いよく答えた。
「店の名前は?」
「《銀鈴堂》です!」
「いつ?」
「六日前です!」
「いくらでした?」
「銀貨十二枚です!」
「自分で買ったんですね?」
「はい!」
「誰かから譲られた物ではなく?」
「違います!」
さっきまで曖昧だった受け答えが嘘のように具体的だった。
リナは指輪を光へかざし、内側まで確認する。店の物らしい小さな刻印もある。少なくとも男の様子だけを見れば、入手経路を誤魔化そうとしているようには感じられなかった。
「……分かりました」
リナが指輪を箱へ戻すと、男の肩からほんの少しだけ力が抜けた。
「誰かへの贈り物ですか?」
「…………はい」
男の耳まで赤くなった。
リナは花束を見る。
髪飾りを見る。
指輪を見る。
そして男を見る。
男は見ない。
「ああ……」
ようやく全部がつながった。
「王都にいる女性に会いに来たんですね?」
「はい……」
「それで、さっきからそんなに緊張してたんですか?」
「……はい」
リナは小さく息を吐いた。
何か犯罪に関係する事情でも隠しているのかと警戒していたが、どうやら違ったらしい。
好きな女性へ会いに来るため、花束と髪飾り、それに指輪まで用意して、緊張しすぎて挙動不審になっていた。
そう考えれば、妙に納得できる。
「東って言ったのは?」
「あれは、その……緊張して間違えました」
「本当に西から?」
「はい!」
身分証にも西部の村の名前が記載されている。
リナは最後に短剣を確認した。一般的な旅用の護身武器で、刃渡りにも問題はなく、本人も最初から隠していない。
荷物にも禁制品はない。
身分証にも問題なし。
挙動は果てしなく怪しいが、挙動が怪しいというだけで入都を拒否する理由にはならない。
リナは検査した品々を鞄へ戻し、花束だけは潰れないよう男へ直接渡した。
「お待たせしました。問題ありません」
「あ……!」
男がようやく顔を上げた。
リナは身分証を差し出す。
「入都を許可します」
「ありがとうございます!」
男は両手で身分証を受け取り、大事そうに懐へしまった。その顔には、門へ来たときから張り付いていた緊張が少しだけ薄れている。
リナもつられて口元を緩めた。
「……うまくいくといいですね」
「え?」
「その女性と」
「あ……はい!」
男の顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます!」
何だ。
普通に恋する青年だった。
最初はどうなることかと思ったが、好きな人へ会いに行くのなら緊張するのも無理はないのかもしれない。
指輪まで用意しているのだから、きっと長い付き合いなのだろう。
リナは鞄を背負い直す男を見ながら、何気なく尋ねた。
「長いんですか?」
「え?」
「その女性とのお付き合いです。指輪まで用意してるくらいですから」
「…………」
男の動きが止まった。
さっきまで気怠そうに別の列を眺めていたカイルが、ゆっくりこちらへ顔を向けた。
「……どうしました?」
「いえ……」
男はまた石畳を見た。
「長くは……ないです」
「最近付き合い始めたんですか?」
「いえ……」
リナの笑顔が少しずつ消えていく。
「……じゃあ、どのくらいなんです?」
「その……」
男は指先をもじもじと動かした。
頬を赤くし、恥ずかしそうに俯いたまま、小さな声で答えた。
「まだ一度も話したことはないんですが」
「…………」
リナは瞬きをした。
カイルも瞬きをした。
南門の向こうで、荷馬車の車輪がごとごとと石畳を鳴らして通り過ぎていった。
「……はい?」
「まだ、一度も話したことはありません」
「話したことないんですか!?」
「はい!」
「なのに指輪!?」
「はい!」
「髪飾りも!?」
「はい!」
「花束まで!?」
「はい!」
「順番がおかしいです!!」
リナの声が南門に響いた。
近くにいた旅人が何事かと振り返り、隣の検査列にいた衛兵までこちらを見る。
男は驚いて肩を縮めた。
「そ、そうなんですか?」
「そうですよ!」
「でも父が、惚れた女性ができたら男は覚悟を見せろと……」
「お父さん、途中の説明を省きすぎです!」
カイルが額を押さえた。
「待て。話したことがないってことは、相手はお前のことを知ってるのか?」
「…………」
「知ってるんだよな?」
「……たぶん」
「たぶん!?」
今度はリナが声を上げた。
「以前、王都へ来たときに見かけたんです。パン屋で働いていて……とても素敵な方で……」
「それだけ?」
「はい」
「名前は?」
「…………」
「名前」
「……分かりません」
リナは両手で顔を覆いたくなった。
