第15話 新人衛兵と長すぎる竜人
午前の王都南門は、街道から流れ込んでくる旅人や商人で今日も賑わっていた。朝一番の混雑こそ過ぎているものの、門の外にはまだ十数人ほどの列が伸びており、荷車の車輪が石畳を軋ませる音や馬の鼻息、商人たちの話し声に混じって、衛兵たちが身分証や荷物を確認する声が絶え間なく響いている。
リナは一人の商人から受け取った身分証を確認し、申告されていた荷物と実際の積み荷に違いがないことを確かめると、記録板へ必要事項を書き込んだ。
「はい、問題ありません。入都を許可します」
「ありがとう」
商人が荷車を引いて王都へ入っていく。その背中を見送ったリナは、手にした記録板を整えてから列へ顔を向けた。
「次の方、どうぞ!」
「はい。よろしくお願いいたします」
返ってきたのは、低く落ち着いた男性の声だった。
列から一歩前へ出てきた人物を見て、リナは僅かに顔を上げる。人間より頭一つほど背が高く、深い青灰色の鱗が首筋や頬の一部を覆っており、側頭部から後方へ向かって二本の立派な角が伸びている。外套の後ろから覗く太い尻尾まで見れば、竜人であることは一目瞭然だった。
年齢は人間の感覚では判別しづらいが、穏やかな目元や落ち着いた立ち居振る舞いからすれば壮年といったところだろう。仕立てのよい濃紺の外套をまとい、胸元には銀色の留め具が光っているため、決して貧しい旅人には見えない。
ただし、その上質な外套の裾には街道の土埃が付着し、革靴にもかなりの歩行距離を物語る汚れが残っていた。そして何より目立つのが、背負っている巨大な背嚢だった。
「こちらへどうぞ」
「失礼します」
竜人の男が検査台の前まで来ると、両肩から背嚢の帯を外して、下した瞬間にどすん、と鈍い音が響いた。
「…………」
リナは背嚢を見る。地面に置いただけなのに、どう考えても衣類や食料だけが入っている音ではなかった。
「……重くないですか、それ」
「多少は」
「多少……」
男は何でもないことのように答えている。
「何が入ってるんです?」
「主には書籍、研究資料、測定器具、採取用具、道中で得た標本ですね。あとは石材が少々」
「石?」
「はい」
「石を背負ってきたんですか?」
「非常に興味深い地層がありまして」
男の目が少し輝いた。
「表面の鉱物組成が周辺地域と明らかに異なっていたものですから、比較検証用に三点ほど採取しました」
「はあ……」
何となく、変わった人が来た。
リナはそう思いながらも、まずは通常どおり身分確認を進めるために手を差し出した。
「では、身分証をお願いします」
「こちらです」
差し出された身分証は、ずいぶん立派なものだった。リナは最初に本人の顔と記載内容を照合し、続いて所属欄へ目を移す。
「王立魔導研究院……」
「はい。古代魔導文明を中心に研究しております」
「研究者さんなんですね」
「一応は」
なるほど、と頷きかけたリナの視線が、その下にある身分欄で止まった。
「…………」
瞬きをする。
もう一度読む。
それから目の前の男を見る。
「……あの」
「はい?」
「子爵様……なんですか?」
「はい」
あっさり認められた。
リナは男の上質な外套を見る。そこまではいい。次に土埃だらけの靴を見る。最後に地面へ置かれた巨大な背嚢を見る。
「……徒歩で来られました?」
「はい」
「馬車は?」
「今回は利用しておりません」
「従者の方は?」
「連れてきておりません」
「護衛は?」
「必要ありませんので」
リナは身分証をもう一度見た。
「でも、貴族の方なら西門を利用できますよね?」
「もちろんです」
「…………」
リナは少し考えたが、どう考えても疑問が消えなかった。
「なんで徒歩で南門に?」
問いかけると、男はむしろその質問を待っていたかのように柔らかく微笑んだ。
「歩くからこそ見えるものがあるからですよ」
