第17話 新人衛兵とキノコ人
昼を少し過ぎた王都南門には、朝の入都ラッシュほどの慌ただしさこそなかったものの、地方から届いた野菜を積んだ荷馬車や、旅装を整えた商人、武器を背負った冒険者たちが途切れることなく訪れていた。高く澄んだ空から降り注ぐ陽射しは柔らかく、城壁沿いを抜けていく風にも少しだけ涼しさが混じっている。
リナ・フェルドは検査台の前に立ち、旅人から受け取った身分証と本人の顔を見比べてから、荷物の中身へ視線を移した。
「はい、問題ありません。入都を許可します」
「ありがとう」
旅人が荷物を背負い直して門の向こうへ消えていくと、リナは小さく息を吐き、すぐに次の旅人へ顔を向けた。
「次の方、どうぞ!」
声を張ると、列の先頭に立っていた人物がゆっくりと歩み出てくる。
その姿を見たリナは、ほんの一瞬だけ目を瞬かせた。
背丈はリナより少し高い程度で、茶色い上着に丈夫そうなズボン、背中には旅人らしい大きな背負い袋を担いでいる。そこまでは珍しくない。
問題は頭だった。
いや、正確には頭の上だった。
人間であれば髪が生えているはずの場所から、淡い黄褐色をした大きなキノコの傘が広がっており、その下に丸みのある顔が収まっている。肌も人間よりずっと白く、ところどころに薄茶色の斑点が浮かんでいた。
菌人種。
王都ではそれほど多く見かける種族ではないが、別に珍獣というわけでもない。言葉を話し、仕事をし、税を納め、旅をする、ごく普通の人々の一種である。
「こんにちは」
キノコ人は人の良さそうな笑顔で軽く頭を下げた。
「こんにちは。身分証をお願いします」
「はい、こちらです」
差し出された身分証を受け取ったリナは、記載内容へ目を落とした。
「ええっと……マルコ・ポルタさん。三十八歳。職業は薬草採集人……」
「はい」
「王都へ来られた目的は――」
そこで、鼻の奥に妙なくすぐったさを感じた。
「……ん」
リナは一度鼻を動かし、何でもないと判断して身分証へ視線を戻そうとしたが、次の瞬間にはむずむずとした感覚が一気に強くなった。
「……くしゅんっ」
慌てて顔を横へ向け、口元を手で覆う。
ほんの小さな、妙に可愛らしいくしゃみが漏れた。
「…………」
「…………」
マルコが目を瞬かせた。
少し離れたところで検査台に腰を預けるように立っていたカイルも、こちらを見ている。
「……失礼しました」
リナは何事もなかったように身分証へ目を戻した。
視線を感じる。
ものすごく感じる。
「…………なんですか?」
「いや」
カイルは口元にわずかな笑みを浮かべていた。
「お前、そんな可愛いくしゃみするんだな」
「なっ……!」
リナの頬が一気に熱くなる。
「くしゃみに可愛いとかありません!」
「あるだろ。普段はあれだけ『次の方どうぞ!』って声張ってるのに」
「それとこれとは関係ないでしょう!」
「もっとこう、へっくしょい! みたいなのかと思ってた」
「私を何だと思ってるんですか!?」
「元気な新人衛兵」
「間違ってないのが腹立ちます!」
「あの……」
恐る恐る上がった声に、リナは我に返った。
目の前ではマルコが身分証を持ったまま、困ったような笑顔を浮かべている。
「検査……続けても?」
「す、すみません! 続けます!」
完全に仕事中だった。
リナは小さく咳払いすると、気を取り直して身分証へ視線を落とした。
「王都へ来られた目的は?」
「薬草の取引です。あと、少し買い物を。王都には珍しい薬草を扱っている店が多いと聞きまして」
「なるほど。滞在予定は?」
「五日ほどです」
「宿泊先は決まっていますか?」
「中央市場の近くにある『銀の鹿亭』という宿を――」
「……くしゅんっ」
また出た。
「…………」
リナはゆっくり顔を戻した。
「二回目」
「数えなくていいです!」
カイルの声が飛んでくる。
「いや、さっきより少し大きかったな」
「感想もいりません!」
マルコが心配そうにリナを見る。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。朝から体調も悪くありませんし、たぶん鼻に何か……」
そう言いながら、リナは鼻先を指で軽く擦った。
確かに風邪らしい感覚はない。それなのに、鼻の奥だけが妙にむずむずする。
「では、お荷物を確認させてください」
「どうぞ」
マルコが背負い袋を検査台へ載せる。
中から出てきたのは乾燥させた薬草の束、小さな採集用ナイフ、着替え、保存食、それに何冊かの植物図鑑だった。薬草採集人という職業から考えれば、何一つ不自然なものはない。
「この包みは?」
「乾燥させた月見草です」
「こちらは?」
「森生姜ですね。煎じると身体が温まります」
「なるほど……」
