第百九章『深淵の瞳』
『見つけた』
その声が響いた瞬間――空間そのものが歪んだ。
旧聖域の神殿が激しく軋み、床へ無数の亀裂が走る。
まるで世界が悲鳴を上げているかのようだった。
門の隙間。
そこから覗く無数の“目”。
赤、金、紫、黒――異なる色を持つ瞳たちが、一斉にガブリエラを見つめている。
ぞわり、と全身へ悪寒が走った。
「ぁ……っ……」
呼吸ができない。
視線だけで心を侵食される。
ノクスは即座にガブリエラを抱き寄せ、その視界を塞ぐように覆った。
「見るな!!」
怒号に近い声だった。
同時に黒炎が爆発し、門から漏れ出た瘴気を焼き払う。
だが完全には消えない。
まるで“向こう側”そのものが瘴気を生み続けているようだった。
レオンハルトが剣を構え直す。
「ふざけた数だな……!」
門の奥。
そこには“何か”がいる。
まだ姿は見えない。
だが本能が理解していた。
出てきてはいけないものだと。
その時、先ほど吹き飛ばされた黒い怪物がゆっくり立ち上がった。
傷ついた甲殻が再生していく。
『門は開き始めた』
怪物は恍惚とした声で呟く。
『巫女がいる限り、いずれ完全に繋がる』
ガブリエラの紋章が強く光った。
激痛。
胸を抉られるような苦しみに彼女は膝をつく。
「っぁ……!!」
「ガブリエラ!」
ノクスが支える。
しかし紋章はまるで呼応するように脈打っていた。
門と共鳴している。
怪物はゆっくり腕を広げた。
『巫女とは“鍵”だ』
『門を閉じるためではない』
『開くためのな』
その言葉に、空気が凍りついた。
レオンハルトが目を見開く。
「……何?」
ガブリエラ自身も信じられなかった。
自分は人々を守る巫女ではなかったのか。
なのに。
門は、自分を求めている。
頭の奥で無数の声が響く。
『帰ってこい』
『こちらへ』
『器』
「いや……っ」
ガブリエラは耳を塞ぐ。
だが止まらない。
ノクスは怪物を睨みつけた。
「黙れ」
その声には殺気が滲んでいた。
怪物は笑う。
『怒るな、黒翼』
『お前も本来はこちら側の存在だろう?』
その瞬間。
ノクスの動きが止まった。
ほんの一瞬。
だがガブリエラは見逃さなかった。
「……ノクス?」
レオンハルトも眉をひそめる。
怪物は愉悦を滲ませながら続ける。
『忘れたのか?』
『お前は“門”の向こうで生まれた失敗作だ』
静寂。
次の瞬間、神殿全体を揺らすほどの魔力が噴き上がった。
ノクスだった。
赤い瞳が妖しく輝き、黒炎が嵐のように荒れ狂う。
「……それ以上喋るな」
声が低い。
感情を押し殺している。
だがその奥には凄まじい怒りと――恐怖があった。
ガブリエラは息を呑む。
ノクスが怯えている。
そんな姿を初めて見た。
怪物は一歩ずつ近づいてくる。
『お前は半端者だ』
『向こう側にも、こちら側にもなれない』
『だから捨てられた』
黒炎が暴走する。
床が溶け、空間が悲鳴を上げる。
レオンハルトが叫んだ。
「ノクス!! 落ち着け!」
だがノクスには届いていない。
彼の脳裏には、遠い記憶が蘇っていた。
暗い実験場。
無数の叫び声。
冷たい檻。
そして――“失敗作”と呼ばれ続けた日々。
ノクスは頭を押さえる。
「……黙れ……」
怪物は嗤う。
『お前は何も守れない』
『五百年前も、今も』
その言葉が引き金になった。
黒炎が爆発する。
完全な暴走。
神殿の天井が吹き飛び、漆黒の炎が空へ噴き上がる。
「ノクス!!」
ガブリエラは叫んだ。
だが彼の瞳は今まで見たことがないほど深い闇に染まっていた。
まるで理性を失いかけている。
そして門の奥から、“何か”が笑った。
『ようやく目覚めるか』
その瞬間――。
ノクスの背中から、巨大な黒翼が解き放たれた。