「見えるもの?」
「ええ。馬車を利用し、西門から入れば確かに早く、快適でしょう。しかし、それでは人々の生活を窓越しに眺めることしかできません」
男は南門の周囲へ目を向けた。野菜を満載した農民の荷車があり、その後ろでは革鎧姿の冒険者が仲間と話し、さらに向こうには異国風の衣装を着た商人が大きな包みを抱えている。人間だけではなく獣人やドワーフの姿も混じり、それぞれが違う目的を持って同じ門を通ろうとしていた。
「人々がどのような靴を履き、何を食べ、何を運び、どのような道具を使っているのか。地方によって荷車の構造も違えば、街道沿いの植物にも差がありますし、宿場で交わされる何気ない会話から研究の着想を得ることもあります。書物の中だけに答えがあるとは限りませんからね」
「なるほど……」
リナは素直に感心した。変わった人だとは思ったが、言っていることには筋が通っている。
「だから徒歩なんですね」
「ええ。昨日も興味深い発見がありました」
「どんな発見ですか?」
「200キロほど歩いた翌日は、竜人でも足が痛くなります」
「それは研究しなくても分かりません?」
横で仕事をしていたカイルが口を挟んだ。
「実証は重要です」
竜人は真顔で答えた。
「休んだ方がいいですよ……」
リナが呆れ半分に言うと、男は「ご忠告ありがとうございます」と礼儀正しく頭を下げた。
そこでリナは、男が片手に小さな手帳を持っていることに気づいた。待っている間にも使っていたらしく、何ページにも細かな文字がびっしりと並んでいる。
「それも研究ですか?」
「観察記録ですね。南門は非常に興味深い」
「南門が?」
「西門を利用する者は、どうしても特定の階層に偏ります。その点、こちらでは農民、商人、職人、冒険者、様々な種族の旅人まで観察できます。先ほど列に並んでいる間だけでも、いくつか面白い傾向が見られました」
そう言いながら男はリナを見ると、手帳へ何かを書き込んだ。さらさら、とペン先が紙の上を走る。
「…………」
リナの眉が僅かに寄る。
「今、私のこと書きませんでした?」
「書きました」
「何を?」
男は悪びれる様子もなく手帳を確認した。
「王都南門勤務の若い女性衛兵。勤務姿勢は真面目である一方、疑問や驚きが表情へ現れやすい。やや目つきが――」
「そこまででいいです」
リナは即座に止めた。
横でカイルが小さく吹き出す。
「カイルさん?」
「何でもない」
「笑いましたよね?」
「仕事しろ」
「誰のせいで止まったと思ってるんですか」
ぶつぶつ言いながら、リナは気を取り直して記録板を持ち直した。
「では、入都手続きを続けます。お名前をお願いします」
「承知しました」
男は背筋を伸ばした。
「私の正式名は――」
そして、息を吸った。
「アレクサンドル・テオドリック・エルネスト・フリードリヒ・レオポルト・マクシミリアン・アウグスト・フェルディナント・コンラート・バルタザール・ジークフリート・エドゥアルト・ヴィルヘルム・クリストフ・ハインリヒ・ルートヴィヒ・ゲオルク・オットー・フランツ・ヨハネス・セバスティアン・ニコラウス・ヴァレンティン・アルブレヒト・ディートリヒ・ヴォルフガング・エリアス・カスパル・アルノルト・フォン・グランファルド・ドラグニール・アルデリウス・ヴァルゼイン・ローゼンクロイツ・シュタインベルク・ファルケンハイン・ホーエンベルク・エルデンブルク・グリューネヴァルト・アルトハイム・ヴァレンシュタイン・ツー・グランファルド・父祖たる蒼角のアルディオン・母祖たる銀鱗のセレフィア・暁星を観測せしメルキオール・第三古代竜語体系を解きしエルディナス・七星歴法を継承せしヴァルガリウス・王立魔導学院第八十九期首席修了者・王立魔導研究院古代文明研究第二席・北部大遺跡群第三層碑文解読者・失われし第四魔力循環式再発見者・星辰魔力変動観測法改訂者・古代竜語第三方言群第二位解読資格保持者・グランファルド子爵領第十二代学術継承者・蒼穹銀鱗勲章学術級受章者・王立学術評議会特別研究資格保有者・西方石碑群年代測定法共同考案者・第二十三次北方遺跡調査団主席研究員・七色魔力分光観測器改良者・古代魔導炉安全停止術式復元者・第三王立図書院名誉研究閲覧資格保持者・ファリナ王国古代文明保存委員会常任学術顧問・グランファルド=ドラグニール=アルデリウス=ヴァルゼイン家第十四代当主にしてグランファルド子爵――です」
