第五章『五年後の世界』
森の奥には、
古びた屋敷が建っていた。
深い霧に包まれたその館は、
まるで人目を避けるように静かに佇んでいる。
ノクスは迷うことなく扉を開けた。
重厚な扉が軋む。
中へ入った瞬間、
ガブリエラは目を見開いた。
暖炉。
赤い絨毯。
大きな窓。
地下牢とは正反対の、
温かな空間だった。
「……ここ」
「俺の拠点の一つだ」
ノクスは外套を脱ぎ捨てる。
その姿を見て、
ガブリエラは僅かに息を呑んだ。
黒いシャツ越しにも分かる鍛えられた身体。
長い指。
そして首元には、
黒い紋章のような痣が刻まれている。
それは禍々しいのに、
どこか美しかった。
「そんなに見るな」
不意に言われ、
ガブリエラは慌てて視線を逸らす。
「み、見てない」
「嘘つけ」
ノクスが小さく笑う。
その笑みに、
胸がざわついた。
危険な男だ。
分かっている。
なのに、
なぜか目を離せない。
ノクスは棚から薬瓶を取り出した。
「座れ」
言われるまま椅子へ腰掛ける。
すると彼は当然のように、
ガブリエラの顎へ手を添えた。
「傷がある」
「え?」
指先が首筋をなぞる。
そこには、
神殿で付けられた傷跡が残っていた。
カサンドラの身体には、
無数の痣と火傷がある。
ノクスの目が冷たく細められた。
「……趣味の悪い連中だ」
その声音に、
微かな怒りが混じっている。
ガブリエラは思わず尋ねた。
「どうして怒るの?」
「は?」
「私なんかのために」
その瞬間。
ノクスの手が止まる。
赤い瞳が、
じっとこちらを見つめた。
「……お前、自分をそんな風に思ってるのか」
ガブリエラは言葉に詰まった。
“私なんか”。
気づけば、
いつもそう思っていた。
義妹と比べられ。
否定され。
最後には、
存在ごと消された。
だからもう、
自分に価値があるなんて思えない。
ノクスは深く息を吐いた。
「まずそこからだな」
「?」
「お前はもっと、
自分を大事にしろ」
優しい声だった。
その言葉に、
胸が苦しくなる。
どうして。
どうしてこの男は、
こんな風に言えるのだろう。
ガブリエラは視線を落とした。
「……分からない」
「何が?」
「優しくされる理由」
ノクスは少し黙ったあと、
ふっと笑う。
「さっきも言っただろ。
お前の母親に借りがある」
「それだけ?」
「それだけじゃ不満か?」
からかうような声音。
ガブリエラは小さく眉を寄せた。
その表情を見て、
ノクスが楽しそうに笑う。
こんな風に誰かと話すのは、
いつ以来だろう。
ガブリエラは戸惑っていた。
ノクスの隣は危険だ。
本能がそう告げている。
けれど同時に、
安心してしまう自分がいる。
その時だった。
突然、
頭痛が走る。
「っ……!」
ガブリエラは額を押さえた。
また記憶。
視界が揺れる。
今度は、
ガブリエラ自身の記憶だった。
舞踏会。
婚約破棄。
セレナの笑顔。
『全部、私がもらうね』
怒りが蘇る。
胸が焼けるように熱い。
呼吸が乱れる。
すると、
ノクスがそっと肩へ触れた。
「落ち着け」
低い声。
それだけで、
暴れかけていた魔力が静まっていく。
ガブリエラは息を整えた。
「……ごめん」
「謝るな」
ノクスは静かに言う。
「記憶が混ざる時は不安定になる」
「混ざる?」
「ガブリエラとしての記憶と、
カサンドラとしての記憶だ」
その名前に、
ガブリエラの胸が痛む。
“ガブリエラ”。
もう死んだ人間。
誰にも知られてはいけない名前。
ノクスは暖炉へ薪を投げ入れながら続ける。
「今のお前は、
完全にどちらでもない状態だ」
「どういうこと?」
「魂が融合しかけてる」
ガブリエラは息を呑んだ。
融合。
つまり、
自分は少しずつ“カサンドラ”になっている?
「嫌……」
思わず声が漏れる。
忘れたくない。
ガブリエラとして生きた記憶を。
愛した日々を。
苦しかったことも、
全部。
するとノクスは静かに振り返った。
「安心しろ」
赤い瞳が真っ直ぐ向けられる。
「お前は消えない」
「……本当に?」
「俺が消させない」
その言葉に、
胸が強く脈打つ。
危険だ。
こんな言葉に、
救われそうになるなんて。
ガブリエラは唇を噛んだ。
その時。
窓の外から鐘の音が聞こえた。
遠く、
街から響く音。
ノクスは窓の外を見る。
「帝都の鐘か」
ガブリエラも立ち上がる。
窓の向こうには、
夜の街並みが見えた。
灯り。
人々の生活。
そして――。
帝城。
かつて、
自分が婚約者として訪れていた場所。
胸が締め付けられる。
五年。
自分が死んでから、
世界はどう変わったのだろう。
ノクスはそんな彼女を見ていた。
「知りたいか?」
「……え?」
「お前が死んだ後のこと」
ガブリエラの指先が震える。
怖かった。
聞きたくない。
でも、
知りたい。
ノクスは静かに告げた。
「今の帝国では、
お前は“裏切り者の令嬢”として語られてる」
胸に刃が刺さったようだった。
やはり。
死んでもなお、
汚名は消えていない。
ノクスは続ける。
「義妹のセレナは、
悲劇の妹として人気者だ」
「……っ」
「皇太子とも婚約した」
その瞬間。
頭が真っ白になった。
レオンハルトが。
セレナと。
分かっていたはずなのに、
現実として聞かされると苦しい。
息ができない。
ノクスはじっと彼女を見る。
「泣くか?」
ガブリエラは震える唇を噛み締めた。
そして。
ゆっくり首を横に振る。
「……泣かない」
もう決めた。
弱いままでは終わらない。
奪われたまま終わるつもりはない。
赤い瞳が静かに燃える。
「全部、取り戻す」
ノクスはその顔を見て、
ゆっくり笑った。
「ようやく、
いい顔になってきたな」




