第10話 新人衛兵と面倒くさい貴族
昼を少し過ぎた王都南門では、朝方の激しい混雑こそ落ち着いていたものの、地方から王都を訪れる旅人や商人の姿は途切れず、門前には十数人ほどの列が伸びていた。
リナは旅人の身分証を確認すると、記録板へ必要事項を書き込み、問題がないことを確かめてから顔を上げた。
「はい、大丈夫です。どうぞ」
「ありがとう、衛兵さん」
旅人が軽く頭を下げて王都へ入っていく。次の人を呼ぼうとしたところで、列から少し離れた街道の端を歩いてくる一人の男が目に入った。
長い銀髪に先端の尖った耳。エルフである。
人間なら二十代後半ほどに見える整った顔立ちに、深い紺色の上質な外套。襟や袖には銀糸で繊細な刺繍が施され、腰には装飾の美しい細身の剣を下げている。指には宝石を嵌め込んだ指輪まで光っており、相当に裕福な人物であることは一目で分かった。
ただし、その表情は明らかに不機嫌だった。
男は門前まで来ても列の最後尾へ向かわず、並んでいる人々の横を当然のように通り抜け、そのままリナの前へやって来た。
「入都ですか?」
「そのつもりでここまで来た」
ずいぶん偉そうな言い方をする人だな、と思ったものの、リナはいつも通り丁寧に応対した。
「でしたら、列に並んでください」
「…………何?」
「こちらでは順番に入都の確認を行っておりますので、最後尾へお願いします」
男はゆっくりと列へ顔を向けた。農作物を積んだ荷車の横には日に焼けた農夫が立ち、その後ろには旅人や子供連れの夫婦、商人らしい一団も並んでいる。
しばらくその光景を眺めた男は、信じられないものを見るような顔でリナへ向き直った。
「私が、あの列に並ぶのか?」
「はい」
「……なるほど。私が誰か知らんのだな」
「申し訳ありません。どちら様でしょうか?」
男は待っていましたとばかりに背筋を伸ばし、外套の襟元を整えた。
「ルシアン・エルヴァレストだ」
「そうですか。では、ルシアン様、列の最後尾へお願いします」
「…………」
ルシアンの表情が固まった。
「今、名前を聞いたな?」
「はい」
「エルヴァレストだぞ?」
「はい。お名前は分かりました」
「ならば!」
「列に並んでください」
「なぜだ!?」
突然大きくなった声に、順番を待っていた旅人たちが何事かと振り返った。
「エルヴァレスト家を知らんのか!」
「家名は聞いたことがありますけど……」
「なら分かるだろう! 私は伯爵家の人間だ!」
「ああ、貴族の方なんですね」
ようやく理解したかとばかりに、ルシアンが胸を張る。
リナは少し考えてから、西の方角を指した。
「でしたら、貴族用の入都手続きは西門で行えますよ」
「知っている」
「では、西門へどうぞ」
「断る」
「…………」
リナの指が止まった。
「では、南門から入るなら列に並んでください」
「それも断る」
「……どうしたいんですか?」
「ここから入る。それだけだ」
「だから、並んでください!」
ルシアンは不愉快そうに眉を寄せ、王宮にも出入りしていることや、国王に拝謁した経験があることまで持ち出してきた。しかしリナの答えは変わらない。
貴族用の手続きが必要なら西門へ行く。南門を利用するなら一般の入都者と同じく順番を待つ。それだけのことである。
「まったく、融通の利かん衛兵だな!」
「規則ですから!」
押し問答が続く間に、後ろの列が止まり始めていた。
門柱のそばにいたカイルは面倒そうに息を吐くと、リナの後ろに並んでいた人々を自分の検査位置へ誘導し始めた。
もう一班も通常通り検査を続けており、南門全体の流れが止まることはなかった。
「いいか、リナ・フェルド!」
「なんで私の名前を知ってるんですか?」
「胸の徽章に書いてある!」
リナは思わず自分の胸元を見た。
「あ、本当だ」
「話を逸らすな!」
「逸らしたのはそっちでしょう!」
その間にカイルが一人目を通した。
「私はエルヴァレスト伯爵家当主の弟だぞ!」
「はい」
「国王陛下にも拝謁したことがある!」
「そうですか」
「ならば、私をあの列へ並ばせることがおかしいと分かるだろう!」
「分かりません!」
二人目が通った。
「そもそも、私は三百歳だぞ!」
「…………」
リナは目の前のエルフを改めて見つめた。整った顔には皺一つなく、銀髪も老化による白髪とは違う。人間なら二十代後半と言われても疑わないような外見である。
「……お若く見えますね」
「そういう話ではない!」
「三百歳なんですよね?」
「そうだ! 少しは年長者を敬え!」
「敬うことと、入都の順番を飛ばすことは別です!」
ルシアンは額へ手を当て、信じられないとでも言いたげに首を振った。
「三百年生きてきて、こんな扱いを受けたことはないぞ!」
「それは今まで西門を使っていたからじゃないですか?」
「…………」
ルシアンの視線がわずかに横へ逸れた。
「……使ってたんですね?」