「…………」
男の声が止まった。
荷車の車輪が石畳を鳴らし、どこかで馬が短く嘶く。長大な名乗りの間だけ遠くへ追いやられていたように感じられた南門の喧騒が、急にリナの耳へ戻ってきた。
「…………」
リナは記録板を見ていた。
そこには、
『アレクサンドル・テオドリック・エルネスト・フリードリヒ・レオポルト・マクシミリアン・アウグスト・フェルディナント・コンラート・バルタザール・ジークフリート・エドゥアル……』
までしか書かれていなかった。
最初こそ懸命に筆を走らせていたものの、十を超えたあたりからどこまでが一つの名前なのか分からなくなり、その後に家名らしきものが始まったと思えば、いつの間にか祖先らしき人物や研究成果まで登場していた。しかも男は一度も噛まず、一度も迷わず、まるで毎朝の挨拶でもするような滑らかさで最後まで駆け抜けてしまった。
「以上です」
男が念のため付け加えた。
「…………」
「衛兵殿?」
リナはゆっくり顔を上げた。
「……すいません、途中から全然分かりませんでした」
「おや」
本当に意外そうな顔をされた。
「すみません。もう一度お願いできますか?」
「もちろんです」
「ありがとうございます」
リナは今度こそ、と記録板を構え直した。ペン先へ十分にインクを含ませ、紙の最初の位置へ置く。
「では、お願いします」
「では――アレクサンドル・テオドリック・エルネスト・フリードリヒ・レオポルト・マクシミリアン・アウグスト・フェルディナント・コンラート・バルタザール・ジークフリート・エドゥアルト――」
「待って待って待ってください!!」
開始から数秒だった。
男が口を閉じる。
「はい?」
「同じ速さじゃないですか!」
「同じ名前ですので」
「名前じゃなくて速さです!」
「ああ」
ようやく意味を理解したらしい。
「ゆっくりお願いします! 私、書きますから!」
「承知しました。では、一つずつ申し上げましょう」
「お願いします」
リナは深く息を吸った。
「アレクサンドル」
さらさら。
「はい」
「テオドリック」
さらさら。
「はい」
「エルネスト」
「はい」
「フリードリヒ」
「はい」
「レオポルト」
「はい」
「マクシミリアン」
「はい」
順調だった。
少なくとも最初は。
「アウグスト」
「はい」
「フェルディナント」
「はい」
「コンラート」
「はい」
「バルタザール」
「はい」
「ジークフリート」
「はい」
「エドゥアルト」
「はい」
「ヴィルヘルム」
「はい……」
「クリストフ」
「はい」
「ハインリヒ」
「はい……」
……まだ続く。
リナは一つ書き終えるたびに次の名前を聞き、また筆を走らせた。最初は小気味よく動いていた手も、記録板を埋める文字列が長くなるにつれて次第に重くなり、同じ姿勢を続けているせいで手首の辺りまでじわじわと疲れが溜まってくる。
…………………………あとどれくらい。
リナの返事から、少しずつ元気が消えていった。
男はそれに気づいているのかいないのか、頼まれたとおり非常に丁寧な速度で一つずつ名を告げていく。ゆっくりになったおかげで書き取りはできるようになったが、その代わり終わりがまったく見えない。
「ヴォルフガング」
「…………はい」
「エリアス」
「……はい」
