第2話 新人衛兵と筋肉を語る男
昼前の王都南門には、朝の入都ラッシュこそ一段落していたものの、街道から流れ込む人と荷車の列が完全に途切れることはなかった。南から吹き込む風には乾いた土と草の匂いが混じり、城壁の上から降り注ぐ陽射しは、革鎧を身につけたリナの肩をじわじわと温めている。
午前中だけで何十人もの通行証を確認し、農夫の荷車や旅商人の荷物、冒険者一行の武器まで調べ終えたリナは、記録台の帳面に最後の一行を書き込んだ。
忙しくはあるが、今のところ大きな問題は起きていない。もう一班も隣の検査位置で順調に仕事を進めており、門前の列は少しずつ短くなっていた。
このまま平和に昼を迎えられそうだ。
そう思いながら顔を上げたとき、リナは南街道の向こうに妙なものを見つけた。
「……カイルさん。なんだか、向こうが光ってません?」
門柱の陰で相変わらず眠そうにしていたカイルが、面倒そうに視線を動かす。街道の先から歩いてくる人影をしばらく眺めたあと、彼は小さく頷いた。
「光ってるな」
「ですよね? あれ、人ですよね?」
「たぶんな。近づけば分かるだろ」
「それはそうですけど……普通、人って光ります?」
カイルが答えないうちに人影は徐々に大きくなり、やがてリナにも、その異様な姿がはっきりと見えてきた。
年齢は三十代半ばほどで、短く刈り込んだ黒髪に褐色の肌を持ち、背丈は百八十センチを優に超えている。肩幅は広く、胸板は分厚く、腕も脚も丸太のように太い。腹部には彫刻刀で刻み込んだような筋肉の溝が並び、遠目にも並外れた鍛錬を積んでいることが分かった。
ただし、その肉体以上に気になることがある。
「……服は?」
「着てるぞ」
「腰布しか見えないんですけど」
「腰布を着てる」
「あれは服って言うんですか!?」
男が身につけているのは、本当に白い腰布一枚だけだった。靴すら履いておらず、その周囲には拳ほどの白い光球が四つ浮かんでいる。
しかも光球は、ただ男を照らしているわけではない。
胸を張れば斜め上から光が差し込み、腕を動かせば横からの照明が筋肉の隆起を強調する。背後の光球は肩から腕にかけて輪郭を浮かび上がらせ、男が一歩進むごとに絶妙な角度で陰影を作り出していた。
「……何をしてるんですか、あの人」
「筋肉を照らしてるんだろ」
「それは見れば分かります! どうして照らしてるのか聞いてるんです!」
周囲の通行人も次々とその存在に気づき、荷車を引いていた農夫は二度見し、旅人たちは顔を見合わせている。母親に手を引かれた子供が振り返ろうとすると、母親は無言でその顔を前へ向けた。
しかし男は周囲の反応など気にせず、むしろ視線を浴びるほど誇らしげに胸を張って南門へ近づいてきた。
「……止まってください」
「うむ!」
腹の底から響くような大声とともに男が足を止め、四つの光球もぴたりと静止する。
リナは一瞬その見事な連携に感心しかけたが、すぐに帳面を開いた。
「お名前と入都目的をお願いします」
「ガルド・バルガス! 三日後、王都中央闘技場で開催される《王国肉体鍛錬競技会》に出場するために来た!」
「ああ、あの大会ですね。では出場証を――」
「鍛え上げた肉体! その均整! 力強さ! そして美しさを競い合う、王国最高峰の祭典だ!」
ガルドが右腕を曲げると、それに合わせて光球が斜め上へ移動した。反対の腕を曲げれば別の光球が動き、胸を張れば大胸筋の下へ濃い影が生まれる。
なぜ入都目的の説明に、これほど綿密な照明計画が必要なのだろう。
「分かりました! 大会出場ですね!」
「そうだ! 私は三年間、大胸筋と広背筋の均衡を追求し、特に昨年からは三角筋後部の発達を――」
「そこまで聞いてません!」
「衛兵殿! 肉体は一部分だけを見てはならん! 大胸筋、広背筋、僧帽筋、そして大腿四頭筋! そのすべてが調和してこそ――」
「もういいです!!」
リナの声が南門に響き、近くを通っていた商人が驚いて肩を震わせた。
ところがガルドは怒られた理由が分からないらしく、片脚を前へ踏み出した姿勢のまま首を傾げている。
