第三章『魔王の使者』
崩れ落ちた天井から、
白い粉塵が静かに降り続いていた。
地下牢は半壊し、
神官たちは混乱の中で叫び声を上げている。
「結界を張れ!!」
「絶対に近づけるな!!」
「魔族を地下へ入れるな!!」
だが――。
その怒号すら、
男の前では意味を持たなかった。
ノクス。
その名を聞いただけで、
神官たちの顔色が変わる。
まるで、
死神でも現れたかのように。
ノクスは瓦礫の上をゆっくり歩いた。
靴音が響く。
それだけなのに、
地下牢全体の空気が張り詰める。
神官長が険しい顔で睨みつけた。
「なぜ貴様がここにいる」
ノクスは笑う。
「質問をする立場か?」
低い声。
静かなのに、
肌が粟立つほど冷たい。
神官長の背後にいた神官の一人が、
震える手で杖を向けた。
「ば、化け物め!!」
光の魔法陣が展開される。
次の瞬間。
無数の光槍が、
ノクスへ放たれた。
轟音。
閃光。
しかし――。
「え……?」
神官たちが凍りつく。
ノクスは避けてもいなかった。
ただ立っているだけ。
光槍は彼の周囲で黒い霧に呑まれ、
跡形もなく消滅していた。
「その程度か」
退屈そうな声。
次の瞬間。
神官の身体が宙に浮いた。
「がっ……!?」
見えない力に首を掴まれている。
神官は苦しげに足をばたつかせた。
ノクスは冷たい目で見上げる。
「……五月蝿い」
ぐしゃり。
鈍い音。
神官の首が、
あり得ない方向へ折れ曲がった。
修道女が悲鳴を上げる。
ガブリエラも息を呑んだ。
死。
あまりにも一瞬だった。
ノクスは死体に興味を失ったように、
視線を逸らす。
そして、
真っ直ぐカサンドラを見る。
「怖い?」
問われて、
ガブリエラは答えられなかった。
怖い。
確かに怖い。
だがそれ以上に、
彼から感じる奇妙な懐かしさがあった。
カサンドラの記憶が反応している。
――この人を知っている。
だが思い出せない。
ノクスはゆっくり近づく。
神官たちは誰も止められない。
まるで、
圧倒的な格の差を理解しているように。
神官長だけが低く呟いた。
「……魔王の犬が」
その瞬間。
空気が凍りついた。
ノクスの笑みが消える。
紅い瞳が、
氷のように冷たく細められた。
「今、何て言った?」
神官長は怯まない。
「貴様ら魔族は、
永遠に神へ跪く存在だ」
空気が重くなる。
次の瞬間だった。
轟音。
神官長の身体が壁へ叩きつけられる。
「っ……!!」
地下牢が揺れる。
見えなかった。
誰も。
ノクスが動いた瞬間を。
彼は神官長の喉を片手で掴み、
壁へ押し付けていた。
「勘違いするなよ」
低い声。
怒りを押し殺した声音。
「神など、
とうの昔に腐っている」
神官長の顔が歪む。
それでも笑った。
「……だからこそ、
我々は“器”を必要としている」
器。
その言葉に、
ノクスの目が細くなる。
神官長は、
苦しげに笑いながらカサンドラを見た。
「その娘は、
神を降ろすための生贄だ」
ガブリエラの背筋が凍る。
神を降ろす。
生贄。
意味が分からない。
だが、
絶対に碌なものではない。
ノクスは無表情のまま、
神官長を見下ろした。
「……随分好き勝手使ってくれたな」
その声は静かだった。
だが逆に、
底知れない怒気を感じる。
神官長は笑う。
「魔王も神も、
結局は同じだろう?」
「違う」
ノクスは即答した。
「少なくとも俺は、
こんな子供を玩具にはしない」
その瞬間。
ガブリエラの胸が強く揺れた。
誰かに、
守るような言葉を向けられたのは、
いつ以来だろう。
レオンハルトも昔は優しかった。
だが最後には、
自分を切り捨てた。
だからもう、
誰も信じないと決めたのに。
ノクスはカサンドラへ手を伸ばす。
「来い」
その手は大きく、
温かかった。
だがガブリエラは動けない。
怖かった。
この男について行けば、
もう戻れない気がした。
人間としても。
ガブリエラとしても。
するとノクスは、
少し困ったように笑った。
「警戒するのも無理はないか」
彼は片膝をつく。
目線を合わせるように。
「じゃあ質問を変えよう」
紅い瞳が真っ直ぐ見つめてくる。
「ここに残りたい?」
その言葉と同時に、
カサンドラの記憶が蘇る。
暗い地下。
鎖。
鞭。
焼ける痛み。
泣き声。
誰も助けてくれなかった日々。
身体が震える。
嫌だ。
ここは嫌。
もう、
閉じ込められたくない。
ガブリエラは唇を噛み締めた。
「……行く」
ノクスが目を細める。
「いい子だ」
その時だった。
神官長が叫ぶ。
「逃がすなぁぁぁ!!」
巨大な魔法陣が展開される。
地下牢全体を覆う、
白銀の結界。
神聖魔法。
ノクスの眉が僅かに動いた。
「転移封印か」
神官たちが一斉に詠唱を始める。
空気が震える。
膨大な聖属性魔力。
カサンドラの身体が悲鳴を上げた。
「っ……ぁ……!!」
苦しい。
皮膚が焼ける。
この身体は、
聖属性に強く拒絶反応を示している。
ノクスはすぐにカサンドラを抱き寄せた。
その瞬間。
痛みが和らぐ。
彼の身体から流れる黒い魔力が、
優しくカサンドラを包み込んでいた。
「大丈夫」
耳元で囁かれる低い声。
不思議と安心する。
ノクスは神官たちを見上げた。
「……なら、力づくで壊すか」
次の瞬間。
彼の背後に、
巨大な黒い魔法陣が現れた。
空間が軋む。
圧倒的な魔力。
神官たちが恐怖に顔を歪めた。
「や、やめ――」
轟音。
世界が揺れる。
黒い炎が、
結界ごと地下牢を呑み込んだ。




