第二章『忌み子の檻』
地下牢には、
昼も夜も存在しなかった。
湿った石壁から滴る水音だけが、
時間の流れを教えている。
ガブリエラ――いや、
今は“カサンドラ”として生きる少女は、
冷たい床へ膝を抱えて座っていた。
先ほど吹き飛ばした神官は、
その後すぐに別の神官たちによって運び出された。
だが彼らは、
誰一人としてカサンドラへ近づこうとはしなかった。
まるで、
本当に怪物を見るように。
「……化け物、か」
ぽつりと呟く。
その瞬間、
胸の奥に鈍い痛みが走った。
それはガブリエラの感情ではない。
カサンドラ自身の傷だった。
『お前なんか産まなければ良かった』
『災厄の子』
『神を汚した悪魔』
頭の中に響く罵声。
幼い少女が、
暗い部屋の隅で耳を塞ぎ泣いている。
――これは、カサンドラの記憶。
ガブリエラは息を呑んだ。
自分の感情とは別に、
この身体に刻まれた痛みが流れ込んでくる。
孤独。
恐怖。
絶望。
誰にも愛されなかった少女。
その時、
鉄格子の向こうから足音が聞こえた。
カツ、カツ、と
規則正しい音。
ガブリエラは顔を上げる。
現れたのは、
年老いた修道女だった。
白髪混じりの髪。
痩せた身体。
彼女は怯えるように、
少し距離を置いて立っている。
「……食事です」
差し出されたのは、
冷え切ったスープと固いパン。
家畜以下の食事。
ガブリエラはそれを見下ろした。
かつて侯爵令嬢だった頃、
こんな食事をしたことはない。
だが今は、
そんな誇りなど意味がなかった。
修道女は震える声で言う。
「今日は……処刑の日ではありませんから」
「処刑?」
「……っ」
修道女は慌てて口を押さえた。
だが、
もう遅かった。
ガブリエラはゆっくり立ち上がる。
「どういう意味?」
赤い瞳に見つめられ、
修道女は顔を青ざめさせた。
「わ、私は何も……!」
「答えて」
静かな声だった。
しかし、
それだけで空気が凍る。
修道女は耐えきれず、
涙を浮かべながら口を開く。
「神殿では……定期的に“浄化”を……」
「浄化?」
「魔の血を抑えるため、
聖なる儀式を……」
そこで彼女は言葉を詰まらせた。
いや、
言えなかったのだ。
何をされているのか。
カサンドラの記憶が、
再び流れ込む。
冷たい祭壇。
身体を縛る鎖。
皮膚を焼く聖印。
悲鳴。
泣き叫ぶ声。
そして――。
『もっと魔力を引き出せ』
『死ぬなよ、化け物』
ガブリエラの胃が痙攣した。
吐き気が込み上げる。
これが、
この少女の日常だった。
「……最低」
掠れた声が漏れる。
神を崇める神殿が、
少女一人を虐待していた。
それも、
何年も。
修道女は俯く。
「私たちは逆らえません……神官長様は、この国で絶対なのです……」
「神官長……」
その名前を聞いた瞬間。
カサンドラの感情が激しく揺れた。
恐怖。
憎悪。
嫌悪。
身体が震える。
それほどまでに、
その存在は深く刻み込まれていた。
ガブリエラは拳を握る。
爪が食い込み、
血が滲む。
すると突然、
鉄格子の向こうから怒号が響いた。
「下がれ!!」
修道女が悲鳴を上げる。
現れたのは、
白銀の法衣を纏った男だった。
長い白髪。
細い目。
蛇のように粘つく笑み。
「神官長……」
修道女は震えながら跪く。
男はゆっくりと、
カサンドラを見つめた。
その視線に、
本能的な嫌悪感が走る。
「ほう……」
男は口元を歪める。
「随分と面白い魔力を出せるようになったな、カサンドラ」
ガブリエラは睨み返した。
すると神官長は笑う。
「その目だ」
ぞくりとした。
「やはり、お前は“器”として完成に近づいている」
器。
その言葉に、
胸騒ぎがする。
神官長は鉄格子越しに、
そっとカサンドラの頬へ触れた。
瞬間。
身体が凍る。
嫌悪感で吐きそうになる。
「やめて」
「これは神の御意思だ」
指が首筋を撫でる。
まるで品定めするように。
ガブリエラの中で、
怒りが爆発した。
――触るな。
黒い魔力が、
一気に膨れ上がる。
床が軋む。
空気が震える。
神官長の目が細められた。
「……ほう?」
次の瞬間。
轟音と共に、
鉄格子が吹き飛んだ。
修道女の悲鳴。
舞い散る石片。
黒い魔力が、
嵐のように荒れ狂う。
ガブリエラ自身、
制御できなかった。
怒りに反応して、
魔力が暴走している。
「っ……!」
胸が苦しい。
頭が割れそうに痛む。
すると神官長は、
興奮したように笑い出した。
「素晴らしい……!!」
狂気じみた笑み。
「やはりお前は最高傑作だ!!」
その目は、
人を見る目ではない。
実験動物を見る目だった。
ガブリエラは恐怖した。
この男は危険だ。
本能が叫んでいる。
神官長は恍惚とした声で囁く。
「もうすぐだ……もうすぐ“神”が降臨する……」
その時だった。
突然、
地下牢全体が揺れた。
轟音。
悲鳴。
遠くで爆発音が響く。
神官たちの叫び声。
「敵襲だ!!」
「魔族だ!!」
空気が変わる。
神官長の顔から笑みが消えた。
「……何?」
次の瞬間。
地下牢の天井が、
轟音と共に崩壊した。
瓦礫。
砂煙。
その中心に、
一人の男が立っていた。
漆黒の外套。
闇色の髪。
紅い瞳。
そして、
人間とは思えないほど美しい顔。
男は煙の向こうから、
まっすぐカサンドラを見つめる。
「ようやく見つけた」
低く甘い声。
その瞬間。
カサンドラの心臓が、
強く脈打った。
男はゆっくり笑う。
「迎えに来たよ、“姫”」
地下牢に、
闇の気配が満ちていく。
そして――。
神官たちが、
恐怖に震えながらその名を口にした。
「魔王軍……“ノクス”……!!」




