第十三章『眠る手の温度』
暖炉の火が静かに揺れていた。
外はまだ薄暗い。
夜明け前なのだろう。
ガブリエラはぼんやりと天井を見つめた。
身体が重い。
けれど、
昨日までのような暴走感はなかった。
代わりに、
胸の奥が妙に静かだった。
視線を動かす。
隣ではノクスが椅子へ座ったまま眠っていた。
長い黒髪が額へ落ち、
閉じられた瞳は思った以上に穏やかだ。
いつもなら余裕そうに笑っている男が、
今は無防備に見える。
そして。
彼の手は、
ガブリエラの手を握ったままだった。
温かい。
その熱が、
じわりと胸へ広がる。
ガブリエラはそっと指を動かした。
すると。
ノクスの瞳がゆっくり開く。
赤い瞳。
眠気を残したまま、
真っ直ぐこちらを見る。
「……起きたか」
掠れた低い声。
それだけで、
心臓が跳ねた。
ガブリエラは慌てて視線を逸らす。
「ご、ごめん……
起こした?」
「いや」
ノクスは軽く息を吐いた。
そのまま彼女の額へ手を当てる。
「熱はないな」
「……心配しすぎ」
「誰のせいだと思ってる」
呆れた声。
けれど、
どこか安心したようにも聞こえた。
ガブリエラは小さく唇を噛む。
昨夜のことを思い出していた。
黒翼。
暴走。
そして。
『綺麗だ』
あの言葉。
胸が熱くなる。
ノクスはそんな彼女を見ながら、
少し眉を寄せた。
「……まだ苦しいか?」
「え?」
「翼」
ガブリエラは背中へ意識を向ける。
すると。
黒い羽が、
小さく揺れた。
「……っ」
驚いて身体を起こす。
翼は消えていなかった。
大きな漆黒の翼が、
背中から伸びている。
ガブリエラの顔が青ざめる。
「ど、どうしよう……!」
「落ち着け」
ノクスは冷静だった。
「覚醒直後は制御できなくて当然だ」
「でもこれじゃ……」
「隠せば問題ない」
彼は立ち上がり、
棚から黒い布を持ってくる。
「背中向けろ」
言われるまま向く。
ノクスの手が、
翼へ触れた。
びくりと身体が震える。
「っ……」
「痛いか?」
「ち、違……」
違う。
痛いわけじゃない。
ただ、
翼を触られる感覚が妙に敏感で。
背筋がぞくりとする。
ノクスは一瞬動きを止めた。
「……敏感だな」
低い声。
ガブリエラの顔が一気に熱くなる。
「なっ……!」
ノクスは少しだけ笑った。
絶対わざとだ。
ガブリエラは羞恥で耳まで赤くなる。
だがノクスは淡々と布を巻き、
翼を隠していく。
不思議だった。
彼に触れられると、
翼が暴れない。
むしろ落ち着いていく。
ノクスは結び目を整えながら言った。
「契約の影響だな」
「……契約」
その単語だけで、
昨夜の口づけを思い出してしまう。
唇が熱い。
ノクスは彼女の反応を見て、
小さく目を細めた。
「今さら照れるな」
「無理に決まってるでしょ……!」
思わず声が大きくなる。
ノクスは珍しく吹き出した。
「ははっ」
その笑い声に、
ガブリエラは目を瞬かせる。
こんな風に、
楽しそうに笑うんだ。
少しだけ見惚れてしまう。
すると。
突然、
ノクスの表情が真面目に戻った。
「……ガブリエラ」
名前を呼ばれる。
低く、
優しい声。
ガブリエラの胸が高鳴る。
「お前、
昨日かなり危なかった」
「……うん」
「次また暴走したら、
本当に命に関わる」
その瞳には冗談がなかった。
ガブリエラは俯く。
怖い。
また誰かを傷つけるかもしれない。
自分が自分じゃなくなる感覚も。
ノクスは静かに続けた。
「だから力を制御する訓練を始める」
「訓練……」
「翼も魔力も、
全部お前自身のものにする」
ガブリエラは小さく頷いた。
逃げてばかりじゃいけない。
復讐したいなら。
生き残りたいなら。
強くならなければ。
その時。
部屋の扉が勢いよく開いた。
「朝から空気甘すぎるんだけど?」
リリスだった。
ガブリエラが一気に固まる。
ノクスは露骨に嫌そうな顔をした。
「ノックしろ」
「したわよ。
聞こえてなかっただけでしょ」
リリスはニヤニヤしながら二人を見る。
「へぇ〜、
手まで繋いじゃって」
ガブリエラは慌てて手を離した。
「ち、違……!」
「何が違うの?」
「これはその、
寝てただけで……!」
リリスは完全に面白がっていた。
ノクスは深く溜息を吐く。
「朝からうるさい」
「だって珍しいじゃない。
あなたがそんな顔するの」
その瞬間。
ノクスの目が僅かに細くなる。
リリスは意味深に笑った。
「昔のあなたなら、
絶対誰かを傍に置かなかったもの」
ガブリエラはきょとんとする。
昔のノクス。
今よりもっと冷たかったのだろうか。
ノクスは話題を切るように立ち上がった。
「準備しろ」
「どこ行くの?」
リリスが答える。
「訓練場」
紫の瞳が細められる。
「神殿に追われるなら、
もう“普通の女の子”じゃいられないわ」
その言葉に、
ガブリエラは静かに息を飲んだ。
復讐。
神殿。
力。
全部現実になっていく。
もう戻れない。
ガブリエラはそっと拳を握る。
するとノクスが、
その手へ軽く触れた。
「大丈夫だ」
赤い瞳が真っ直ぐ向けられる。
「俺がいる」
その言葉だけで。
胸の奥が、
どうしようもなく熱くなった。




