第18話 新人衛兵とドレスの女性
昼を少し過ぎた王都南門には、秋の気配を含んだ乾いた風が街道から吹き込み、門前に並ぶ荷馬車の幌や旅人たちの外套の裾をときおり大きく揺らしていた。高くなった空から降り注ぐ陽射しはまだ暖かいものの、石造りの門楼が落とす影へ入れば空気はひんやりとしており、長時間立ち続けているリナの頬にも、汗を乾かしていく風の冷たさが心地よく感じられる。
午前中の混雑が一段落したとはいえ、南門を利用する者が途切れることはなく、野菜を積んだ荷車を引く農夫、旅装姿の商人、剣を腰に下げた冒険者らが順番を待っていた。馬の汗と乾いた土、荷車から漂う野菜や果物の匂いが混ざり合う中、リナは一人ずつ身分証と荷物を確認し、問題がなければ王都の中へ送り出していく。
「はい、問題ありません。入都を許可します」
「ありがとう」
中年の商人へ身分証を返したリナは、その男が荷車を押して門内へ入っていくのを見送ってから、次の者へ声をかけようと顔を上げた。
そこで、少しだけ目を瞬かせた。
次に待っていたのは、小柄な若い女性だった。
淡い銀色の長い髪を綺麗に整え、白い肌と灰色がかった瞳を持つその女性は、年齢こそリナより少し上に見えるものの、背丈はリナより明らかに低い。柔らかな色合いの上着と上品なロングドレスを身につけており、街道を旅してきた者にしては服装が妙に整っている。
顔立ちも穏やかで、こちらを見つめる灰色の瞳には落ち着きがあり、少し目尻を下げて微笑む姿からは、荒事とは無縁の仕立屋か商家の娘といった印象を受けた。
ただし、一つだけ妙なところがある。
ドレスが、やたらと広い。
腰から下へ大きく膨らんだスカートは、小柄な身体には不釣り合いなほど横幅があり、王都の貴族女性が夜会で身につける礼装よりもさらに裾が広い。しかも旅装にもかかわらず、その形がほとんど崩れていない。
風が吹いても、裾の一部がわずかに揺れるだけだった。
「…………」
リナは思わずドレスを見る。
女性の顔を見る。
またドレスを見る。
「どうかなさいました?」
「あっ、いえ!」
柔らかく尋ねられ、リナは慌てて姿勢を正した。
「すみません。少し珍しいドレスだなと思って」
「ふふ。よく言われますわ」
女性は気を悪くした様子もなく、自分のドレスへ視線を落とした。
「私の身体に合わせて、自分で仕立てたものですの」
「ご自分で?」
「ええ」
「すごいですね」
リナは素直に感心した。
近くで見ると、布地そのものもかなり上等だった。陽光を受けるたびに細かな光沢が浮かび、絹にも似ているが、それよりわずかに透明感がある。風に揺れた裾が擦れ合う音も普通の布より軽く、さらさらと乾いた葉が触れ合うような音を立てていた。
「では、身分証をお願いします」
「はい。こちらですわ」
女性が小さな鞄から身分証を取り出す。
白い指先からそれを受け取ったリナは、いつものように表紙を開き、最初に名前と肖像へ目を向けた。
「…………」
動きが止まった。
もう一度見る。
「…………?」
身分証を少し顔へ近づける。
肖像を見る。
目の前の女性を見る。
また肖像を見る。
明らかに違う。
「あの……」
「はい?」
女性は変わらず微笑んでいる。
「失礼ですが、これ……ご本人の身分証ですか?」
「ええ。もちろんですわ」
「そうですか……」
リナはもう一度確認した。
名前は女性名。
年齢にも特に不自然な点はない。
種族欄には――《アラクネ》。
そして肖像欄。
そこに描かれているのは、どう見ても蜘蛛だった。
丸みのある頭胸部。
複数の小さな眼。
口元には短い触肢。
少なくとも、目の前で上品に微笑んでいる銀髪の女性とは似ても似つかない。
「…………蜘蛛?」
思わず声に出た。
「はい」
「…………」
「…………」
リナは身分証を見る。
女性を見る。
もう一度身分証を見る。
横で別の書類を確認していたカイルが、リナの様子がおかしいことに気づいたらしく、身体を起こして近づいてきた。
「どうした?」
「カイルさん」
「なんだ」
「顔が一致しません」
「身分証違いか?」
「それが、ご本人のだそうです」
「どれ」
カイルへ身分証を見せる。
「…………」
カイルも黙った。
「蜘蛛ですよね?」
「蜘蛛だな」
「ですよね?」