「まだ腹斜筋を説明していないぞ?」
「説明しなくていいです!」
光球まで残念そうに元の位置へ戻っていくのを見て、リナは思わず額へ手を当てた。
「それと、その格好なんですけど……もう少し何か着てもらえませんか?」
「なぜだ? 必要な部分は覆っている」
「最低限すぎます! せめて上着くらい着てください!」
「衛兵殿。この大胸筋を衣服で覆えと?」
「覆ってください!」
「広背筋まで?」
「全部です!」
ガルドは世界の真理を否定されたような顔になり、胸へ片手を添えた。その瞬間、光球が気を利かせたように移動し、落胆する大胸筋へ劇的な光を落とす。
「光まで演出しないでください!」
「演出ではない。肉体を最も正しく見せるための照明だ」
「それを演出って言うんです!」
そこでカイルが、珍しく興味を示した。
「しかし器用だな。四つ同時に制御してるのか?」
「分かるか!」
「動きに合わせて光量も角度も調整してる。魔法制御だけなら結構高度だぞ」
「その技術をもっと別のことに使えません!?」
リナの訴えを無視し、ガルドは嬉しそうに身を乗り出した。
「光とは肉体を完成させる最後の一手! 鍛え抜かれた筋肉といえど、照明が悪ければ本来の立体感は失われる!」
「近い近い近い!」
リナが長棒を横へ構えて距離を取らせようとすると、ガルドの視線がその腕に止まった。
「む……衛兵殿、良い前腕だな」
「…………はい?」
「長棒使いだろう!? 握り込む動作で鍛えられた前腕に、無駄のない手首周り! 長年の反復動作によって培われた筋肉だ!」
「……分かるんですか?」
「当然だ! 筋肉は、その者が何を積み重ねてきたかを語る!」
あまりにも迷いなく断言され、リナは思わず自分の腕を見下ろした。
幼い頃から棒術道場に通い、何度となく長棒を振り、構え、打ち込みを繰り返してきた。自分にとっては当たり前だった努力を、初対面の相手に見抜かれたことが少し嬉しい。
「へえ……」
「だが、まだ甘い!」
「なんで急に駄目出しされるんですか!?」
「もっと食え! 鍛錬だけでは筋肉は育たん! 十分な食事、適切な休養、質の良い睡眠! そのすべてが必要だ!」
「私の身体の相談をしてるんじゃありません!」
門柱の陰からカイルがぼそりと呟く。
「面倒なのに捕まったな、リナ」
「助けてくださいよ!」
「自分で『分かるんですか』って聞いたんだろ」
「ちょっと感心しちゃったんですよ!」
「チョロいな」
「うるさいです!!」
カイルの笑いを睨みつけたリナは、これ以上話が脱線しないうちに検査を進めることにした。
ガルドに大会出場証を提示してもらうと、王都中央闘技場の正式な印章が押されており、名前にも不備はなかった。
「では、荷物を確認しますね」
「好きなだけ見るがいい!」
「普通にお願いします……」
ガルドが背負っていた大きな革鞄を石台へ下ろすと、中には衣類がほとんどなく、瓶や布袋、食料の包みが隙間なく詰め込まれていた。
最初に目についたのは、金色がかった液体が入った細長い瓶だった。
「これは何ですか?」
「陽蜜樹の実油だ!」
「油ですね。用途は?」
「肉体を輝かせるためだ!」
「…………はい?」
リナが顔を上げると、ガルドは待っていましたとばかりに瓶を受け取った。
「南部ラグナ火山麓に自生する陽蜜樹の完熟果を、熱を加えず丁寧に圧搾した一番搾り! 伸び、艶、乾きにくさ、そして光を受けた際の反射が素晴らしい!」
「……普通の油では駄目なんですか?」
「全く違う!」
言うなりガルドは瓶の栓を抜いた。
その手つきを見た瞬間、リナは嫌な予感を覚える。
「待ってください、何を――」
金色の油が大胸筋へ一滴落ちた。
ガルドはそれを手のひらで薄く伸ばし、満足そうに胸を張る。すると頭上の光球が一斉に位置を変え、油で艶を帯びた胸板を四方向から照らし始めた。
斜め上から差し込んだ白い光が滑らかな肌へ反射し、大胸筋の下にはくっきりとした影が生まれる。
「見ろ!!」
「見せなくていいです!!」
「この照り! それでいて筋肉本来の立体感を失わない! これこそ最高の仕上がりだ!」