リナが包みを確認していると、また鼻の奥がむずむずし始めた。
「……んっ」
嫌な予感がする。
「……くしゅんっ!」
「三回目」
「だから数えないでください!」
「今のも可愛かったぞ」
「見世物じゃありません!!」
「もう一回くらい――」
「期待しないでください!」
顔を赤くしたリナが振り返った、そのときだった。
カイルの表情から、からかうような笑みが少し消えた。
「……リナ」
「今度はなんですか?」
「そいつじゃないか?」
「何がです?」
「くしゃみの原因」
「え?」
カイルの視線を追って、リナもマルコを見る。
正確には、その頭上に広がった大きな傘を。
陽射しを受けた黄褐色の傘の縁から、ごく細かな白い粉のようなものが、風に乗ってふわりと舞い上がっていた。
「…………」
リナは瞬きをする。
マルコも自分の頭上を見ようとしたらしく、視線だけを上へ向けた。
「…………あ」
「あ?」
「胞子ですね」
「胞子!?」
思わずリナが一歩後ろへ下がった。
その動きに驚いたマルコが頭を動かすと、大きな傘が揺れる。
ふわっ。
白い粉がさらに舞った。
「ちょっ――」
「……くしゅんっ!」
リナは勢いよく横を向いた。
「四回目」
「そこじゃないでしょう!!」
涙の滲んだ目でカイルを睨みつける。
「なんで胞子が出てるんですか!?」
「いやあ、この時期はどうしても」
マルコは悪びれるでもなく、自分の傘の縁を指先で触った。
「毎年、秋口になると出るんですよ」
「そんな季節の風物詩みたいに言われても困ります!」
「私たちにとっては季節の風物詩みたいなものなんですが……」
「こっちはくしゃみが止まらないんです!」
「それは申し訳ないです」
マルコが頭を下げる。
ぶわっ。
「頭振らないでください!!」
「す、すみません!」
慌てて頭を戻したことで、また胞子が舞う。
「動かさないで! そのまま! そのままでお願いします!」
リナが両手を前へ出して制止する横で、カイルはマルコの傘をしばらく眺めてから、何かを思い出したように眉を上げた。
「あんた、飛散防止の被り物は?」
「被り物?」
マルコが首を傾げかける。
「動かさないで!」
「あ、はい」
首だけ途中で止まった。
「何ですか、それ?」
「胞子が飛ぶ時期の菌人種が王都に入るときに使うやつだ。傘を覆って胞子が飛ばないようにする」
「そんなものが必要なんですか?」
「必要だ。この状態じゃ王都には入れないぞ」
「えっ!?」
「えっ!?」
なぜかリナまで同時に声を上げた。
カイルがゆっくりとリナを見る。
「……お前も知らなかったのか?」
「し、知ってます!」
「本当か?」
「確認します!」
「知らなかったんじゃないか」
「確認です!!」
リナは逃げるように詰所へ向かい、棚に置かれていた分厚い規則集を引っ張り出した。
王都の門を通る者は人間だけではない。
エルフ、獣人、竜人、菌人種をはじめ、身体的特徴も生活習慣もまるで異なる種族が出入りする以上、それぞれに応じた細かな規定が存在する。採用後の教育で一通り習ってはいるものの、滅多に遭遇しない規定まで新人のリナがすべて暗記しているわけではなかった。
「ええっと……異種族入都規定……菌人種……菌人種……」
頁をめくる。
「あった!」
指で条文を追う。
「『胞子飛散期にある菌人種は、王都内において胞子飛散防止具を着用し、胞子の無制限な飛散を防止すること』……」
「ほらな」
「知ってました!」
「今見つけただろ」
「確認したんです!」
言い返しながらも、リナは条文をもう一度確認した。
規則は明確だった。
菌人種だから入都できないのではない。胞子を飛散させる状態で、必要な防止措置を取っていないことが問題なのだ。
リナは規則集を閉じると、検査台の向こうに立つマルコへ向き直った。
白い胞子が、まだ傘の周囲をふわふわと漂っている。
「……くしゅんっ」
「五回目」
「カイルさん、黙っててください!」
「説得力はあるな」
「何のですか!」
「規則の」
「それは……そうですけど!」
確かに、これだけ自分がくしゃみをしている状態で「胞子飛散防止のため」と説明すれば、これ以上ないほど説得力はある。
リナは鼻を軽く擦り、改めてマルコを見た。
「申し訳ありません。カイルさんの言ったとおり、現在の状態では入都を許可できません」
「そんな……」
マルコの肩が落ちる。
「ここまで三日歩いてきたんですが……」
「三日……」
その言葉に、リナの胸が少し痛んだ。
マルコの旅装を見れば、それが嘘ではないことくらい分かる。靴には街道の土がこびりつき、背負い袋にも長旅の跡が残っている。悪意があるわけでも、危険物を持ち込もうとしたわけでもない。