「アラクネって書いてあるな」
「書いてあります」
二人が揃って身分証を見つめていると、女性が小さく首を傾げた。
「何か問題が?」
「あの」
リナはできるだけ失礼にならないよう言葉を選びながら、身分証の肖像を女性へ向けた。
「こちらのお顔と、今の……その、お顔が一致しないんです」
「ああ」
女性はようやく納得したように頷いた。
「こちらですのね」
そう言って、自分の頬へ手を添える。
「はい」
「こちらは擬態ですわ」
「…………」
一瞬、言葉の意味が頭へ入ってこなかった。
「擬態?」
「ええ」
女性は何でもないことのように微笑んだ。
「人間の方々とお話しするときには、こちらの姿の方が都合がよろしいでしょう?」
「…………え?」
リナの視線が、銀髪の頭から女性の身体を通り、ゆっくりと巨大なドレスへ落ちていく。
「じゃあ……」
「はい?」
「今、私が話しているあなたは……」
「私ではありますけれど、本体ではありませんわ」
「本体じゃない!?」
思わず声が大きくなった。
後ろで順番を待っていた旅人が何事かとこちらを見る。
リナは慌てて声を落とした。
「す、すみません。その……じゃあ、本当のお顔は?」
女性――いや、アラクネの擬態部分が、自分の足元を指差した。
「こちらですわ」
「…………ドレス?」
「中です」
「中」
リナはもう一度、幅の広いドレスを見た。
先ほどまで単に変わった服だと思っていたものが、急にまったく別のものに見えてくる。
そういえば、彼女が前へ進んできたとき、足音を聞いただろうか。
靴が石畳を叩く音がした記憶がない。
ドレスの裾も、普通に歩く人間のようには上下していなかった。
むしろ、滑るように移動していた気がする。
「…………」
「リナ」
カイルが隣から声をかける。
「はい」
「本人確認」
「分かってます」
「なら本体を確認しないとな」
「分かってますよ!」
分かってはいる。
身分証に描かれているのが本体なら、衛兵として確認しなければならない。
リナは一度息を吸い、乾いた街道の土と馬の匂いが混じった空気を胸いっぱいに入れてから、意を決してアラクネへ向き直った。
「あの……申し訳ありませんが、本体のお顔を確認させていただいてもよろしいですか?」
「もちろんですわ」
あっさり了承された。
「少々お待ちくださいね」
アラクネはドレスの両脇へ手を伸ばすと、布地をゆっくり持ち上げた。
さらり、と軽い布が擦れる。
陽の光がドレスの内側へ差し込んだ。
最初に見えたのは、細い脚だった。
「…………」
人間の脚ではない。
黒褐色の細長い脚が、石畳の上へ何本も伸びている。一本一本はリナの腕より細く、先端へ向かうほどさらに細くなっており、節の部分には短い毛が生えていた。
巨大というほどではない。
だが、間違いなく蜘蛛だった。
八本ある。
リナが息を呑んだ瞬間、そのうちの一本が石畳の上でわずかに位置を変え、硬い先端が石へ触れてカチ、と小さな音を立てた。
「ひゃっ」
リナの肩が跳ねる。
「あら、ごめんなさい」
「い、いえ! 大丈夫です!」
「脚を動かしてしまって」
「大丈夫です。ちょっとびっくりしただけなので!」
言いながら、リナは自分の腕に細かな鳥肌が立っているのを感じた。蜘蛛そのものが嫌いなわけではないが、予想していなかった場所から八本もの脚が現れれば、身体が先に反応してしまう。
しかも擬態部分は変わらず上から微笑んでいる。
その組み合わせが、頭の中でなかなか一つの生き物として結びつかない。
「お顔はこちらです」
「はい?」
言われて視線を下げる。
ドレスの奥で、何かが動いた。
黒褐色の脚の間から、小さな蜘蛛の頭胸部がゆっくりと前へ出てくる。
「…………っ」
リナは今度こそ声を飲み込んだ。
身分証で見たものと同じ、複数の眼。
同じ形の触肢。
同じ頭部の輪郭。
その大きさはリナが想像していた巨大蜘蛛ほどではなく、胴体全体も広いドレスの中へ十分収まる程度だったが、人間の目線で間近に見ると、やはり迫力がある。
しかも、こちらを見ている。
リナは身分証を見る。
蜘蛛の顔を見る。
また身分証を見る。
もう一度、蜘蛛を見る。
間違いない。
「……一致してます」
「でしょう?」
頭上から、銀髪の擬態が嬉しそうに答えた。