「油の検査をしてたんですよね!?」
隣から覗き込んだカイルが、妙に真剣な顔で頷いた。
「確かに綺麗に光るな」
「カイルさんまで感心しないでください!」
「ほう、分かる男だな!」
「そうでもない」
「意気投合しないでください!!」
リナはそれ以上の実演を阻止するべく瓶の栓を閉めさせ、内容物と用途を確認してから鞄の脇へ移した。
続いて調べたのは、大量の食料品だった。
薄茶色の干し肉に石のように硬い豆、銀色の斑点が浮かぶ大きな卵。さらに黄色い根菜や濃緑色の葉野菜、乾燥した木の実まで入っており、どれも普通の旅人が持ち歩く量とは思えない。
「ずいぶん食料が多いですね」
「当然だ! 剛角鳥の胸肉は良質なタンパク質を豊富に含み、岩豆は山岳地帯で育つ強靱な豆! 白殻竜卵は朝夕の鍛錬後に最適で――」
「はい、食料ですね。問題ありません」
「待て! まだ説明が終わっていない!」
「入都検査に必要な確認は終わりました!」
リナは干し肉の袋を閉じ、豆と卵も順番に確認していく。ガルドはそのたびに何か言いたそうにしていたが、彼女が手早く作業を進めるため、なかなか説明する機会を得られない。
先ほどまでとは打って変わって、本気で残念そうな表情だった。
「……でも、ちゃんと野菜も食べるんですね」
最後の包みを確かめながら、リナは何気なく呟いた。
その瞬間、ガルドの動きが止まった。
「当然だ!!」
しまった。
リナが口を開くより早く、ガルドは両腕を広げた。
「肉だけを食えばよい、卵だけを食えばよいなどという浅薄な考えは、筋肉神への冒涜!」
「筋肉神!?」
「日々己を鍛え、正しく食らい、正しく休む者を見守る偉大なる神だ!」
ガルドは胸へ拳を当て、神殿で祈りを捧げるような厳かな表情を浮かべた。
しかも四つの光球が左右へ展開し、油で艶めく身体を神々しく照らしている。
厳かさより筋肉の主張が圧倒的に強い。
「筋肉神って、本当にいるんですか?」
「無論だ! 努力には発達を、怠惰には衰えをもって応える!」
「それ、普通に身体の仕組みじゃないですか!?」
「筋肉神の摂理だ!!」
「言い換えただけですよね!?」
ガルドはまったく気にせず、今度はリナへ真剣な眼差しを向けた。
「ところで衛兵殿、朝食は何を食べた?」
「え? 普通にパンと卵ですけど……」
「卵は何個だ!? 肉は!? 豆は食べたか!? 睡眠時間は十分か!?」
「なんで入都検査をしている私が質問される側になってるんですか!?」
気づけば立場が完全に逆転していた。
困り果てたリナへ、カイルが横から助言する。
「リナ。答えるから続くんだぞ」
「もっと早く言ってください!」
「では、そちらの衛兵殿は何を食べている?」
今度はガルドの顔がカイルへ向いた。
カイルの表情が、ほんのわずかに固まる。
「……リナ、早く検査を終わらせろ」
「逃げた!!」
結局、食料品はすべて問題なく、危険物や禁制品も見つからなかった。大会出場証も正式なものであり、光魔法についても周囲へ危害を加えるような使い方はしていない。
用途が異常なだけで、法に触れるものは何もないのだ。
それが何より腹立たしい。
リナは帳面へ最後の記録を書き込み、ようやく鉛筆を置いた。
「……問題ありません。入都を許可します」
「感謝する、衛兵殿!」
「ただし、王都内では周囲の迷惑にならないようにしてください。それと、できれば何か着てください」
「断る!!」
「そこは即答なんですか!?」
「この肉体は大会当日まで、常に最高の状態を意識せねばならん!」
「服を着たら筋肉が消えるわけじゃないでしょう!」
「見えなくなる!」
「それでいいんです!!」
ガルドは豪快に笑いながら革鞄を背負い、王都へ向かって歩き始めた。
ようやく終わった。
そう思ったところで、男はふいに振り返った。
「衛兵殿!」
「……まだ何か?」
「良い前腕だ! 日々の鍛錬で得たものだろう。誇るがいい!」
先ほどまでの大騒ぎとは違う、真剣な声だった。