ただ、知らなかったのだ。
リナは一瞬だけ迷ったものの、手元の規則集を見てから、再び顔を上げた。
ここで「可哀想だから」と通してしまえば、何のための規則なのか分からない。
「ですが、入都そのものが禁止されているわけではありません。次に来られるとき、胞子飛散防止用の被り物を用意してください。きちんと胞子が飛ばない状態なら、通常どおり検査を受けていただけます」
「被り物さえあればいいんですね?」
「はい。規定に適合したものをお願いします」
マルコはしばらく残念そうに王都の門を見上げていた。
高い城壁。その向こうには、三日かけて目指してきた王都の街並みが広がっている。
あと数歩。
それでも、その数歩を許可するのが門番の仕事であり、許可しないのもまた門番の仕事だった。
「……分かりました」
やがてマルコは小さく息を吐き、それでも穏やかな笑みを浮かべた。
「今回は諦めます」
「申し訳ありません」
「いえ、知らなかった私が悪いです。次に来るときは、ちゃんと用意してきます」
「はい。そのときはぜひ」
リナが微笑むと、マルコも頷いた。
「完璧な対策をしてきます」
「……普通ので大丈夫ですよ?」
「二度とご迷惑はかけません」
「ですから、規定どおりで十分ですからね?」
なぜだろう。
妙に強い決意を感じる。
マルコは荷物を背負い直すと、来た道へ戻ろうとして――ふと振り返った。
「それでは、また」
「はい。お気をつけて」
丁寧に頭を下げる。
傘も一緒に大きく傾いた。
ぶわっ。
「……っ!」
リナの鼻が反応する。
「…………」
カイルが見る。
「…………」
マルコも見る。
リナは必死に鼻を押さえた。
「……ん……」
耐える。
「……んんっ……」
耐える。
「……くしゅんっ!」
「六回目」
「最後まで数えないでください!!」
「す、すみません!」
「マルコさんも頭を下げないでください!!」
「はい!」
マルコは今度こそ頭を動かさず、そのまま街道を歩いていった。
大きなキノコの傘が遠ざかるにつれ、リナの鼻のむずむずも少しずつ収まっていく。
しばらくして、リナは鼻をすすった。
「……止まりました」
「やっぱり胞子だったな」
「ですね……」
「残念だ」
「何がですか?」
「もう聞けないのかと思って」
「何をですか?」
「くしゃみ」
「惜しまないでください!!」
カイルは肩を揺らして笑っている。
リナは頬を膨らませながら規則集を詰所へ戻した。
それでも、少しだけ気持ちは複雑だった。
「……入都を断るのって、なんか嫌ですね」
ぽつりと漏らす。
カイルは笑うのをやめ、街道を遠ざかっていくマルコの背中を見た。
「そりゃ、楽しい仕事じゃないからな」
「悪い人じゃなかったですし」
「ああ」
「危険なものを持ってたわけでもないですし」
「胞子は撒いてたけどな」
「……私が六回くしゃみしましたけど」
「可愛いやつをな」
「それはもういいです!」
思わず声を上げたリナに、カイルはまた小さく笑った。
「でも、通しちゃ駄目なもんは駄目だ。今日は条件を満たしてなかった。それだけだ」
「……はい」
「次にちゃんとして来たら、そのとき通せばいい」
その言葉に、リナは街道へ目を向けた。
マルコの姿はもう旅人たちの間に紛れ、ほとんど見えなくなっている。
「次は来ますかね」
「来るだろ」
「分かるんですか?」
「最後の顔見ただろ」
カイルは面倒くさそうに片方の肩を回した。
「『完璧な対策をしてきます』って顔してたぞ」
「顔でそこまで分かるんですか?」
「経験は大事だ」
「またそれですか」
リナは呆れながらも、思わず笑った。
そして検査台の前へ戻り、次の旅人へ向き直る。
「次の方、どうぞ!」
声を張った直後、カイルが横からぼそりと言った。
「今度は普通だな」
「何がです?」
「声。くしゃみとの差がすごい」
「まだ言うんですか!?」
南門に、カイルの笑い声が響いた。
【リナの日記】
今日、入都を断った。
相手はキノコだった。
違う。
キノコ人だった。
キノコ人だから断ったわけではない。
胞子です。
規則です。
私が六回くしゃみしたからでもありません。
規則です。
大事なので二回書きました。
それにしても、胞子飛散防止の規定なんて、ちゃんと習ったはずなのにすぐ出てこなかった。
カイルさんはすぐ分かった。
悔しい。
やっぱり経験は大事なのかもしれない。
でも。
くしゃみを六回全部数える必要は絶対になかったと思う。
あと可愛いって言うな。
絶対に言うな。
次にマルコさんが来たときは、ちゃんと被り物をしてくるらしい。
「完璧な対策をしてきます」と言っていた。
普通のでいいと思う。
本当に普通のでいい。
なんだか少しだけ嫌な予感がする。




