第六章『仮面の皇太子』
翌朝。
ガブリエラは、
柔らかな陽光で目を覚ました。
眩しい。
地下牢では決して見ることのできなかった朝の光。
白いカーテンが風で揺れ、
鳥のさえずりが遠くから聞こえる。
それだけで、
涙が出そうになる。
「……朝」
掠れた声が漏れる。
カサンドラの記憶にも、
こんな穏やかな朝はほとんど存在しなかった。
ガブリエラはゆっくり起き上がる。
すると、
ベッド脇の椅子に黒い服が置かれていた。
シンプルなワンピース。
そして短剣。
「……短剣?」
不思議に思いながら手に取る。
その時、
扉がノックされた。
「起きたか」
ノクスの声。
ガブリエラは慌てて返事をする。
「う、うん」
扉が開く。
朝の光を背に立つノクスは、
夜よりさらに人間離れして見えた。
黒髪が光を受けて艶めき、
紅い瞳が静かに細められる。
「顔色は悪くないな」
「……あなた、
ずっと起きてたの?」
ノクスは軽く肩を竦めた。
「魔族はあまり眠らない」
そう言いながら、
彼は机へパンとスープを置く。
昨日よりまともな食事だった。
湯気が立っている。
ガブリエラは思わず目を瞬かせた。
「……これ」
「食え」
「作ったの?」
「嫌そうな顔するな」
少し不機嫌そうに言われ、
ガブリエラは慌てる。
「ち、違う!
意外だっただけ」
ノクスは鼻で笑った。
「失礼な奴だな」
そのやり取りが、
どこか自然だった。
ガブリエラは戸惑う。
こんな風に、
誰かと穏やかに会話をするなんて。
もう二度とないと思っていた。
食事を口へ運ぶ。
温かい。
ただそれだけなのに、
胸がじんわり熱くなる。
ノクスは窓際へ寄りかかりながら言った。
「今日は街へ行く」
ガブリエラの手が止まる。
「街……?」
「今のお前には情報が必要だ」
ノクスは視線を向ける。
「それに、
復讐したいなら現実を見ろ」
復讐。
その言葉に、
ガブリエラの胸が重くなる。
だが逃げるわけにはいかない。
彼女は静かに頷いた。
⸻
昼頃。
二人は帝都ルミナスへ来ていた。
五年ぶりの帝都。
街並みは以前より華やかになっていた。
新しい店。
広場の噴水。
笑い声。
まるで、
自分が死んだことなど関係ないと言わんばかりに世界は回っている。
ガブリエラはフードを深く被った。
「……変わってない」
「当たり前だ」
ノクスは隣を歩きながら言う。
「人間は誰かが死んでも、
驚くほど普通に生き続ける」
その言葉が胸に刺さる。
確かにそうだ。
自分一人が苦しんでいても、
世界は止まらない。
ガブリエラは人混みの中を歩いた。
すると突然、
広場がざわめき始める。
「皇太子殿下だ!」
「レオンハルト様よ!!」
その名前に、
ガブリエラの呼吸が止まった。
ゆっくり振り返る。
白銀の馬。
騎士たち。
そして中央にいたのは――。
レオンハルトだった。
五年ぶりに見る姿。
以前より背が高くなり、
雰囲気も変わっている。
金髪は短く整えられ、
蒼い軍服を纏っていた。
その顔は美しい。
だが。
かつての優しさは消えていた。
冷たい。
まるで氷のように。
民衆は歓声を上げている。
「素敵……」
「やっぱり次期皇帝はレオンハルト様よね」
ガブリエラの胸が苦しくなる。
忘れたはずだった。
憎むと決めたはずだった。
なのに。
視界へ映った瞬間、
心が揺れてしまう。
ノクスが横目で彼女を見た。
「平気か?」
「……平気」
嘘だった。
全然平気じゃない。
指先が震えている。
その時。
馬上のレオンハルトが、
ふとこちらを見た。
ガブリエラは息を呑む。
視線が合った。
一瞬。
ほんの一瞬だった。
なのに、
レオンハルトの表情が変わる。
驚愕。
信じられないものを見る顔。
馬が止まる。
騎士たちが戸惑う。
「殿下?」
だがレオンハルトは、
真っ直ぐガブリエラを見つめていた。
蒼い瞳が揺れている。
ガブリエラは反射的に顔を伏せた。
見つかる。
そんな恐怖が走る。
あり得ない。
この顔はカサンドラだ。
ガブリエラではない。
なのに。
レオンハルトは馬から降りた。
人々がざわめく。
彼はゆっくりこちらへ歩いてくる。
鼓動がうるさい。
逃げたい。
でも足が動かない。
ノクスが僅かに前へ出た。
二人の間へ立つように。
レオンハルトは足を止める。
蒼い瞳が細められた。
「……お前」
低い声。
それは、
ガブリエラの知る優しい声音ではない。
皇太子としての声。
レオンハルトはフード越しに彼女を見る。
「名前は?」
ガブリエラは答えられなかった。
喉が震える。
するとノクスが笑う。
「知らない女に随分興味津々だな、皇太子」
その瞬間。
周囲の空気が変わった。
騎士たちが警戒する。
レオンハルトの視線がノクスへ移る。
「……貴様」
明らかな敵意。
ノクスは余裕そうに肩を竦めた。
「怖い顔するなよ」
「その女から離れろ」
ガブリエラは目を見開く。
離れろ。
どうしてそんなことを言うのか。
レオンハルトは、
まるで彼女を守ろうとするように手を伸ばした。
その瞬間。
カサンドラの中で、
感情が爆発した。
――触らないで。
婚約破棄の日の記憶。
冷たい瞳。
見捨てられた痛み。
怒り。
悲しみ。
黒い魔力が、
一瞬だけ溢れた。
周囲の空気が震える。
騎士たちがざわめいた。
「魔力……!?」
レオンハルトの目が見開かれる。
ガブリエラは我に返り、
咄嗟に後退した。
まずい。
ここで正体がバレたら終わる。
ノクスは彼女の肩を抱き寄せる。
「行くぞ」
次の瞬間。
黒い霧が視界を覆った。
転移魔法。
レオンハルトが手を伸ばす。
「待て!!」
だが。
その手は届かない。
最後に見えたのは――。
皇太子の、
酷く苦しそうな表情だった。