「カスパル」
「…………はい」
「アルノルト」
「…………はい」
カイルが横目でリナを見る。
「リナ」
「……なんですか」
「生きてるか?」
「名前が終わったら返事します」
「今返事してるぞ」
「カイルさんは黙っててください……」
「では続けますね」
「お願いします……」
竜人の男は律儀だった。
非常に律儀だった。
そして律儀であることが、今日に限ってはリナにとって救いになっていなかった。
「フォン・グランファルド」
「……はい」
「ドラグニール」
「はい……」
「アルデリウス」
「はい」
「ヴァルゼイン」
「…………はい」
「ローゼンクロイツ」
「……はい」
インク壺へペン先を浸しながら、リナは小さく手首を振った。記録板にはびっしりと名前が並んでいるのに、目の前の研究者はまだ次を告げようとしている。
…………………………手首が痛い。
後ろの列から、誰かの小さな声が聞こえてきた。
「……まだ名前なのか?」
「さっきからずっと名前だぞ」
別の男が、かなり困ったような声でぼやく。
「……俺、隣で検査受けようかな」
リナは振り返らなかった。
けれど、心の中では激しく思っていた。
私はできるなら隣に移ってもらいたいです…………。
「アルトハイム」
「…………はい」
「ヴァレンシュタイン」
「…………はい」
「ツー・グランファルド」
「…………はい」
ここで男が僅かに息を吸った。
リナの目に、一瞬だけ希望が戻る。
「終わりですか?」
「はい。ここまでが主名と家系名です」
「まだそこ!?」
「ここから継承名と学術名になります」
「今までのは何だったんですか!?」
後ろから小さな笑いが漏れた。
リナはもう気にしなかった。
「続けても?」
「……お願いします」
「父祖たる蒼角のアルディオン」
「…………はい」
………………………………まだ?
「星辰魔力変動観測法改訂者」
「…………はい」
リナはまたインクをつけ直し、今度は握り疲れた指を一度開いてからペンを持ち直した。書いても書いても終わらない名前は、もはや一人の人物を記録しているというより、研究院の業績一覧を書き写しているような気分になってくる。
…………………………。
「七色魔力分光観測器改良者」
「…………はい」
とうとうリナは返事をすることすら忘れ、ただ黙々と筆を走らせ始めた。
「古代魔導炉安全停止術式復元者」
さらさら。
「第三王立図書院名誉研究閲覧資格保持者」
さらさら。
「ファリナ王国古代文明保存委員会常任学術顧問」
さらさら。
「グランファルド=ドラグニール=アルデリウス=ヴァルゼイン家第十四代当主」
さらさら。
「にして、グランファルド子爵」
さら……。
「以上です」
ピタッ。………ペンが止まった。
「…………」
リナは顔を上げない。
「衛兵殿?」
「……終わりました?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「もう一個もないです?」
「現在は」
リナの顔が上がった。
「現在は?」
「今回の研究成果が王立研究院に認められれば、新しい学術名を一つ授与される予定です」
「…………」
「楽しみにしております」
「私は今のままで十分だと思います」
心からそう思った。
カイルが笑いを堪えながら尋ねる。
「ずいぶん長いな」
「そうでしょうか?」
研究者は首を傾げた。
「竜人としては、それほど長い方ではありません」
「これで!?」
リナの声が裏返った。
「私の祖父は、私の三倍ほどありました」
「三倍!?」
「祖父は五百年以上研究を続け、多数の学術名を授与されましたので」
竜人社会では、生涯に得た重要な称号や功績名を正式名へ加えていく習慣があり、特に学者や貴族は長寿であるほど名前も長くなりやすいのだという。目の前の研究者にとって、先ほどの長大な名乗りは奇行でも嫌がらせでもなく、自分が誰であるかを正式に示しただけだった。
