第七章『忘れられない瞳』
黒い霧が晴れた時。
ガブリエラたちは、
人気のない路地裏へ移動していた。
石畳。
薄暗い壁。
遠くから聞こえる街の喧騒。
転移したばかりで、
ガブリエラの身体は酷く震えていた。
「はぁ……っ……」
呼吸が乱れる。
胸が苦しい。
ノクスはそんな彼女を静かに見下ろした。
「……無理するな」
「してない……」
掠れた声。
だが、
明らかに動揺していた。
レオンハルト。
五年ぶりに見た婚約者。
憎んでいる。
恨んでいる。
そのはずなのに。
あの顔を見た瞬間、
心の奥が悲鳴を上げた。
忘れられていなかった。
愛していた頃の記憶を。
ガブリエラは拳を握り締める。
爪が食い込むほど強く。
ノクスは壁へ寄りかかりながら言った。
「……思ったより効いてるな」
「別に」
「嘘つけ」
即答だった。
ガブリエラは唇を噛む。
ノクスは視線を逸らさず続けた。
「まだ好きか?」
その言葉に、
心臓が止まりそうになる。
「っ……!」
顔が強張る。
否定したかった。
けれど、
言葉が出ない。
ノクスは小さく息を吐いた。
「図星か」
「違う……!」
反射的に否定する。
だがその声は、
自分でも驚くほど弱かった。
ノクスはしばらく黙っていた。
やがて、
低く呟く。
「面倒だな」
「……何が」
「恋ってのは」
その声音はどこか冷めていた。
まるで、
そんな感情を信じていないような。
ガブリエラは思わず尋ねる。
「あなたは……誰かを好きになったことないの?」
ノクスが一瞬だけ目を細めた。
だがすぐ、
いつもの余裕ある笑みに戻る。
「さあな」
はぐらかされた。
けれど、
ほんの僅かに見えた表情が、
妙に寂しそうだった。
その時。
遠くから鐘の音が響いた。
帝都中央の鐘。
ノクスは空を見上げる。
「……皇族の巡回が終わったか」
ガブリエラはゆっくり呼吸を整えた。
まだ胸は痛む。
けれど。
あの瞬間、
レオンハルトが見せた表情が引っかかっていた。
あれは何だったのか。
驚き。
困惑。
そして――。
まるで、
死者を見たような顔。
ガブリエラは小さく呟く。
「……どうして」
「何がだ?」
「どうして、
あんな顔したのかなって」
ノクスは少し考えるように黙った。
「勘かもしれないな」
「勘?」
「人間は時々、
理屈じゃ説明できない違和感を感じる」
赤い瞳が細められる。
「特に、
強く執着してた相手にはな」
執着。
その言葉に胸がざわつく。
レオンハルトが、
自分に執着していた?
そんなはずない。
だって彼は、
自分を切り捨てたのだから。
ガブリエラは視線を落とす。
すると突然、
通りの奥から女性たちの声が聞こえてきた。
「次の舞踏会、セレナ様も出席されるんですって!」
「まあ、皇太子妃候補ですものね」
「本当にお綺麗よねぇ」
ガブリエラの身体が硬直する。
セレナ。
その名前だけで、
胃の奥が焼けるように痛む。
女性たちは楽しそうに話していた。
「お姉様を亡くされてから、
ずっと皇太子殿下を支えてるんでしょう?」
「なんて健気なの……!」
「まさに理想の淑女よね」
ガブリエラは息を失った。
笑いそうになる。
健気?
理想?
全部奪った女が?
胸の奥から、
黒い感情が溢れ出す。
怒り。
憎悪。
殺意。
魔力がざわつく。
空気が歪み始める。
ノクスがすぐ彼女の腕を掴んだ。
「抑えろ」
低い声。
その瞬間、
暴れかけた魔力が止まる。
ガブリエラは震えていた。
「……っ、なんで……」
どうして自分ばかり。
どうして、
奪った側が幸せそうに笑っているのか。
涙が滲む。
悔しい。
苦しい。
ノクスは静かに彼女を見つめた。
「復讐したいか?」
ガブリエラは答えなかった。
だがその沈黙だけで十分だった。
ノクスはゆっくり微笑む。
「ならまず、
力を手に入れろ」
「……力」
「今のお前は不安定すぎる」
彼はガブリエラの胸元へ触れる。
心臓の上。
その瞬間、
体内の魔力が熱を持った。
「お前の中には、
神と魔王両方の力がある」
「え……」
「だが、
まだ制御できてない」
ノクスは静かに言う。
「暴走すれば、
お前自身が壊れる」
ガブリエラは目を見開いた。
確かに、
感情が揺れるたび魔力が溢れそうになる。
地下牢でも、
レオンハルトの前でもそうだった。
ノクスは続ける。
「だから訓練する」
「訓練?」
「魔力制御だ」
ガブリエラは戸惑った。
貴族として最低限の魔法教育は受けていた。
だが、
こんな異質な力は知らない。
ノクスは少し楽しそうに笑う。
「安心しろ。
ちゃんと教えてやる」
「……あなたが?」
「不満か?」
「……ちょっと怖い」
本音だった。
するとノクスは吹き出す。
「正直だな」
その笑顔を見た瞬間。
ガブリエラの胸が、
僅かに高鳴った。
危険だ。
本当に。
この男といると、
感覚が狂う。
ノクスは歩き出す。
「行くぞ」
「どこへ?」
振り返った彼は、
妖しく微笑んだ。
「お前の力を目覚めさせる場所だ」
その赤い瞳の奥で。
まるで闇そのものが、
静かに揺れていた。




