第十九章『名を呼ぶ声』
静寂が落ちた瞬間、
会場の空気は凍りついた。
誰も動かない。
誰も息をしない。
ただ、レオンハルトの声だけが残響のように響いていた。
「……ガブリエラ」
その名。
かつての婚約者の名。
だが今そこに立つ少女は、
死んだはずの存在の面影を持ちながらも別人だった。
ガブリエラの喉がひくりと動く。
言葉が出ない。
レオンハルトの蒼い瞳が、
迷いながらも確信へと傾いていく。
「……生きているのか」
掠れた声。
ノクスが一歩前に出る。
空気が変わる。
黒い魔力が微かに揺れ、
周囲の光が沈む。
「それ以上近づくな」
低い声。
だがレオンハルトは止まらない。
「お前は誰だ」
再び問う。
今度はガブリエラへ。
「その魔力、その顔、その気配……」
彼は息を呑むように続けた。
「……ガブリエラに似ている」
セレナの指先が微かに震える。
だが彼女は笑顔を崩さない。
「殿下、お戯れを」
甘い声。
しかしその裏に、
鋭い刃が隠れている。
ガブリエラは胸が痛かった。
呼ばれている。
なのに否定しなければならない。
今はまだ。
ここで正体が割れれば終わる。
ノクスが小さく囁く。
「答えるな」
その声に、
ガブリエラはゆっくり息を吐いた。
だがその時だった。
レオンハルトが一歩踏み出した。
距離が縮まる。
そして――。
「触れるだけでいい」
彼は静かに言った。
「確認させてくれ」
会場がざわめく。
セレナの笑みが一瞬だけ崩れる。
ガブリエラは後退しかける。
その瞬間。
ノクスが腕を掴んだ。
「やめろ」
レオンハルトはノクスを見る。
初めて真正面から。
「……お前は誰だ」
ノクスは即答する。
「彼女の護衛だ」
「護衛?」
その言葉に、
レオンハルトの瞳がわずかに冷たくなる。
「なら退け」
「断る」
一瞬で空気が張り詰める。
周囲の貴族たちが息を呑む。
セレナが微笑んだまま、
ゆっくりと手を上げた。
「殿下、落ち着いてくださいませ」
その声は柔らかい。
だが視線は冷たい。
「そちらの方も、少しお行儀が悪いようですわね」
ガブリエラの胸が締め付けられる。
“そちらの方”。
まるで知らない人間を見るような言い方。
その瞬間だった。
レオンハルトの視線が、
再びガブリエラへ戻る。
「……お前」
低く、震える声。
「目を逸らすな」
ガブリエラの心臓が跳ねる。
逃げられない。
その目は、
“疑い”ではなく“確信に近い執着”だった。
レオンハルトはゆっくりと手を伸ばす。
今度こそ。
確かめるために。
その瞬間――。
ガブリエラの中で何かが弾けた。
記憶。
感情。
封じていた断片。
白い部屋。
血の匂い。
セレナの笑い声。
そして。
レオンハルトの声。
『君を守る』
その全てが一気に押し寄せる。
「っ……!」
ガブリエラの黒翼が、
無意識に震えた。
バサッ――!
空気が割れる。
漆黒の羽が一瞬だけ広がる。
会場が一斉にざわめく。
「翼……!?」
「魔族か!?」
悲鳴。
その中で、
レオンハルトだけが動かなかった。
ただ見ていた。
目を見開き、
息を止めたまま。
「……やはり」
震える声。
「ガブリエラ……なのか」
その言葉は、
確信でも疑いでもなかった。
祈りに近かった。
ガブリエラは唇を噛む。
もう隠せない。
でも。
ここで答えれば、
すべてが崩れる。
ノクスが低く言う。
「離れろ」
だがレオンハルトは聞かない。
彼の瞳には、
セレナも会場ももう映っていなかった。
ただ一人。
目の前の少女だけ。
その時。
セレナがゆっくりと歩み出る。
「殿下」
甘い声。
だがその瞳は冷たい。
「そのような得体の知れない者に惑わされてはなりません」
レオンハルトは答えない。
セレナは笑顔のまま続ける。
「彼女は危険ですわ」
その言葉に、
会場の空気が再び揺れる。
だが――。
レオンハルトは初めてセレナを見た。
そして静かに言った。
「お前は……何かを隠しているな」
その一言で。
空気が完全に変わった。
セレナの笑みが、
ほんのわずかに消える。
ガブリエラの胸が強く鳴った。
夜会はもう、
“仮面の時間”ではなくなっていた。