「なんでそっちで返事するんですか!?」
「あら?」
「今、本体のお顔を確認してるんですよ!?」
「でも、こちらで話した方が分かりやすいでしょう?」
「それはそうですけど!」
カイルが口元を押さえながら横を向いた。
「カイルさん、笑ってます?」
「笑ってない」
「絶対笑ってます!」
「本人確認できたならいいだろ」
「そうですけど……!」
リナはもう一度蜘蛛の本体を見る。
最初に感じたぞわりとした感覚はまだ少し残っている。それでも身分証の肖像と見比べながら改めて観察すると、先ほどまでただ「蜘蛛」としか認識できなかった顔にも、眼の配置や頭部の模様など、個体を見分ける特徴があることに気づいた。
蜘蛛側の口元にある触肢が、わずかに動く。
「ひゃっ」
「あら」
「……慣れてる途中です」
「ふふ。ゆっくりで結構ですわ」
その声は擬態側から聞こえてくる。
不思議な感覚だった。
リナは少しだけ頬を赤くしながら、身分証を閉じた。
「すみません。驚いてしまって」
「お気になさらないでください。初めてアラクネをご覧になる方は、大抵そのような反応をなさいますから」
「……やっぱり?」
「中には悲鳴を上げて逃げる方もいらっしゃいますわ」
「それに比べたら頑張りました?」
「とても」
「よかった……」
アラクネがドレスを下ろすと、八本脚も蜘蛛の顔も綺麗に隠れた。
再び目の前にいるのは、小柄な銀髪の女性だけに見える。
しかし、もうリナには分かっている。
その下に本体がいる。
「では、続いて荷物を確認しますね」
「お願いいたします」
アラクネが持っていた旅行鞄を検査台へ載せる。
リナが中を確認すると、着替えや日用品に混じって、丁寧に巻かれた布地が何本も入っていた。
「これは……布ですか?」
「ええ。商品見本ですわ」
一巻きを取り出す。
手袋越しでも分かるほど軽い。
許可を得て少し広げてみると、薄い銀白色の布が陽光を受け、見る角度によって淡い虹色の光沢を浮かべた。指先でそっと挟めば驚くほど滑らかで、それでいて絹よりもしっかりとした張りがあり、軽く引いた程度では形が崩れない。
「綺麗……」
思わず声が漏れる。
「ありがとうございます」
「これ、ご自分で織られたんですか?」
「ええ。私は仕立屋をしておりますの。特にこの糸を使った服を得意としておりますわ」
「この糸?」
「蜘蛛糸です」
「へえ……蜘蛛糸……」
そこまで言って、リナの動きが止まった。
ゆっくりと布を見る。
アラクネの擬態を見る。
そして、その大きなドレスを見る。
「…………もしかして」
「はい?」
「この糸って……」
「私の糸ですわ」
「…………」
リナは手の中の美しい布を見つめた。
つい先ほど見た、ドレスの中の蜘蛛本体が頭へ浮かぶ。
「ご自分で……作った糸?」
「ええ」
「本体から?」
「もちろんです」
「…………そうなんだ」
知識として考えれば当然である。
アラクネなのだから、蜘蛛糸を作れても何も不思議ではない。
むしろ、それを利用して高品質な布を作る職人というのは理にかなっている。
理解はできる。
理解はできるのだが、手の中にある美しい布と先ほどの蜘蛛本体が、頭の中で一本の線につながった瞬間、何とも言えない感覚がリナの背筋を駆け抜けた。
「よろしければ、ご覧になります?」
「何をですか?」
「糸を出すところを」
「結構です!!」
即答だった。
アラクネが目を瞬かせる。
「すぐ出せますわよ?」
「大丈夫です!」
「品質もその場で確認できますし」
「もう十分確認できました!」
「そうですか?」
「はい!」
カイルが横から布を覗き込んだ。
「検査として製造元まで確認しなくていいのか?」
「何を確認させようとしてるんですか!!」
「いや、衛兵として」
「絶対面白がってますよね!?」
カイルは答えず、いつもの眠そうな顔で視線を逸らした。
アラクネは二人のやり取りを見て、口元へ手を添えて上品に笑っている。
荷物にはほかにも裁縫道具や糸巻き、服飾品の見本などが入っていたが、どれも申告どおりで、王都へ持ち込むことに問題のある品はなかった。
「王都へは、お仕事で?」
「ええ。こちらの仕立屋から取引のお話をいただきまして。それと、しばらく王都に滞在して、新しい意匠も勉強したいと思っておりますの」