リナは思わず自分の右腕へ視線を落とす。革鎧と制服の袖に隠れて筋肉はほとんど見えないが、幼い頃から積み重ねてきた棒術の鍛錬が、この腕に残っていることは確かだった。
変な人だとは思う。
それでも、その努力を認めてもらえたことは素直に嬉しかった。
「……ありがとうございます」
「うむ! 筋肉神もきっと見ておられる!」
満足そうに頷いたガルドは再び王都へ向き直ると、両腕を大きく広げた。
四つの光球が一斉に動き、強い陽射しの下でも十分目立つ巨体を、さらに眩しく照らし始める。
「待っていろ、王都よ! 三年間鍛え抜いたこの肉体、とくと見るがいい!!」
「普通に入ってください!」
「筋肉神よ! 我が仕上がりを御覧あれ!!」
「神様に見せるなら王都で叫ばなくていいでしょう!!」
通行人が一斉に振り返り、冒険者たちは笑い、商人たちは呆れた顔で首を振った。
その視線を一身に浴びながら、ガルドは誇らしげに胸を張り、光り輝く肉体を惜しげもなく披露したまま大通りへ消えていった。
異様に明るい後ろ姿が人混みに紛れると、南門にはようやくいつものざわめきが戻ってきた。
リナは深く息を吐き、無意識に自分の右腕へ目を向けた。
良い前腕。
そう言われたことを思い返しているうちに、口元がほんの少し緩んだ。
「チョロいな」
背後から聞こえた声で笑みが消える。
リナがゆっくり顔を上げると、カイルは何事もなかったかのように門柱へ戻ろうとしていた。
「……今、なんて言いました?」
「何も」
「言いましたよね?」
「気のせいだ」
「絶対言いました!!」
カイルは振り返ることもなく、片手をひらひら振るだけだった。
リナはその背中を睨みながら、次に変な人が来たときには絶対に余計な質問をしないと心に決めた。
もっとも、その決意がいつまで続くかは、本人にも分からなかった。
【リナの日記】
今日は筋肉が来た。
違う。人が来た。
でも最初に思い出すのが筋肉だから、もう筋肉が来たでいい気がする。
名前はガルドさん。《王国肉体鍛錬競技会》に出場するために王都へ来たらしい。
腰布一枚だった。
しかも光ってた。
光魔法で自分の筋肉に陰影をつけながら歩いてきた。
なんで!?
光魔法って、もっと便利な使い方があると思う!!
しかも四つ同時に動かしていて、カイルさんによると結構高度な魔法制御らしい。
その技術で照らすものが筋肉!!
荷物もすごかった。
陽蜜樹の実油、剛角鳥の胸肉、岩豆、白殻竜卵、それから芋や野菜。
全部筋肉!!
正確には油とか食料なんだけど、何を聞いても最後には筋肉の話になる!!
油なんて、その場で胸に塗り始めた。
光魔法まで当てた。
見ろって言われた。
見たくて検査してたんじゃありません!!
それから筋肉神という神様が出てきた。
筋肉神って何!?
本当にいるの!?
鍛えて、食べて、休むと筋肉が育つのは、普通に身体の仕組みだと思うんだけど。
本人は「筋肉神の摂理だ!」って言い張ってた。
もう何も分からない。
しかも、いつの間にか私の朝ご飯や睡眠時間まで質問されていた。
どうして入都検査をしてる私が、取り調べを受ける側になってるの!?
……でも、一つだけ嬉しかったことがある。
ガルドさんが、私の前腕を褒めてくれた。
棒術をやっていることも、腕を見ただけで分かったらしい。
「日々の鍛錬で得たものだ。誇るがいい」
そう言われた。
……ちょっと嬉しかった。
本当にちょっとだけ。
なのにカイルさんは「チョロいな」って!!
腹が立つ!!
明日から絶対に褒められても簡単に喜ばない。
絶対に。
……でも前腕を褒められたのは初めてだったな。
ちょっとくらい自信を持ってもいいよね?
筋肉神は別に見てなくていいけど。
【今日の教訓】
入都者は見た目だけで判断してはいけない。
どんなに変わった人でも、規則に従って公平に検査すること。
それから、仕事に関係のない質問はなるべくしない。
特に、相手が嬉しそうに話し始めたら要注意。
そして何より――
筋肉を褒められても、簡単に喜んではいけない。
……でも、努力を認めてもらえたことまで否定する必要はないと思う。
カイルさんには絶対言わないけど!!