つまり悪意はまったくない。
だから余計に怒れない。
カイルがふと思いついたように尋ねた。
「……ところで、普段はなんて呼ばれてるんだ?」
「アレクです」
「…………」
リナの動きが止まった。
「……今、なんて?」
「アレクです。家族や同僚は大抵そう呼びます。身分証も略称で書かれてますよ?」
「アレクさん?」
「はい」
「…………」
リナは長大な正式名で埋め尽くされた記録板を見る。それから男を見る。もう一度記録板を見る。
「最初からアレクさんじゃ駄目だったんですか!?」
「ですが、正式な入都検査ですので」
研究者は申し訳なさそうに眉を下げた。
「略称だけを名乗るのは、職務を遂行されている衛兵殿に対して失礼かと思いまして」
「…………」
真面目だった。善意だった。
純度の高い善意だった。
「……お気遣いありがとうございます」
リナはそれしか言えなかった。
「それにしても……」
リナは改めて研究者を上から下まで眺めた。子爵家の当主であり、王立魔導研究院の研究者であり、それだけの学術的な肩書きを持つ人物が、土埃の付いた靴で五十キロ近い荷物を背負い、従者も護衛も連れずに南門の一般列へ並んでいたのである。
「五十キロ近い荷物を背負って徒歩で来る子爵様……」
「何か問題が?」
「……いえ。ありません」
本人にとっては本当に普通なのだろう。
「では……荷物を確認します」
「お願いします」
ようやく名前という巨大な山を越えたリナは、今度は巨大な背嚢を開いた。
中には本当に本が詰まっていた。革張りの分厚い書籍や紙束、丁寧に布で包まれた石片、金属製の測定器具、大小様々な瓶、用途の分からない魔法道具が隙間なく収納されている。
「これは?」
リナが銀色の筒状器具を持ち上げる。
「古代魔導文明中期に使用されたと推定される魔力波長偏向現象を再現するため、王立研究院第三魔導工房と共同で開発した試作型――」
「用途だけお願いします」
「光ります」
「最初からそれでお願いします」
次に、円盤のような器具。
「これは?」
「多層式精霊反応観測機構を応用し、周囲の微細な――」
「用途」
「回ります」
「はい」
さらに奥から、赤い印の付いた小箱が出てきた。
「これは?」
「試作第七号高密度魔力蓄積結晶安定性検証装置です」
「用途は?」
「たまに爆発します」
「詳しく説明してください」
リナの目つきが変わった。
「そこは聞くんだな」
「聞きますよ!!」
調べてみれば、危険物としてきちんと申告されており、王立研究院発行の輸送許可証も、魔力封印の証明書も、王都への持ち込み許可もすべて揃っていた。変な物ばかり持っているのに、法的には驚くほど完璧だった。
「……問題ありません」
「ありがとうございます」
「本当に全部ちゃんとしてる……」
「法令を守ることは研究者として当然ですから」
「名前以外はすごく検査しやすい人なのに……」
「何か?」
「何でもありません」
最後まで荷物を確認したリナは、ようやく身分証を返した。
「入都を許可します」
「ありがとうございました」
研究者は巨大な背嚢へ腕を通し、軽々と背負った。
「……ちなみに、それ何キロくらいあるんです?」
「出発時は98キロでした」
「出発時?」
「道中で石を三つ採取しましたので、現在は100キロを少し超えているでしょうか」
「石を置いていけばいいじゃないですか」
「貴重な標本です」
即答だった。
「王都の中も徒歩ですか?」
「もちろんです。市場を回ってから研究院へ向かう予定です」
「少し休んだ方がいいですよ?」
「疲労状態が観察精度へ与える影響も興味深い研究対象ですね」
「そういう意味じゃありません!」
研究者は楽しそうに手帳を取り出した。
「そういえば、今回も一つ興味深い発見がありました」