「名前も知らないんですか!?」
「でも、顔は覚えてます!」
「そこじゃありません!」
カイルが腕を組み、男をじっと見る。
「まずパンを買え」
「……パンですか?」
「パン屋なんだろ」
「はい」
「なら客として店に行け。パンを買え。挨拶しろ。まずそこからだ」
男は目を丸くした。
「指輪は?」
「しまっとけ」
「髪飾りは?」
「しまっとけ」
「花束は?」
カイルは少し考えた。
「……それも今日はやめとけ」
「全部駄目じゃないですか!」
「初対面なんだから当然だ!」
思わずリナが突っ込むと、男はしゅんと肩を落とした。
「では……どうすれば……」
あまりにも本気で困っている顔をされ、リナは一度息を吐いてから指を一本立てた。
「まず、お店に行きます」
「はい」
「パンを買います」
「はい」
「挨拶します」
「はい」
「できれば名前を聞きます」
「はい!」
「何度か話します」
「はい!」
「それから少しずつ仲良くなってください」
「はい!」
「指輪は?」
「…………まだ渡さない」
「正解です」
男の表情が、今日初めて試験に正解した子供のように明るくなった。
カイルが横から付け加える。
「あと、相手が嫌がったらちゃんと引けよ」
「はい!」
「そこは大事です」
リナも念を押すと、男は今度こそ真剣に何度も頷いた。
そして鞄の奥へ指輪と髪飾りをしっかりしまい、花束も丁寧に包み直す。
「まず……パンですね」
「はい」
「パンを買います!」
「頑張ってください」
「ありがとうございます!」
男は深々と頭を下げると、鞄を背負い直して王都へ向かおうとした。
だが、二、三歩進んだところで、その足が止まった。
「……?」
リナが首を傾げると、男はゆっくり振り返った。
そして、今まで散々避け続けていたリナの顔を、今度は正面から見た。
「…………」
目が合う。
男の肩が強張った。
やっぱり固まった。
それでも今度は目を逸らさなかった。頬を赤くしながら必死にその場へ踏みとどまり、何かを確かめるようにリナの顔を見つめている。
リナは嫌な予感がした。
「……どうしました?」
「その……」
「はい」
男は一度唾を飲み込んだ。
「リナさんも……素敵な女性だと思います」
「…………」
リナが固まった。
今度は男ではなく、リナの方が完全に動きを止める。
男は言えたことに満足したのか、顔を真っ赤にしながら勢いよく頭を下げた。
「では!」
「あ、はい……」
そのまま逃げるような足取りで王都の中へ去っていく。
リナは見送った。
何も言わずに見送った。
やがて男の背中が人混みの向こうへ消える。
「…………」
頬が少し熱い。
不意打ちだった。
さっきまで女性と目すら合わせられなかった男が、最後の最後で正面からそんなことを言ってくるとは思わなかった。
隣からカイルの声がした。
「よかったな」
「……何がですか」
「石にならずに言えたぞ」
「そこですか!?」
「成長したじゃないか」
「数分で!?」
カイルは口元を緩めながら、男が消えた方向を見る。
「まあ、あれならパン屋でも一言くらいは喋れるかもな」
「……そうですね」
リナも少しだけ笑った。
少なくとも、目を合わせるところから始める必要はなくなったらしい。
そう思ったところで、カイルがぽつりと言った。
「で、リナ」
「はい?」
「顔赤いぞ」
「赤くないです!」
「素敵な女性だってさ」
「聞こえてましたから!!」
反射的に声を上げたリナの耳まで熱くなり、それを見たカイルがますます楽しそうに笑った。
「……大丈夫でしょうか、あの人」
「話を逸らしたな」
「次の人呼びます!!」
リナは誤魔化すように検査台へ向き直り、列の先頭へ声をかけた。
【リナの日記】
今日、ものすごく挙動不審な男の人が来た。
目を合わせない。
質問すると固まる。
東から来たと言った直後に西だと言う。
荷物を調べると汗をかく。
正直、何かあると思った。
でも何もなかった。
花束が出てきた。
髪飾りが出てきた。
最後に指輪まで出てきた。
恋人に会いに来たのかと思った。
違った。
まだ一度も話したことがなかった。
名前すら知らなかった。
なのに指輪は買っていた。
どうして。
カイルさんは「まずパンを買え」と言った。
今日一番正しい助言だったと思う。
それから帰り際に、私のことを「素敵な女性だと思います」と言ってきた。
あれだけ目を合わせられなかったのに。
急に成長しすぎじゃないですか。
あと、私はメデューサではない。
目が合っても石にはならない。
今日は私の方が固まったけど、それは石化ではない。
たぶん。




