第十六章『忘れられた婚約者』
翌朝。
空はまだ薄曇りだった。
森を抜け、
帝都へ向かう馬車の中。
ガブリエラは窓の外をぼんやり眺めていた。
近づく帝都。
五年前、
自分が生きていた場所。
幸せだと思っていた場所。
その全てが、
今は遠い。
向かい側では、
ノクスが腕を組んで座っていた。
黒い外套を纏い、
相変わらず隙がない。
だが。
右腕にはまだ包帯が巻かれている。
神の光による傷。
ガブリエラはちらりとその腕を見る。
気になる。
痛くないのだろうか。
ノクスは視線に気づいた。
「なんだ」
「……傷」
「平気だ」
「またそれ」
ガブリエラは少し眉を寄せる。
ノクスは小さく笑った。
「心配してくれてるのか?」
「当たり前でしょ……」
その瞬間。
ノクスの目が僅かに細められた。
ガブリエラはそこで、
自分が自然に“心配”と言ったことへ気づく。
顔が熱くなる。
以前なら。
誰かをこんな風に気にする余裕なんてなかった。
ノクスは窓へ視線を戻した。
「もうすぐ帝都だ」
空気が少し変わる。
ガブリエラの胸も重くなった。
帝都には、
過去がある。
レオンハルト。
セレナ。
義母。
全部。
忘れたくても忘れられない。
馬車が門を抜ける。
帝都ルミナス。
人々の笑い声。
行き交う馬車。
華やかな店。
五年前と変わらないようで、
どこか違う。
ガブリエラは静かに息を呑む。
すると。
広場の中央で、
大きな歓声が上がった。
「皇太子殿下だ!!」
その瞬間。
心臓が強く脈打つ。
ガブリエラは反射的に顔を伏せた。
だが。
聞こえてしまう。
人々の声が。
「今日も素敵……!」
「セレナ様との婚礼、
本当に楽しみよね」
婚礼。
その言葉が胸へ刺さる。
ガブリエラは唇を噛んだ。
ノクスは横目で彼女を見る。
「……平気か」
「平気」
また嘘だった。
胸が苦しい。
呼吸が浅い。
ノクスは小さく息を吐く。
「無理なら離れるぞ」
「やだ」
即答だった。
ノクスが少し驚く。
ガブリエラは拳を握った。
「逃げたくない」
震える声。
それでも。
瞳だけは真っ直ぐだった。
ノクスは数秒黙ったあと、
ふっと笑う。
「強くなったな」
その言葉が少し嬉しい。
だが。
次の瞬間。
馬車の外から、
女性の笑い声が聞こえた。
「レオンハルト様♡」
聞き覚えのある声。
ガブリエラの身体が凍る。
恐る恐る視線を向ける。
そこには――。
セレナがいた。
桃色のドレス。
美しく整えられた髪。
まるで物語のお姫様のような姿。
そして。
その隣には、
レオンハルト。
ガブリエラの呼吸が止まる。
二人は並んで歩いていた。
近い距離。
自然に触れ合う手。
幸せそうな笑顔。
胸が裂けそうだった。
セレナは甘えるように笑う。
「今日の夜会、
楽しみですね」
レオンハルトは微笑む。
「……ああ」
優しい声。
昔、
自分へ向けていたもの。
ガブリエラは目を逸らした。
見ていられない。
その時だった。
ふと。
レオンハルトがこちらを見る。
蒼い瞳。
真っ直ぐ。
一瞬で、
空気が変わる。
彼の足が止まった。
セレナが不思議そうに振り返る。
「レオンハルト様?」
だが。
彼は答えない。
ただ。
ガブリエラを見ていた。
まるで、
何かを探すように。
ノクスが静かにフードを深く被せる。
「見るな」
低い声。
ガブリエラは我に返る。
だが、
遅かった。
レオンハルトは馬車へ近づいてくる。
「……待て」
低く掠れた声。
ガブリエラの心臓が跳ねる。
どうして。
どうしてそんな顔をするの。
彼は困惑していた。
苦しそうに眉を寄せている。
まるで、
失った何かを追いかけるように。
セレナが不機嫌そうに言う。
「どうしたんですか?」
「……いや」
レオンハルトは視線を逸らせないまま、
小さく呟く。
「似ていた」
ガブリエラの胸が痛む。
似ていた。
その程度。
もう自分は死んだ人間なのだ。
当然だ。
なのに、
涙が出そうになる。
その時。
セレナの視線が、
ちらりとガブリエラへ向いた。
そして。
一瞬だけ。
笑みが止まる。
ガブリエラは息を呑んだ。
セレナの瞳に、
確かな動揺が浮かんでいた。
まさか。
気づいた?
あり得ない。
この顔はカサンドラだ。
だが。
女の勘なのか。
セレナはじっとこちらを見つめている。
空気が重い。
するとノクスが突然、
ガブリエラの肩を抱き寄せた。
「行くぞ」
そのまま馬車を降り、
彼女を連れて歩き出す。
密着する距離。
周囲から視線が集まる。
ガブリエラは真っ赤になった。
「ちょ、ちょっと……!」
「黙ってろ」
ノクスはわざとらしく彼女の髪へ触れる。
親密さを見せつけるように。
その瞬間。
レオンハルトの顔色が変わった。
蒼い瞳が鋭く細められる。
明らかな敵意。
ノクスはそれを見て、
わざと笑った。
挑発だ。
ガブリエラは理解してしまう。
そして。
レオンハルトは低く呟いた。
「……誰だ、あいつ」
その声には、
本人すら気づいていない苛立ちが混ざっていた。