「……なんですか?」
「人間は極端に長い名称を書き取り続けると、一定時間を境に返答が短くなり、瞬きの回数が減少する傾向が――」
「私で研究してたんですか!?」
「大変参考になりました」
「勝手に参考にしないでください!」
「研究報告へ記載しても?」
「駄目です!」
「では匿名で」
「そういう問題じゃありません!」
横からカイルが口を挟む。
「『王都南門勤務、十七歳女性衛兵』」
「ほぼ私じゃないですか!」
「なるほど」
研究者は真剣な顔で手帳へ書き込む。
「匿名化の際には、年齢や所属についても範囲を広げる必要がある、と」
「そこも研究しないでください!!」
最後まで大真面目な研究者は丁寧に頭を下げると、巨大な背嚢を揺らしながら王都の人混みへ歩いていった。すぐ近くを馬車が何台も通っているにもかかわらず、乗ろうとする様子などまったくなく、むしろ道端の露店を見つけるたびに手帳へ何かを書き込んでいる。
リナはその背中が人混みへ消えるまで見送り、長く息を吐いた。
「……疲れた」
「名前聞いただけでな」
「名前だけじゃないです」
「ほとんど名前だったぞ」
「言わないでください」
まだ入都を待っている旅人たちへ目を向けると、先ほど「隣で検査を受けようかな」とぼやいていた男の姿はいつの間にか列から消えていた。
「……本当に隣に行ったんだ…」
「賢明な判断だな」
「カイルさん?」
「ほら、次行くぞ」
「……はい」
リナは気持ちを切り替え、次の男性を呼んだ。
「お待たせしました。こちらへどうぞ」
「はい」
ごく普通の人間の旅人だった。
リナは記録板を新しい頁へめくる。
「では、お名前をお願いします」
「ボブです」
「…………」
リナの手が止まった。
ゆっくり顔を上げる。
「……ボブ?」
「はい」
「それだけ?」
「え? はい。ボブですが……」
身分証を見る。
本当にボブとだけ書いてある。
リナの顔が、ぱっと明るくなった。
「ありがとうございます!!」
「えっ!?」
事情を知らないボブが驚き、横でカイルがとうとう声を上げて笑った。
【リナの日記】
今日、名前を書いた。
名前だけで手が疲れた。
ものすごく長かった。
本当に長かった。
最初はちゃんと書こうとした。
途中で分からなくなった。
もう一度お願いした。
同じ速さで言われた。
止めた。
ゆっくりお願いした。
今度は書けた。
でも終わらなかった。
書いても書いても名前だった。
途中から「はい」って言う元気もなくなった。
後ろにいた人が「隣で検査受けようかな」と言っていた。
気持ちはすごく分かった。
最後には本当にいなくなっていた。
賢いと思う。
あの人の正式名を日記にも書こうと思った。
やめた。
というか書きたくない。
アレクさんでいい。
普段はアレクさんって呼ばれてるらしい。
最初からそれでいいと思う。
でも正式な検査だから、略称だと私に失礼だと思ったらしい。
すごく礼儀正しい。
だから怒れない。
余計に困る。
しかも子爵様だった。
子爵様なのに徒歩だった。
馬車もない。
従者もいない。
護衛もいない。
100キロくらい背負ってた。
研究者ってすごい。
たぶん違う意味でもすごい。
おじいさんは三倍くらい名前が長かったらしい。
会いたくない。
いや、会っても名前だけは聞きたくない。
荷物も変だった。
光る。
回る。
たまに爆発する。
最後だけはちゃんと詳しく聞いた。
全部許可を取ってた。
名前以外はものすごくちゃんとした人だった。
あと、私が名前を書いているところを観察されていた。
研究材料にしないでほしい。
そして次に来た人は、
ボブさん。
ボブ。
短い。
素晴らしい。
今日ほど短い名前に感動したことはない。
ボブさん。
あなたの名前を私はたぶん一生忘れない。
短い名前は素晴らしい。