「今はその話をしているのではない!」
「してますよ!」
何度説明しても同じところへ戻る。最初は相手が貴族だと分かって多少言葉を選んでいたリナも、さすがに苛立ちを隠せなくなってきた。
ふと、ルシアンの長く尖った耳が目に入った。
「……ルシアン様」
「なんだ!」
「三百歳なんですよね?」
「何度言わせる。そうだ!」
リナは少しだけ身体を前へ傾けた。
「お歳で耳が遠いんですか!?」
「誰が年寄りだ!!」
ルシアンの怒声が南門へ響き渡り、近くにいた馬まで驚いて耳を動かした。
「聞こえてるじゃないですか!」
「当たり前だ!」
「だったら並んでください!」
「断る!」
「聞こえてるのに従わない方が悪いじゃないですか!!」
「仮にも年上に向かって、何という口の利き方だ!」
「三百歳を持ち出したのはルシアン様でしょう!」
「年齢を敬えという意味だ!」
「だったら年長者らしくしてください!」
「なっ……!」
ルシアンが初めて言葉を失った。
リナも言ってから少し強かっただろうかと思ったものの、ここまで来て引き下がるのも悔しく、視線を逸らさない。
そこへカイルの声が飛んできた。
「リナ、六人終わったぞ」
「いちいち数えなくていいです!」
「そっちは?」
「まだ一人も終わってません!!」
その答えを聞いたルシアンが、今度はカイルへ向き直った。
「おい、そこの衛兵! お前はこいつの先輩だろう。ならば話が分かるはずだ。私を通せ!」
「無理だな」
「なぜだ!」
「規則通りやってる奴を止める理由がない」
あまりにもあっさりした返事だった。
ルシアンが黙り、リナは思わず胸を張る。
「ほら!」
「その勝ち誇った顔をするな!」
「勝ち負けじゃありません!」
「ならばなぜ嬉しそうなのだ!」
「嬉しくありません!」
カイルは二人のやり取りを眺めながら、何事もなかったように次の旅人を呼んだ。
ルシアンはしばらく不満そうに唇を結んでいたが、やがて外套の内側へ手を入れ、上質な革製の身分証入れを取り出した。
「これを見ろ! エルヴァレスト家の正式な身分証だ!」
リナが受け取って確認すると、王国の印章とともに名前、家名が記載されている。生年を確かめれば、本人が何度も主張していた三百歳という年齢まで間違いなかった。
何の問題もない、立派な身分証である。
「……あるんじゃないですか!」
「当然だ!」
「だったら最初から出してくださいよ!」
「家名を聞けば分かるだろう!」
「家名だけで本人かどうか分かりません!」
「これで分かっただろう!」
「はい。ご本人だと確認できました」
「ならば通せ!」
リナは身分証を返すと、改めて列の最後尾を示した。
「それでは、列に並んでください」
「なぜ話が最初に戻る!?」
「最初からずっとその話です!!」
ルシアンは頭を抱えた。
「もうよい! 私だけ先に通すという選択肢はないのか!」
「ありません!」
「作れ!」
「作りません!」
そのとき、カイルの検査位置から十人目の旅人が王都へ入っていった。
リナは短くなった列へ視線を向け、それからルシアンに向き直る。
「……最初から並んでいたら、もう終わってましたよ」
「…………」
ルシアンも列を見る。
最初に追い越してきた人々は、もう誰も残っていなかった。
「……結果論だ」
「結果が出てるじゃないですか!!」
近くにいた旅人が、とうとう吹き出した。
そのとき、街道の向こうから馬車の音が近づいてきた。二頭の立派な馬に引かれた重厚な馬車が、ゆっくりと南門へ向かってくる。
磨き上げられた車体には品のある銀細工が施され、扉には立派な家紋が刻まれていた。
その馬車を見た瞬間、ルシアンの表情が変わった。
「あ」
「……あ?」
「何でもない」
「今、『あ』って言いましたよね?」
「言っていない」
「自分の声まで聞こえなくなったんですか?」
「だから年寄り扱いするな!」
馬車が近くで止まり、扉から白髪交じりの髪を丁寧に撫でつけた老紳士が降りてきた。黒を基調とした服装は簡素ながら上質で、背筋を伸ばした立ち姿には長年高位の家へ仕えてきた人物らしい落ち着きがある。
「ルシアン様」
「遅いぞ」
まるで自分がずっと待たされていたかのような言い方だったが、執事は謝ることなく、主人とリナを交互に見た。
「……ルシアン様。もしや、こちらから入都なさろうとしていたのですか?」
「そうだ。この衛兵がどうしても並べと言うのでな」
「南門ですから!」
リナがすかさず言い返す。
執事は静かに目を閉じた。
「ですから、馬車でお待ちくださいと申し上げたのです」
「二十分も待てるか」
「修理は十五分で完了いたしました」
「…………」
リナの眉がゆっくり上がった。
「……修理?」
執事はリナへ丁寧に頭を下げた。
「王都へ向かう途中で馬車の車軸に不具合が生じまして。御者と私が確認している間に、ルシアン様が先に歩いて行かれてしまったのです」
「南門が近くに見えたからな」
