第四章『黒炎の抱擁』
轟音が世界を裂いた。
黒い炎はまるで生き物のようにうねり、
地下牢を覆っていた聖なる結界を喰らっていく。
白銀の光と漆黒の炎が激突し、
空間そのものが悲鳴を上げているようだった。
神官たちは恐怖に満ちた声を上げた。
「結界が……!」
「馬鹿な……!!」
「こんな力、人間では……!」
ノクスは無表情のまま、
片腕でカサンドラを抱き寄せている。
その腕は驚くほど安定していた。
暴風のような魔力の中心にいるはずなのに、
彼の周囲だけ静寂がある。
ガブリエラは息を呑んだ。
強い。
あまりにも。
レオンハルトも強かった。
帝国最強の剣士と呼ばれていた。
けれど、
目の前の男は別格だ。
まるで“災厄”そのもの。
神官長が歯を食いしばる。
「貴様……っ、ここで魔王戦争を再び起こす気か!!」
ノクスは冷たく笑った。
「先に戦争を始めたのはお前たちだろう?」
その瞬間。
神官長の顔色が変わる。
ガブリエラは違和感を覚えた。
今の言葉。
まるで――。
神殿が何かを隠しているような。
だが考えるより早く、
結界が砕け散った。
轟音。
白い光が弾け飛ぶ。
神官たちが吹き飛ばされ、
地下牢の壁へ叩きつけられた。
「がぁっ!!」
「ぐっ……!!」
石壁に亀裂が走る。
天井が崩れ始める。
このままでは地下牢そのものが崩壊する。
ノクスはカサンドラを抱き上げた。
突然身体が浮き、
ガブリエラは息を呑む。
「えっ――」
「舌噛むなよ」
次の瞬間。
視界が黒に染まった。
凄まじい浮遊感。
身体が引き裂かれそうになる。
転移。
ガブリエラは咄嗟にノクスの服を掴んだ。
怖い。
恐ろしい。
だが――。
不思議と、
彼の腕の中は温かかった。
⸻
次に視界が開けた時。
そこは森だった。
夜風が吹いている。
月明かり。
草の匂い。
土の感触。
地下牢とは違う、
“外”の空気。
ガブリエラは呆然と周囲を見回した。
「ここは……」
「神殿から少し離れた場所だ」
ノクスはそう言って、
ゆっくりカサンドラを下ろした。
足が震える。
五年。
いや、
カサンドラとしてはもっと長い年月、
地下に閉じ込められていた。
外の世界を見るのは、
いつ以来なのだろう。
夜空を見上げた瞬間。
胸が締め付けられる。
綺麗だった。
涙が零れそうになるほど。
ノクスはそんな彼女を静かに見つめていた。
「……初めて見る顔だな」
「え?」
「嬉しそうな顔」
ガブリエラは目を伏せる。
そんな顔を、
自分がしていたのか分からない。
だが、
胸の奥が少し温かかった。
その時だった。
突然、
身体がぐらりと揺れる。
「っ……」
頭痛。
視界が歪む。
大量の記憶が流れ込んでくる。
幼いカサンドラ。
暗い部屋。
一人で歌っている。
寂しそうに。
『お母さま……』
小さな声。
そして――。
優しい女性の手。
銀色の髪。
微笑み。
『あなたは悪くないわ』
次の瞬間。
血。
炎。
悲鳴。
女性が胸を貫かれ倒れる。
『逃げて、カサンドラ!!』
「――っ!!」
ガブリエラは膝をついた。
息ができない。
苦しい。
悲しみが、
胸を引き裂く。
ノクスがすぐ隣にしゃがみ込む。
「また記憶か」
低い声。
ガブリエラは震えながら頷いた。
「母親……が……」
ノクスの目が僅かに細められる。
「……思い出したか」
「知ってるの?」
「少しはな」
彼はそれ以上語らない。
だがその表情は、
どこか苦しげだった。
ガブリエラは呼吸を整えながら、
ノクスを見上げる。
「あなたは……誰なの」
「言っただろ。ノクスだ」
「そうじゃなくて……」
知りたい。
なぜ自分を助けたのか。
なぜカサンドラを知っているのか。
なぜ、
こんなにも優しくするのか。
ノクスはしばらく黙っていた。
やがて、
静かに口を開く。
「……お前の母親に借りがある」
「母親に?」
「命をな」
ガブリエラは目を見開いた。
ノクスほどの存在が、
誰かに命を救われた?
信じられない。
だが彼は冗談を言っているようには見えなかった。
夜風が吹く。
黒い髪が揺れる。
ノクスは空を見上げた。
「だから、
お前だけは守ると決めていた」
その言葉に、
胸が強く揺れる。
守る。
またその言葉だ。
どうしてだろう。
彼の声は、
どこか寂しく聞こえる。
ガブリエラは視線を逸らした。
「……私は守られるような人間じゃない」
ノクスがこちらを見る。
「どういう意味だ?」
「私は弱かったから」
唇を噛み締める。
思い出す。
婚約破棄の日。
誰も信じてくれなかった。
何もできなかった。
殺される時でさえ、
抵抗すらできなかった。
「全部奪われた」
声が震える。
「家族も……居場所も……愛してた人も……」
ノクスは黙って聞いていた。
ガブリエラは拳を握る。
「だからもう、
誰かに期待なんてしない」
その瞬間。
ノクスの指が、
そっと彼女の頬へ触れた。
びくりと身体が震える。
彼は静かな目で見つめていた。
「なら利用しろ」
「……え?」
「守られるのが嫌なら、
俺を利用すればいい」
低く甘い声。
夜の闇のような瞳。
「復讐したいんだろ?」
その言葉に、
ガブリエラの呼吸が止まる。
復讐。
心の奥に沈めていた感情が、
再び燃え上がる。
セレナ。
義母。
奪った者たち。
そして――。
レオンハルト。
ノクスは微笑む。
「力なら貸してやる」
悪魔の囁きのようだった。
けれど。
今のガブリエラには、
その誘惑を拒めなかった。