「じゃあ、このドレスもご自分で?」
「もちろんです」
アラクネは嬉しそうに両腕を広げた。
「人間の街では、本体をそのまま見せて歩くと驚かせてしまうことがありますから、なるべく自然に隠せるよう工夫したのです」
「ああ……」
リナは先ほど自分が驚いたことを思い出した。
これほど大きなドレスをわざわざ仕立てているのには、単なるお洒落以上の理由があるらしい。
「大変なんですね」
「慣れておりますわ。それに私は服を作ることが好きですから、こういう工夫も楽しいのです」
擬態の女性が微笑む。
その笑顔を見ながら、リナは先ほどまで感じていた奇妙な緊張が、いつの間にかかなり薄れていることに気づいた。
最初は、身分証に蜘蛛の顔が載っているだけで頭が混乱した。
ドレスの中から八本脚が現れたときには鳥肌まで立った。
けれど、こうして話してみれば、目の前にいるのは自分の仕事に誇りを持ち、周囲に気を遣いながら旅をしてきた一人の職人だった。
見た目が違う。
身体の作りも違う。
それだけだ。
「……確認できました」
リナは旅行鞄を丁寧に閉じると、身分証と一緒にアラクネへ返した。
「身分証、荷物ともに問題ありません。入都を許可します」
「ありがとうございます、衛兵さん」
アラクネは優雅に一礼した。
擬態部分だけを見ていれば、やはりどこにでもいる小柄な女性にしか見えない。
そして王都へ向かって移動し始めた瞬間、リナはその姿をじっと見つめた。
ドレスがほとんど上下しない。
足音もない。
裾の内側から、ごく小さくカチ、カチ、カチ、と硬いものが石畳へ触れる音だけが聞こえる。
すーっと滑るように遠ざかっていく。
「…………カイルさん」
「なんだ?」
「そういえば、最初から歩いてませんでしたね」
「歩いてはいるだろ。八本で」
「そういう意味じゃありません!」
カイルが小さく笑った。
ところが、数歩進んだところでアラクネがぴたりと止まる。
擬態部分だけがくるりとこちらを振り返った。
「あ、そうでした」
「はい?」
「衛兵さん」
「なんでしょう?」
「もし王都でお洋服が必要になりましたら、ぜひ私のところへいらしてくださいな」
「え?」
「あなたくらいの体格でしたら、とても可愛らしいものを仕立てられると思います」
「わ、私ですか?」
突然服を褒めるような話をされ、リナの頬が少し熱くなる。
「衛兵服以外、あんまりいい服持ってなくて……」
「でしたら、なおさらですわ」
アラクネは嬉しそうに笑った。
「丈夫で軽くて、汚れにも強い蜘蛛糸の服も作れますのよ」
「それはちょっと気になる……」
「糸からお作りしますわ」
「…………」
リナの視線が、反射的に大きなドレスへ落ちた。
アラクネもその視線を追う。
「今、少し出しておきましょうか?」
「出さなくて大丈夫です!!」
南門にリナの声が響いた。
アラクネは楽しそうに笑いながら今度こそ王都へ入っていき、幅の広いドレスが人の流れの中へ消えていくまで、リナはその後ろ姿を見送った。
「……いい人でしたね」
「ああ」
「びっくりしましたけど」
「そうだな」
「でも、次にアラクネの人が来ても、もう大丈夫です」
「本体確認も?」
「できます」
「糸の製造確認も?」
「それはしません!!」
即答したリナを見て、カイルがまた笑った。
【リナの日記】
今日、アラクネの女性が来た。
小柄で、銀髪で、とても綺麗な人だった。
大きなドレスも綺麗だった。
身分証を見た。
蜘蛛だった。
最初、他人の身分証だと思った。
違った。
本人だった。
上の女の人は擬態だった。
本体はドレスの中にいた。
蜘蛛だった。
ちゃんと身分証と顔が一致した。
衛兵になってから、まさか蜘蛛の顔で本人確認をする日が来るとは思わなかった。
でも、話してみると、とても感じのいい人だった。
仕立屋さんらしい。
蜘蛛糸で作った布は、本当に綺麗だった。
触った感じもすごく滑らかで、軽いのに丈夫だった。
ちょっと欲しい。
ただし糸は本人製だった。
「今ここで出しましょうか?」と言われた。
断った。
私は衛兵であって、蜘蛛糸の製造工程を確認する係ではない。
でも服はちょっと欲しい。
今度、お店を見つけたら覗いてみようかな。
糸を作っているところは見ない。
絶対に。