「本来は西門へ向かう予定でございました」
リナはゆっくりルシアンへ顔を向けた。
「……知ってましたよね?」
「当然だ」
「じゃあ、なんで南門に来たんですか!」
「近かったからだ!」
「馬車を十五分待てばよかったでしょう!」
「二十分かかると言われた!」
「十五分で直ってるじゃないですか!」
「結果論だ!」
「またそれですか!!」
執事は主人とリナのやり取りを静かに見守っていたが、やがて申し訳なさそうに説明を続けた。
「なお、西門でしたら家紋入りの馬車まで衛兵の方が確認に来られますので、ルシアン様は降車する必要もございません。身分証をご提示いただき、書類については私が対応いたします」
「……時間は?」
「特に問題がなければ数分ほどかと」
「…………」
リナはルシアンを見る。
執事も見る。
少し離れた場所からカイルまで見ていた。
三方向から視線を浴びたルシアンは、しばらく無言を貫いた。
「…………結果論だ」
「どこがですか!!」
リナの声が南門いっぱいに響いた。
「馬車で十五分待つ! 西門へ行く! 降りずに身分証を見せる! 執事さんが手続きする! 数分で終わる!」
「そうだな!」
「なのに一人で南門まで歩いてきて、ずっと列に並ばなかったんですよね!?」
「私は貴族だ!」
「もう聞きました!!」
執事が小さく息を吐き、主人へ向き直った。
「ルシアン様。これより西門へ参りましょう。こちらでさらに押し問答を続けるより、その方が早いかと」
正論だった。
ルシアンは不満そうに南門を眺めたものの、ようやく諦めたように息を吐き、馬車へ向かって歩き始めた。
これで終わった。
ようやく終わった。
リナが胸の奥に溜めていた息を吐いた、そのときだった。
「リナ・フェルド!」
馬車へ乗り込む直前、ルシアンが振り返った。
その顔には、先ほどまでの不機嫌さとは違う、妙に楽しそうな笑みが浮かんでいる。
「……何ですか?」
「気に入った!」
「…………はい?」
「気に入ったぞ、お前!」
「なんで!?」
ルシアンは実に愉快そうに笑った。
「私が家名を出しても引かず、貴族だと言っても引かず、三百歳だと言っても最後まで同じことを言い続けた!」
「だって並んでくれないからです!」
「しかも私に『お歳で耳が遠いのか』などと言った! 三百年生きてきたが、そんなことを言った衛兵は初めてだ!」
「普通は言いませんよ!」
「はははは! 面白い!」
「私は全然面白くありません!」
満足そうに笑ったルシアンは、執事が開けた馬車の扉へ足をかけた。
「次に王都へ来るときも南門を使おう!」
「西門を使ってください!!」
「断る!」
「なんで!?」
「お前がいるからだ!」
「来なくていいです!!」
執事が申し訳なさそうにリナへ頭を下げた。
「次回は西門をご利用いただくよう、私からも申し上げます」
「絶対お願いします!」
「努力いたします」
「努力じゃなくて約束してください!」
ルシアンが馬車の中から再び笑い声を上げた。
「ではな、リナ・フェルド! また会おう!」
「西門から来てください!」
「聞こえんな!」
「耳、遠くなってるじゃないですか!!」
「誰が年寄りだ!!」
「聞こえてるじゃないですか!!」
馬車の扉が閉まり、執事が最後にもう一度深く頭を下げる。やがて馬車は本来向かうはずだった西門の方角へ走り出した。
リナはその姿が街道の先へ小さくなっていくまで、しばらく無言で見送っていた。
結局、ルシアンは南門から入都しなかった。
列にも並ばず、三百歳を何度も主張し、散々騒いだ末に、最後には勝手にリナを気に入って西門へ去っていっただけだった。
「……何だったんですか、あの人」
「よかったな」
横からカイルの声が聞こえる。
「何がです?」
「三百歳の貴族に気に入られた」
「全然よくありません」
「次も来るらしいぞ。お前に会いに」
「言わないでください!」
カイルが面白そうに笑う。
リナは長棒を握り直すと、ゆっくり彼へ向き直った。
「カイルさん。今日の棒術訓練、付き合ってください」
「なんで俺なんだ」
「さっき楽しそうに見てましたよね?」
「仕事してただけだ」
「じゃあ、仕事で溜まった疲れを一緒に発散しましう」
「俺は疲れてない」
「私が疲れてるんです!!」
カイルが嫌そうに顔をしかめる一方で、リナは遠ざかる馬車をもう一度だけ睨んだ。
三百歳。
伯爵家。
王宮にも出入りする貴族。
正式な身分証も持っている。
家紋入りの馬車があり、手続きを任せられる執事までいる。
それなのに、たった十五分が待てなかった。
三百年生きても、人は必ずしも落ち着くわけではないらしい。
少なくとも今日、リナはそれだけはよく分かった。
【リナの日記】
今日は三百歳のエルフ貴族が来た。
名前はルシアン・エルヴァレスト様。
伯爵家の方らしい。
すごく立派な服を着ていた。
でも列に並ばなかった!!




